大好きな俳優さんがまた一人旅立たれた。名優と呼ばれた人は数多いるが、三國さんはその中でも最高レベルのおひとりだと確信している。初めて見たのは稲垣浩監督の「宮本武蔵」三部作の第1部(1954)、三船敏郎さん演じる武蔵の幼なじみ、本位田又八役の時だから、まだ30代になられたばかりの頃だった。その大きな体とケタはずれの美男ぶりに圧倒されそうで正直あまり好きにはなれなかった。しかし、以後の第2部、第3部には出演されず、とても残念だった想い出がある。その後、数多くの映画やテレビドラマなどに出演され、徐々に俳優としての幅を拡げて行かれたが、その中であえて三つ選ばせていただくとすれば「飢餓海峡(1965)」、「息子(1991)」そして「釣りバカ日誌シリーズ(1988-2009)」だろうか。この三つはいずれも日本映画史に残る名演だと思う。僕は本当の名優というのはどんな役でもこなせる幅がなくてはならないと思っている。その中でも特に僕は「みじめな役」ができる人が本当の名優だと勝手に定義している。カッコいい役は誰だってできる。しかし、他人から蔑まれるような汚らしくてみじめったらしい役ができる人はなかなかいない。三國さんはそんな役でも平気でこなした。三國さんのような幅のある俳優がこれからはたして出てくるだろうか。合掌
昨日、競技場へ向かう車のラジオからジャズのスタンダード「Love Letters」が聞こえてきた。ナタリー・コールのバージョンだった。この曲を初めて聴いたのは50年近くも前の学生時代、先輩が持っていたLPレコードだった。歌っていたのはジュリー・ロンドン。何度も何度も繰り返し聴いた。歌詞もほとんど憶えた。辞書を引いて訳したりなんかもしなかったのに、その意味するところが妙に心に響いた。青春時代の忘れられない1曲となった。ジュリー・ロンドンはもちろん、ナタリーのお父さんナット・キング・コールのバージョンもいいが、ナタリーのこれもなかなかいい。
The sky may be starless
The night may be moonless
But deep in my heart there's a glow
For deep in my heart I know
That you love me, you love me
Because you told me so
Love letters straight from your heart
Keep us so near while apart
I'm not alone in the night
When I can have all the love you write
I memorize every line
And I kiss the name that you sign
And darling, then I read it again
Right from the start
Love letters straight from your heart
約1年ぶりに岳間渓谷の湧水を汲みに。まず、全国の品評会で一等賞をとったという菊鹿町の佐とう製茶に立ち寄ってお茶を買う。岳間渓谷に登る途中、昨年と同じく鹿北町多久地区の丘の上の公園で昼食。ここからの景色は素晴らしく空気がうまい。近くで「かぶせ茶」が栽培されていた。千年以上も前に創建されたという多久神社を拝んで湯の水湧水へ。平日とあって水汲みの人も少ない。帰りはおきまりの菊鹿町・社方とうふ店に寄って好物の「がんも」を買う。
▼鹿北茶山唄(つみ唄もみ唄)
立方 ザ・わらべ
地方 本條秀美と秀美社中/中村花誠と花と誠の会
▼鹿北茶山唄(つみ唄もみ唄)
立方 ザ・わらべ
地方 本條秀美と秀美社中/中村花誠と花と誠の会
東京に住んでいる大学の後輩で水球のチームメイトでもあったA君から何年ぶりかの電話がかかってきた。その後のお互いの情報交換をした後、A君が「高校の同級生でKKさんという人を知っていますか?」という。実はA君は数年前から、小平市にあるブリヂストン・スイミングの会員になっているのだが、そこの女性インストラクターの父親が僕と高校の同級生らしいというのだ。さっそく高校の同窓会名簿で調べてみた。しかし、同級生にその名前はなく、1級下の名簿の中にその名前があった。そこでハタ!と気づいた。なんとなく聞き覚えのあるその名前は僕の妹の親友の兄貴ではないかと。妹の携帯をコールして確認すると間違いなくそうだという。そしてまたなんという偶然か、今まさにその親友のKKさんの妹と一緒にいるのだというではないか。どうもKKさんの娘さんが父親の卒年を1年間違えていたらしい。その娘さんは東京の体育系の大学を卒業してからブリヂストン・スイミングで働いていることなど、詳しい情報まで即わかってしまった。世の中はせまい!
