歴史を学ぶにあたり、IF(もし・・・)の視点は不要ではあるが、面白くはある。
いや、不要な視点だからこそ面白いのだろう。ただし余技だと思う。子供の頃から本筋から脱線するのが大好きであった私だが、一時期ずいぶんと流行った架空歴史ものには手を出さなかった。これは余技というよりも邪道だと思っていたからだ。
しかしながら、真面目に歴史を考察するに当たり、IFの視点は多面的な見方を可能にするので、無下にすることもない。
私が日本の歴史を考えた時に、考えてしまうのは「なぜ、日本は西洋の植民地とならなかったのか」であり、「もし、西洋の植民地となっていたのならば、どのような未来があったのだろうか」である。
アジアに最初にやってきた西欧は、香料を求めてやってきたポルトガルである。インドのゴアに拠点を置き、インドネシアなどに進出していく過程で、漂流した一隻が日本に流れ着いて、鉄砲伝来となったことで知られている。
そのポルトガルだが、スペインに合併されて、より強力に植民地政策を進める過程で、日本へキリスト教の宣教師を送り込んできた。彼らが本国へ情報を送り、植民地政策に大きく貢献した情報員としての任務を有することは、彼らの手紙などから明らかであった。
この時期、西欧の主たる目的は、貿易相手としてのシナであり、黄金の国ジパング、つまり日本であった。アフリカやアジアに対して露骨な蔑視と優越感を持っていたスペインやオランダは、この二か国に驚嘆していた。
シナは西欧を遥かに超えた巨大な帝国であり、都市計画に基づいて築かれた首都・北京の壮大さは彼らを驚嘆させた。インドネシアやフィリピンを容易に征服したスペイン、オランダも武力制覇は諦めざるを得なかった。
一方、当時のヨーロッパの金価格を暴落させた日本の金輸出は、まさに黄金伝説ジバングに相応しいものであり、相当な熱意をもって侵略を目指したが、尖兵たるキリスト教宣教師たちの報告に、その野望を諦めざるを得なかった。
当時の日本は、戦国時代であり、日本各地に武装した兵士が溢れていた。呆れたことに、当時のヨーロッパでも実現していなかった火縄銃による集団戦闘さえ、実際に行われていた。
ちなみに、西欧で火縄銃による大規模な集団戦闘が行われたのは、30年戦争の後半であり、日本はそれに70年先駆けてそれを実現していた。当時の火縄銃は、一発発射すると次弾装填までに一分ちかくかかる。
そこで交替要員を交互に配置しての連続攻撃を思いついたのが、戦国時代後期の雑賀衆である。プロの傭兵軍団であった雑賀衆は、本願寺に雇われて織田信長と激戦を交わしている。この時、大苦戦した信長は、大量の火縄銃による集団戦法を学び取り、自軍にも採用した。そして後に武田騎馬軍団を長篠の戦いにおいて破っている。
3千丁を超える火縄銃を持っていた武将など、当時のヨーロッパにはいなかった。宣教師たちの報告に恐れおののいたスペイン、オランダは、日本への直接的な支配を諦めざるを得なかった。
その後、日本を完全に支配した徳川幕府は、オランダと清に限定して交易することにして、西欧との関わりを排除して、250年にわたる平和な時代を作り上げた。
もし種子島にポルトガル人が流れ着かなかったならば、そして鉄砲伝来がなかった、歴史はどうなったであろうか。鉄砲がなくても戦い馴れた兵士を数十万人抱えた日本であるから、そうやすやすとは侵略を許さなかっただろうと思う。
しかし、鎖国は無理だったように思う。シナ同様に、沿岸の幾つかの町を、交易拠点として西欧に使われていた可能性は高い。後からやってきたイギリスの遣り口などから推測すれば、内乱を起こさせて分断され、事実上の植民地化への道を辿った可能性が皆無とは言えまい。
西欧の植民地と化したアジアの国々の後進性を考えれば、日本が独立国としての地位を守れたことは、まさに武力あってのものである。平和を守るために、必要にして十分な武力があったからこそ、日本は衰えず、支配されず、独自の文化を守ってこれた。
日本史における戦国時代を学ぶならば、この視点は現代にも通じる大切な視点である。しかるに、日教組の強い影響下にある日本の歴史教育の現場では、そのようなことが教えられることはない。
年号やタイトルを暗記することが歴史を学ぶことではない。過去に何があって、それが現代にどれだけ影響しているのか、それを学ぶことが歴史の価値である。反戦教育が平和につながると信じている、おバカ教師がどれほど有害か、よくよく理解して頂きたいものである。
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それまで顔色を伺うばかりであった、オスマン・トルコのスルタンを失墜させた、、、
ヌマンタさんの "産業革命は偉大なり"という意見に賛成です。
(武田は、敗北を機に滅亡へと向かいますが、サファビー・ペルシャは盛り返し、オスマン・トルコから領土を奪還します)。