ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

三宿の吉野家

2015-01-16 14:05:00 | 日記

私は高校卒業までの十代の大半を、世田谷は三軒茶屋の裏町にあたる下馬で過ごした。

バブル期の再開発のせいで知人今はなく、訪れることもなくなったので疎くなってしまったが、それでも私にとっては郷里に近い感覚がある町でもある。

先日、車で246号線を走っていた時、三宿の交差点で渋滞にぶつかり、のんびりと徐行運転をしていた時だ。ふと、気になって交差点の角にあるはずの吉野家の看板を探すと見当たらない。

よくよく注視すると、空き家になっていた。さすがに驚いた。帰宅してネットで調べたら、なんと平成21年に閉店していたそうだ。5年ちかくも空き家のままかいな。国道246号線の交差点だぞ。

近年、三宿界隈は券\人がお忍びで通う飲食店が多い場所として知られるようになっている。そのせいか、妙にお洒落を意識したかのような店が増えて、私なんざ、ますます足が遠のいたくらいだ。三宿がお洒落?笑ってしまう。

この吉野家三宿交差点店でアルバイトをしていたのは、高校生の頃だった。近くに職安、今でいうハローワークがあったせいか、失業者と思われる客が多い繁盛店であった。

特に昼時や夕食時は、猫の手もひったくりたいほど忙しい店であった。若かった私も、あの時間帯を終えると、疲労感が体の芯にたまる気がして、夜遊びを控えて休んでいたぐらいだ。

だから閉店は信じがたかった。どうも職安が移転したことと、近くに松屋が出来たことが売上減少につながったらしい。想像だけど、あの地域はバブル最盛期に多くの立ち退きがあり、安アパートなどが次々と取り壊されて、その跡地に瀟洒なマンションが建てられていたことも影響していると思う。

私にとっては、郵便局の年賀はがき配達に次ぐ、まともなバイト先であっただけに、いろんな意味で寂しい気持ちにさせられる。

私が高校生の頃は、けっこう不況風が吹き荒れており、あの店に来る客もすさんだ人が多かった。若かった私も、日ごろは笑顔で接客していたが、時には我慢できないこともあった。

あれは夕刻であったと思う。ふらっと入ってきた中年男性は席に着くなり、「おい!、一番不味いもん、もってこい」と不機嫌そうに怒鳴った。

私の脳内瞬間湯沸かし器にスイッチが入った。むかっ腹をたてた私が、大盛りにしますか?と仏頂面で返事すると「なんだ、この野郎」と返してきた。上等である、すぐに帽子とエプロンを脱ぎ捨て、表に出やがれと啖呵を切って、カウンターを飛び出した。

店の外に出てみると、駆け足で逃げていく件の客の後ろ姿が見えた。なんだよ、あの根性なしと呟いて店に戻った。困った顔の店長に「失業者を苛めないでくれよな」と注意される。でも、他のバイト仲間からは「良く言った」と小声で褒められた。

あァ、みんな苦労しているんだなと気が付き、むしろ私は赤面した。金がない辛さなら、知らない訳ではない。我慢するのもバイト代のうち、そう考えてその後は自制するようになった。

ちなみに、件の客だが外から私がいないのを確認してから、再び店に来るようになったと同僚から聞かされた。やっぱり悪いこと、しちゃったなと自らの短気さを反省した。

客商売はたいへんだと、良く分かった経験である。まさか、あの繁盛店が閉店しているとは思わなかった。時代の流れとは無情なものだ。今ではあの三宿界隈は、おしゃれな街との評を得ているのだから、地元の人たちにはそのほうがありがたいのかもしれない。

暴走族のたまり場であり、失業者のたまり場でもあった、あの三宿がお洒落な街だというのだから、私なんぞはついつい笑ってしまう。もちろん今の方が良いと思う人が多いのだろう。でも、断言しますけど、昔のほうが活気はありましたよ。まァ、お洒落とは程遠かったとは思いますがね。