博栄堂印房のシャッター(左側)
博栄堂印房のシャッター(右側)
先日の「城下町くまもと時代絵巻2013」の時代行列を見るため最初に洗馬橋のたもとの熊本中央郵便局前に行った。その時、道路を挟んで向かい側の博栄堂印房の降ろされたシャッターを見て驚いた。そこには「清正舞わせり 出雲阿国」と書かれていたのである。昨年、新町でシャッターアート・プロジェクトが始まったということはニュースで見て知り、その後何度も博栄堂印房の前を通ったのだが、いつもシャッターが開いている時間。初めてその全貌を見た。
実は江戸時代前期に書かれた加藤清正の伝記である「続撰清正記」の中に記述された「塩屋町三丁目の武者溜りで八幡の国という女歌舞伎が興行をした」というくだりの「八幡の国」が何者であるかはいまだ謎なのである。僕は「八幡の国と出雲阿国は同一人物」という仮説を立てて、現在、各種文献等を調査しているところだ。そんなこともあって、その大胆なシャッターアートに驚いたというわけだ。僕はさっそく博栄堂さんにおたずねしたところ、プロジェクトリーダーを宮本建設さんがやっておられることがわかり、問い合わせのメールを送ってみた。すると同社専務の宮本茂史さんから懇切丁寧なお返事をいただいた。「明確な根拠があったわけではなく、ネット上には「八幡の国とは出雲阿国説」もあり、自分たちの一つのロマンとして描いた」というような主旨の内容だった。ちなみに昨年9月、僕が書いたブログ記事は次のようである。
“八幡の国”と“出雲阿国”は同一人物か!?
さて、その調査経過だが、どんな文献を読んでも「出雲阿国」という人物自体が謎に包まれている。それでも新しい発見もいくつかあった。加藤清正が初めてお国歌舞伎を見たのは京の八幡だったというものもあれば、熊本へ呼んだのは「お国歌舞伎」だと断定的に書いたものもある。下の明治37年(1904)に出版された「日本演劇史」(伊原敏郎 著)を参照いただきたい。
しばらくはあきらめずに調査を続けるつもりだが、はたしてさらなる新しい発見はあるだろうか。
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先日、熊本城本丸御殿で行われた「くまもとをどり」の中で最も気になった演目が「檜垣水汲み踊り」。熊本の邦楽演奏家の錚々たるメンバーによる演奏と城北高校ダンス部の踊りはとても完成度が高く素晴らしい。初めて披露された演目だったらしく僕は初めて聴く曲だった。
これを聴いたことで、前から気になっていた「檜垣の道」をたどってみたくなり、今日、母を車に乗せて行ってみた。檜垣とは平安時代の女流歌人で、様々な伝説が残っており、世阿弥の能「檜垣」のモデルでもある。「檜垣の道」とは晩年の檜垣が小さな庵を結んでいたという今の蓮台寺から、金峰山西側山麓にある洞窟「霊厳洞」までの約15kmである。急峻な山道が続くこの道を檜垣は毎日水を汲み、霊厳洞の岩戸観音に日参したという。途中にはあまりの山道の険しさに檜垣が水をこぼしたという「檜垣のこぼし坂」なるものまである。ちなみに「檜垣水汲み踊り」にはそんなことも謡い込まれている。老婆がはたして水桶天秤を担いで毎日登れただろうかと、にわかには信じ難いが、いずれ僕もこの道を歩いて登ってみたいという衝動に駆られた。
これを聴いたことで、前から気になっていた「檜垣の道」をたどってみたくなり、今日、母を車に乗せて行ってみた。檜垣とは平安時代の女流歌人で、様々な伝説が残っており、世阿弥の能「檜垣」のモデルでもある。「檜垣の道」とは晩年の檜垣が小さな庵を結んでいたという今の蓮台寺から、金峰山西側山麓にある洞窟「霊厳洞」までの約15kmである。急峻な山道が続くこの道を檜垣は毎日水を汲み、霊厳洞の岩戸観音に日参したという。途中にはあまりの山道の険しさに檜垣が水をこぼしたという「檜垣のこぼし坂」なるものまである。ちなみに「檜垣水汲み踊り」にはそんなことも謡い込まれている。老婆がはたして水桶天秤を担いで毎日登れただろうかと、にわかには信じ難いが、いずれ僕もこの道を歩いて登ってみたいという衝動に駆られた。
年ふればわが黒髪も白川の みづはくむまで老いにけるかな ( 檜垣 )
