人は何故、ペットを飼うのだろうか。
人間って生き物は、きわめて集団性が強い。家族、集落、町、そして国家というように社会集団を作る本能を持っている。個体としては、さして強くない生き物の生き残りのための方法であるのは確かだ。
同時に、人間は牛や馬、羊に鶏などを飼育する。もちろん、食料や生活必需品の生産のためであるが、自ら属する種以外の生物を飼育する生き物は極めて珍しい。南米の葉切り蟻が、巣の中でキノコを育てるのが有名だが、むしろ例外中の例外だと思う。
多くの生物は、他種とは共棲もしくは寄生することはあっても、育てるようなことはまずしない。まして、人間のようにペットという愛玩目的で他種を飼育することはない。
なぜか人間だけがペットを飼う。
おそらく人間は孤独が苦手なのだろう。一人でいるよりは、誰かに一緒にいて欲しい。その需要を満たす存在がペットではないだろうか。
私は犬と亀しか、飼ったことがない。犬との間ではある種のコミュニケーションがあったと信じているし、物言わぬ亀でさえ心の間隙を埋めてくれたことは否定しがたい。
実用上の必然性ではなく、精神的な需要を満たしてくれる存在がペットであろうと考えている。
表題の漫画は、カッパをペットとしている人間社会を描いている。週刊ヤング・ジャンプ誌に連載されていたが、長くても10頁程度で、田舎から都会に出てきて一人暮らしをする若いサラリーマンの心の隙間を埋める存在としてのカッパが登場する。
この世界では、天然のカッパは絶滅危惧種で、ほとんどのカッパは養殖により人工飼育されて、ペットとして販売される。ある程度の知性もある一方、カッパとしての習性に囚われる生き物でもある。
奇妙な漫画であったし、劇画が多いヤンジャンのなかでは、一幅の清涼剤的な存在でもあった。主人公をはじめとする人間と、そのペットのカッパたちのおかしくも平凡な日々を描いているだけで、劇的な展開も盛り上がりもない平々凡々たる漫画であった。
そのせいで、いつも流し読みで済ませていた。
だが、年老いた老カッパが主人公の元を訪ねてきたあたりから、目を離せなくなった。この老カッパは、希少な天然種で主人公が幼い時に親が拾ってきて、共に育った間柄である。
せっかく訪ねてくれたのに、都会の空気は天然カッパの身体に堪えたようで、主人公は慌てて老カッパを連れて郷里に帰る。そこには年老いた母が暮らしており、老カッパと共に穏やかな人生を過ごしている。
心揺れ動く主人公は、今後の人生について考え出す。このまま都会でサラリーマンのまま過ごして良いのだろうか、と。
おりしも小泉・竹中構造改革の真っ最中であり、リストラが盛んに行われていた時期に連載されただけに、この漫画の終盤の展開に心動かされた若い読者は少なくないように思う。
生きていくためにはお金は大事だ。稼ぐには都会の仕事が一番、それは厳然たる事実だ。しかし、生きていく為には心の充足もまた大切だ。家族と友人が身近にいるありがたみは、時としてお金に代えがたい価値観を持つ。
田舎を持たない私ではあるが、金と仕事に縛られるだけの人生は御免こうむりたい。東京という都会が田舎になっているので、今の環境を老後に相応しいものに変えていくしかあるまい。
淡々とした流れの漫画ではありましたが、いろいろと考えさせられる漫画でもありました。目にする機会がありましたら、是非ご一読ください。
正に仰る通りと思います。米原万理さんのエッセーの中で、同じ喪失感でも飼い猫が病死した時とお父様が亡くなられた時では微妙に違うというようなことを書かれていたことを思い出しました。頼る相手を失った心もとなさを感じたお父様の時と違って、飼猫が病死したときは自分だけを頼ってくれる存在を失った寂しさを感じたと。ペットの存在はそういうものなんだな~と納得したのを覚えています。機会があったら同書を読んでみたいです。
親を失った時よりも、子供を失った感覚に近いと私もそう思います。これが辛くない訳ないでしょう。子供は与えてくれる喜びも大きい分、失った時の衝撃は我が身を引き裂かれるようなものなのでしょう。