本條秀美さんによると、3日前にこのブログに書いたばかりの「熊本県邦楽協会演奏会」の開催があやしくなってきたそうだ。現下のコロナ情勢を考えると無理をして開催しない方がいいと思う。
本條さんは「邦楽協会演奏会」の有無にかかわらず、来年の「俚奏楽」の課題は「伊勢木遣り」系の歌に取り組むことだそうだ。
ところで「木遣り歌」っていったい何?という話だが、今日では消防団の出初式とか結婚式の祝木遣りなどでしか触れることはない。日本民俗学の巨人、折口信夫の講演をまとめた「日本芸能史六講」(昭和19年出版)によれば、「木遣り歌」について次のように述べている。
--近代の初め、戦国時代が済んで太平の世の中が来るという時代に、一番目につくのは、「木遣り歌」であります。山から伐り出した木を、地べたを引きずりながら引き出す時に謡う歌であります。この木遣り歌が変化して、職人の街であった江戸に非常に発達して来ますが、それがどういう道筋を通って発達したかということはよくわかりません。しかし、ともかくこれは同種類の動作ならば他のものへも融通せられた歌のようです。たとえば「石曳き歌」なども名古屋城を築く時に謡ったものだなどと言われますが、やはり木遣りと同じことであります。ただこれがどちらが早いかというと、われわれにはわかりません。いずれにしても、木遣りとか石曳きとか、そういう労働する時に謡われるということは、労働の動作が連続的でないということです。つまり、その歌を謡う時は労働する人は、囃すくらいで動作を止めて黙って聞いているというわけで、非常に緩慢な動作なのです。そしてわからぬことは名古屋城石曳き歌には、「わしが殿御はなごやにござる」という風に謡っていることです。
これは私の殿御が名古屋にいるというのか、あるいはなごやという人ですというのか、わからぬのです。それが人の名であるとすれば、名古屋山三郎という出雲の阿国の踊りを助勢した人物のことではないでしょうか、ともかく名古屋山三郎のいる時分に謡われているのです。だから何か引っかかりがあるかもわからないのです。--
出雲阿国のかぶき踊りとの関係はともかく、「木遣り歌」が江戸の「粋でいなせな」美意識と結びついて大いに発達したことは間違いないようだ。そしてそれは江戸端唄にも取り入れられ、お座敷でも歌われるようになった。その一例が下の「木遣りくずし」である。