今週末の4月13日(土)・14日(日)は2013年度の熊本県陸上選手権兼国体一次予選が県民総合運動公園競技場で行なわれ、いよいよ本格的な陸上のシーズンが幕を開ける。毎年この大会には熊本出身の有力選手が帰って来て参加するのが楽しみ。今回も北京オリンピック男子4×100mリレー銅メダリストの末續慎吾(九州学院出)、日本選手権100mで4連覇中の江里口匡史(鹿本高出)、そして昨年インターハイ100・200mの二冠を達成した野林祐実(九州学院3年)らがエントリーしている。彼らが今シーズン最初の本気モードのレースでどんな走りを見せてくれるか楽しみだ。
今日はあいにくの雨。「城下町くまもと時代絵巻」の初日「くまもとをどり」は会場を二の丸広場から本丸御殿へ移して行われ、「芸どころ熊本」の歴史を綴った中村花誠さんの総合演出による華やかな創作舞台が繰り広げられた。加藤清正やおばけの金太、おてもやん、歌人檜垣に花魁まで登場し大広間をギッシリ埋めた観衆からさかんな拍手が送られた。
僕は個人的にはVientoの「本丸御殿」生演奏を初めて聴けたのは嬉しかった。なんでもVientoさんはこの曲を本丸御殿の中で演奏するのは初めてだったらしい。
▼本丸御殿(Viento作曲「熊本城うたまひ絵巻」より)
演奏 Viento
踊り ザ・わらべ
囃子 中村花誠・中村弐誠
踊り ザ・わらべ
囃子 中村花誠・中村弐誠
熊本では昔、藤崎八旛宮例大祭の随兵行列などで大将の馬の後をついて行く甲冑をつけた雑兵たちのことを「ツームシ」と言った。「ツームシ」とは「かぶと虫」のことで雑兵たちの格好が「かぶと虫」を連想させたのでそう呼ばれたという。「ツー」というのは「ツがでけた」とか「ツがとれた」というあの「かさぶた」のことだ。熊本を含む九州の一部で今も使われる方言である。でも随兵を見て「ツームシ」と言う人は今ほとんどいないだろう。それでは「かさぶた」のことをなぜ「ツ」というのだろうか。以下はあくまでも僕の推測にすぎないが、「ト」が訛って「ツ」になったのではないか。この「ト」というのは「兜(と)=かぶり物のこと」もしくは「鍍(と)=メッキのこと」のいずれかではないか。そう考えると雑兵を「ツームシ」と呼ぶのも納得がいくような気がする。
▼昨年の「城下町くまもと時代絵巻」の風景より
▼昨年の「城下町くまもと時代絵巻」の風景より
1990年の夏、僕は東京本社から佐賀県の鳥栖工場に転勤した。工場の脇を走る国道34号線を佐賀市に向かって車で10分ほど西下すると吉野ヶ里遺跡がある。僕が転勤したちょうどその頃、吉野ヶ里は騒動の渦中にあった。もともと脊振山地の南麓丘陵地帯にある吉野ヶ里には企業を誘致するため工業団地が開発されることになっていた。そのために事前の文化財発掘調査が行われた。その結果、かなり大規模な遺跡が広がっているらしいことはわかったものの、一部を保存し、大部分は予定どおり工業団地として造成されることになった。そして1989年に入り、造成工事が始まった。遺跡が破壊される前に考古学関係者による最後の見学会が行われることになった。その見学会のメンバーの中には朝日新聞やNHK等の記者たちがまじっていた。調査員の口から「これは大変な遺跡では・・・」との声が漏れる。翌朝、朝日新聞一面には「邪馬台国時代のクニ・・・」の文字が大きく踊った。NHKは朝7時のニュースワイドで「女王卑弥呼の住まいか・・・」のアナウンスが流れ、日本中が大騒ぎとなった。その日から吉野ヶ里フィーバーが始まった。遺跡の保存や工業団地計画凍結の世論の高まりにより、1990年に入ると吉野ヶ里は史跡として指定され、全体が保存されることになった。そんな騒動のほとぼり冷めやらぬ時に僕は初めて見学に行った。まだ遺跡として整備が始まったばかりであまり見るべきところはなかった憶えがある。あれから23年、久しぶりに訪れてみたいと思っている。
▼万歳くずし(佐賀県民謡)
♪御代も栄える 千代に八千代に 万々歳のご繁盛
エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ
♪めでためでたの若松様よ 枝もマタ 栄えて葉も繁る
エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ
♪門に門松 背戸には背戸松 明け行く空に鳥の声
エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ
エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ
♪めでためでたの若松様よ 枝もマタ 栄えて葉も繁る
エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ
♪門に門松 背戸には背戸松 明け行く空に鳥の声
エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ
先週木曜日(28日)のブログに、加藤清正公が名古屋城築城時に、自ら木遣りの音頭をとって鼓舞し、大石を引かせたという逸話を書いたが、実はこの時、清正公は今日の「くまもとサプライズ」のようなことをやっているのである。清正公は本来なら苦役であるはずの熱田から名古屋までの石引きを、一般市民をも巻き込む一大お祭りに仕立て上げ、難工事と目された天守台石垣の築造をわずか3ヶ月足らずで終えたそうである。そのセンスには驚かされる。
この清正公の名古屋城築城時のエピソードについて「肥後史話」(卯野木卯一良著・昭和56年発行)には次のように記されている。
この時の清正の工事の活動振りは目ざましいものであった。かつて熊本大築城の経験もあり、慶長11年には江戸城の築城にも参加していたので、今度の工事は知れたものである。自ら進んで天守閣の築造を引き受け、寵臣である飯田覚兵衛をして朝鮮陣の当時に習得したという築造法の手腕を振わしめ、その成績は人目を驚かした。そうして巨大な角石などを運搬する時には、ことさらに華々しい装いをして人目をそばだたしめた。まずその大石を赤い毛氈で包み、大きな青色の綱でからげて、その上に突っ立ち上って大音声で、木遣り音頭などを唄われる。5、6千人の老若男女、いずれも華美な衣装に身を飾って、唄に合わせて綱を引く。酒は飲み次第、行商や露店の飲食物を値段かまわず買い上げて、食い放題飲み放題というので、後には見物人も商人も飛び込んで綱にとり付き、手拍子合わせて浮かれながら、えいやら声でみるみるうちに、大石を名古屋に運び着けるという賑わい。こうしてさすがの大工事も同年3月から8月までの間に無事竣成して、9月清正は熊本へ帰国せられたのである。
♪音に聞えし名古屋の城を踏みや馴らいた肥後の衆が
及びなけれど万松寺の花を折りて一枝ほしうござる
これは当時、名古屋市中で謡われた小唄である。万松寺というのは清正の本陣で、その寺の庭に大木の桜があったのを、美しい肥後武士によそえて謡った肥後衆賛美のものであるという。
この清正公の名古屋城築城時のエピソードについて「肥後史話」(卯野木卯一良著・昭和56年発行)には次のように記されている。
この時の清正の工事の活動振りは目ざましいものであった。かつて熊本大築城の経験もあり、慶長11年には江戸城の築城にも参加していたので、今度の工事は知れたものである。自ら進んで天守閣の築造を引き受け、寵臣である飯田覚兵衛をして朝鮮陣の当時に習得したという築造法の手腕を振わしめ、その成績は人目を驚かした。そうして巨大な角石などを運搬する時には、ことさらに華々しい装いをして人目をそばだたしめた。まずその大石を赤い毛氈で包み、大きな青色の綱でからげて、その上に突っ立ち上って大音声で、木遣り音頭などを唄われる。5、6千人の老若男女、いずれも華美な衣装に身を飾って、唄に合わせて綱を引く。酒は飲み次第、行商や露店の飲食物を値段かまわず買い上げて、食い放題飲み放題というので、後には見物人も商人も飛び込んで綱にとり付き、手拍子合わせて浮かれながら、えいやら声でみるみるうちに、大石を名古屋に運び着けるという賑わい。こうしてさすがの大工事も同年3月から8月までの間に無事竣成して、9月清正は熊本へ帰国せられたのである。
♪音に聞えし名古屋の城を踏みや馴らいた肥後の衆が
及びなけれど万松寺の花を折りて一枝ほしうござる
これは当時、名古屋市中で謡われた小唄である。万松寺というのは清正の本陣で、その寺の庭に大木の桜があったのを、美しい肥後武士によそえて謡った肥後衆賛美のものであるという。
アメリカの最有力新聞「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙が昨年暮、熊本のゆるキャラ“くまモン”を1面で紹介したというニュースは、蒲島県知事が鼻高々に記者会見で現物を見せたりして話題になった。