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8 コメント

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Unknown (アブダビ)
2015-01-16 17:31:57
「一番まずいもの持ってこい!」
「大盛りにしますか?」
この会話、笑いました。とはいえ…
ほんっとに若い頃のヌマンタすんて喧嘩っ速かったんですね(笑)
でも、あの交差点の店、まだ空き家なんすかぁ?
21年頃、40過ぎた鍼灸マッサージ学生だった私は、身障者の企業経営者の「手の代用」人型ロボットとして、あの界隈の高級マンションに出入りしてました。その時も空きテナントだったのに…
私は駒沢だったので、北のキャンパスで教養課程を終えた後で、あの界隈はバイクで通っていたのでさが、ヌマンタさんと時期がずれるのか、やたらと建設予定中または建設中の囲いと、妙にスカしたカフェバーとかしか思い出がないんです。
だから、妙にガラの悪い吉野家は80年代に適応できないイモ兄ちゃんには、くつろげる?場所てした。極真の澁谷の道場生が数人で深夜シフトをしていて、客層も午後10時過ぎには、お洒落化しつつある周囲に逆行するかのガラの悪さを、懐かしく思い出します。
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Unknown (アブダビ)
2015-01-16 18:08:02
あ、すみせん!
前コメント、前半は数年前の話で、
後半はバフル後期の話です。
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Unknown (アブダビ)
2015-01-17 03:54:28
ランドマークだったのに!
三宿交差点の牛丼戦争は松屋に決まりですか、まあ松屋は「豚丼3杯で1杯おまけ!」などの貧者に好意的な政策を取っていたからか…しかし、あそこってハイソ(けっ!)な町でないのか?
先住民たるヌマンタさんには申し訳ないですが、
大学6年の4年を通過していた私には、かなりケタくそ悪い所でして。
虫食い状態のくせして、高い店ばっかで、
「澁谷、青山のバッタもんが!」
「いっぱしの面しやがって!」
「ケッ!」
というのが正直な私の感想です。
あそこの牛丼屋は、今みたいに土方・鳶方面の方々が電車に堂々と乗り込んで来る時代でなかた80年代末期、ブルーカラーな仕事の青年が立ち寄れる
場所でした。
今じゃ金持ち遊び人の町でさね。かといって石頭知事以前の歌舞伎町みたいなダイナミックさも感じない。ケッ!
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Unknown (アブダビ)
2015-01-17 04:01:24
やはり青春というと、新宿歌舞伎町の養老の滝ですね。24Hの。西原理恵子女子史が「生きたブレードランナー」と怨ミシュランで述べてますが、
金の無い、野心と欲望と煩悩だらけの若者に優しい店でした。
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Unknown (アブダビ)
2015-01-18 00:58:21
私の鍼灸学校の同期に、同い年で成功した整体師がいます。彼も同じ時期にこの地区に住んでいたらしく、ヌマンタさんの記事を読ませたら喜んでいました。彼、暴走族の特攻隊長あがりのプレスライダーを80年代後半にしていたそうで。
バブル後半に、家賃無料の条件で、地上げのアパートに住んでいたそうです。
早朝、成田からのビデオを放送局や新聞社に運んだ後で、この店で大盛喰うのが楽しみだったと。
ヌマンタさんに、有り難うございますと伝えてくれと言われました。
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Unknown (アブダビ)
2015-01-18 01:02:22
ローカルネタは何故か燃えるなぁ!
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Unknown (アブダビ)
2015-01-18 01:12:54
ちなみに整体師の友人は、首都高1周の「バイクによる80年代最速記録」を立てた、本物のオトキチです。
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Unknown (ヌマンタ)
2015-01-19 13:00:47
アブダビさん、こんにちは。あまりローカルねたは書かない様にしているのですが、たまに書くと楽しい、懐かしいのは確かです。
若いころは確かに短気でした。おかげで結構損をしています。やはり短気は損気です。それは痛感しています。弱い犬ほどよく吼えると言いますが、私も似たようなものでしょう。もっと心の強さ、しなやかさが必要だったと強く感じています。
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