徒然なか話

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新町シャッターアート ~ 清正舞わせり 出雲阿国 ~

2013-04-10 19:15:03 | 熊本

博栄堂印房のシャッター(左側)


博栄堂印房のシャッター(右側)

 先日の「城下町くまもと時代絵巻2013」の時代行列を見るため最初に洗馬橋のたもとの熊本中央郵便局前に行った。その時、道路を挟んで向かい側の博栄堂印房の降ろされたシャッターを見て驚いた。そこには「清正舞わせり 出雲阿国」と書かれていたのである。昨年、新町でシャッターアート・プロジェクトが始まったということはニュースで見て知り、その後何度も博栄堂印房の前を通ったのだが、いつもシャッターが開いている時間。初めてその全貌を見た。
 実は江戸時代前期に書かれた加藤清正の伝記である「続撰清正記」の中に記述された「塩屋町三丁目の武者溜りで八幡の国という女歌舞伎が興行をした」というくだりの「八幡の国」が何者であるかはいまだ謎なのである。僕は「八幡の国と出雲阿国は同一人物」という仮説を立てて、現在、各種文献等を調査しているところだ。そんなこともあって、その大胆なシャッターアートに驚いたというわけだ。僕はさっそく博栄堂さんにおたずねしたところ、プロジェクトリーダーを宮本建設さんがやっておられることがわかり、問い合わせのメールを送ってみた。すると同社専務の宮本茂史さんから懇切丁寧なお返事をいただいた。「明確な根拠があったわけではなく、ネット上には「八幡の国とは出雲阿国説」もあり、自分たちの一つのロマンとして描いた」というような主旨の内容だった。ちなみに昨年9月、僕が書いたブログ記事は次のようである。
   “八幡の国”と“出雲阿国”は同一人物か!?

 さて、その調査経過だが、どんな文献を読んでも「出雲阿国」という人物自体が謎に包まれている。それでも新しい発見もいくつかあった。加藤清正が初めてお国歌舞伎を見たのは京の八幡だったというものもあれば、熊本へ呼んだのは「お国歌舞伎」だと断定的に書いたものもある。下の明治37年(1904)に出版された「日本演劇史」(伊原敏郎 著)を参照いただきたい。
 しばらくはあきらめずに調査を続けるつもりだが、はたしてさらなる新しい発見はあるだろうか。

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