ネット上にそのほぼ全文が紹介されていたので読んでみたが、たしかに画像はくまモンしか掲載されていないが、内容は日本のゆるキャラブームについて論評したもので、くまモンだけを取り上げたものではない。しかし、大新聞が日本のゆるキャラに注目したことで、アニメや“カワイイ”文化などとともにゆるキャラが21世紀における「ジャポニズム」の再現を牽引するかもしれない。そしてくまモンがその尖兵になってくれれば嬉しいのだが・・・
※下はウォール・ストリート・ジャーナル紙に掲載されたくまモン関連記事の一部
After the victory, Kumamon's face was put on 6,000 different goods sold by local businesses, ranging from smartphone apps to bottles of soy sauce. This year, the prefecture expects sales of Kumamon goods to double last year's total of \2.5 billion, or $30 million.
Kumamon has more than 100,000 followers on Twitter and nearly 70,000 "likes" on its Facebook FB -1.99%page, where fans can find pictures of the pear-shaped mascot riding a horse, working at a convenience store or bungee jumping.
ゆるキャラナンバーワンになった後、くまモンの顔はスマートフォンのアプリから醤油のボトルに至るまで地元企業が販売する6000種もの商品に表示された。今年は、県はくまモングッズの売上高は昨年合計の25億円、または3000万ドルに倍増すると予想している。
くまモンはツイッター上で10万人以上のフォロワーやフェイスブック上でほぼ7万の“いいね”を持ち、それはフェイスブックの1.99%に相当する。ファンはくまモンがコンビニで働いている姿やバンジージャンプをしている姿、馬に乗って洋ナシの形をした姿の写真を見ることができる。
ネット上にそのほぼ全文が紹介されていたので読んでみたが、たしかに画像はくまモンしか掲載されていないが、内容は日本のゆるキャラブームについて論評したもので、くまモンだけを取り上げたものではない。しかし、大新聞が日本のゆるキャラに注目したことで、アニメや“カワイイ”文化などとともにゆるキャラが21世紀における「ジャポニズム」の再現を牽引するかもしれない。そしてくまモンがその尖兵になってくれれば嬉しいのだが・・・
※下はウォール・ストリート・ジャーナル紙に掲載されたくまモン関連記事の一部
After the victory, Kumamon's face was put on 6,000 different goods sold by local businesses, ranging from smartphone apps to bottles of soy sauce. This year, the prefecture expects sales of Kumamon goods to double last year's total of \2.5 billion, or $30 million.
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ゆるキャラナンバーワンになった後、くまモンの顔はスマートフォンのアプリから醤油のボトルに至るまで地元企業が販売する6000種もの商品に表示された。今年は、県はくまモングッズの売上高は昨年合計の25億円、または3000万ドルに倍増すると予想している。
くまモンはツイッター上で10万人以上のフォロワーやフェイスブック上でほぼ7万の“いいね”を持ち、それはフェイスブックの1.99%に相当する。ファンはくまモンがコンビニで働いている姿やバンジージャンプをしている姿、馬に乗って洋ナシの形をした姿の写真を見ることができる。