今年の
火の国まつりは、8月5日(金)・6日(土)に開催する方向で準備を進めるという。この祭りのあり方については以前から検討の余地があると思っているが、熊本地震の被災者が復興に向けて立ち上がろうというこの時期、心の復興という意味でもやる意義は大いにあるだろう。
今日では火の国祭りの目玉は
おてもやん総踊り。このブログでも民謡「おてもやん」については何度も取り上げており、多少重複するけれども今一度取り上げてみた。
そもそも、この唄は熊本民謡ということになっているが、今では作者がわかっており、民衆の中から自然発生的に生まれ伝承されてきた唄を民謡の定義とするならば、この唄は俗謡と呼ぶのがふさわしいのかもしれない。
それはさておき、この唄が三味線や唄の師匠をしていた
永田イネによって作られたことが人々に知られるようになったのは、なんと昭和も終りに近づいていた頃。永田イネが作ったのは明治35年前後と推察されるので、80年以上も伏せられてきたことになる。それまでは幕末の頃から唄われていたという説が定説だったようで、わが敬愛する荒木精之先生などは「勤皇党の忍び唄である」と、ちょっと穿ち過ぎの説を唱えておられたようだ。
さらにおてもやんには
富永チモというモデルがいたことも判明し、永田イネとチモとの深い関係もわかってくると、この唄の歌詞の意味が実によくわかる。
一方、曲については、当初この唄に「熊本甚句」という題名がつけられていたことからも推察されるように「名古屋甚句」などの甚句系の曲が元になったようだ。邦楽の世界では、長唄など唄の合間を繋ぐ三味線の演奏「合方」などはいろんな曲で使いまわされる旋律が多い。今日ではすぐにパクリなどと言って騒ぐけれど、邦楽の世界は実におおらかだ。
さて、あらためてこの唄の歌詞を僕なりに解釈してみると
おてもやんと呼ばれる娘がいて、最近、縁談がまとまったらしい。ところが相手の男に会ってみると、これがとんでもない醜男。おてもは嫁に行く気が失せ、祝言はまだあげていない。縁談を持ってきた村の世話役や消防団の人や仲人があとは何とか話を御破算にしてくれるだろう。
そこから突然、「川端町つぁん きゃあめぐろ」となるのだが、これは2番の歌詞に出てくる夜聴聞詣りとつながっていると思われる。夜聴聞が行われるのは古桶屋町の普賢寺。春日村に住むおてもが祇園橋を渡って普賢寺へ向かうコースは、細工町回りと、川端町回りの二つ。おてもは川端町回りを選んだ。それは、そちらが普賢寺の正門であり、おそらく夜聴聞の日は、参道や境内に多くの若者たちがたむろしていて賑やかなのだろう。「春日ぼうぶら・・・」以下の歌詞は、その賑やかな様子を唄っている。着物の裾をまくった品のない男たちを春日ぼうぶら(かぼちゃ)にたとえ、ペチャクチャとおしゃべりがうるさい女たちを雲雀の子にたとえ、野暮ったく無骨な男たちを玄白なすびにたとえたものと思われる。
二番に入ると、実は遠く離れた村に、心に秘めた好きな人がいるがとても告白などできないと吐露するのである。そのうちお彼岸の日でも近まってくれば、また多くの若者が集まる夜聴聞詣りの時にでも、ゆっくり事情をお話しましょう。ここであえて「熊んどん(熊本の人たち)」と言っているのは、おてもが住む春日村は熊本市ではなく飽田郡であるからである。この当時は熊本県が成立してからまだ20数年しか経っておらず、熊本市以外を熊本と呼ぶことはなかった。そして、最後はおてもの開き直りともとれるくだり。心に秘めた好きな人の嫁になれないのなら、私はもう金持の男しか縁談の相手にはしません。というわけ。
後年になって、三番が追加されるが、これは一・二番とは全くコンセプトが異なっていて、自分の息子を叱咤激励する唄ともいわれている。
おてもやんは不器量のイメージで演じられることがある。頬紅を大げさに塗ったり眉毛を太くしたり。赤チークをやり過ぎると「おてもやんメイク」などと言われることもある。ところが歌詞のどこにも不器量のイメージはなく、むしろモテ女に近い。これは、戦後の昭和30年頃、ラジオ熊本(RKK)でレギュラー番組だったり、市内各所の舞台で盛んに催されていた「
肥後にわか」に登場する
おてもという娘が、器量は悪いが気立ては優しいというキャラクターで、頬紅を大げさに塗っていたことに起因している。
祇園橋横のポケットパークには永田イネと富永チモの銅像が建てられている。
2011年4月15日 熊本城 本丸御殿 春の宴より