徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

どうして“能”と呼ぶの? “踊り”と“舞い”はどう違う?

2013-04-30 13:53:04 | 音楽芸能
 日本の「民俗学の父」柳田國男の高弟で今日の民俗学の基礎を築いた一人である折口信夫(おりぐちしのぶ)の講義録「日本芸能史六講」(昭和19年版)を読むと、今まで疑問を抱いていたことに解答を与えてくれるようで実に面白い。

▼「能」
 1200年を超える歴史を有するという「能」はなぜ「能」と呼ぶようになったのか。実はもともと「態(たい/てい)」という字を使っていたらしい。つまり「・・・の態で」と言うように「能」はモノマネから始まったというのだ。それがいつからか「態」の下の「心」が取れて「能」となった。「能」がいにしえから今日まで連綿と人々の支持を得続けるのも、今日の「モノマネ芸」が根強い人気を博しているのも腑に落ちる。

▼「踊り」と「舞い」
 今日では「舞踊」とひっくるめて呼ぶことが多いが、本来「踊り」と「舞い」は別のものだという。悪霊を地下に踏みつける「反閇(へんばい)」という動作が発展して、下から上にピョンピョン跳び上がる動作のことを「踊り」といい、「舞い」というのはもともと「めぐる」という意味で旋回運動のことを指すという。つまり「舞踊」というのはこの二つの動作が織り込まれているということなのである。


“ポスト野林祐実”はだれ?

2013-04-29 21:44:50 | スポーツ一般
 熊本県女子短距離のトップランナー野林祐実(九州学院3年)が、織田記念陸上出場のため不在となった今年の私学陸上は、ポスト野林に注目して観た。それはどうやら福嶋美幸(九州学院2年)と北川愛菜(学園大附1年)の争いになりそうだ。今日の二人の対決は、200mで北川が、100mで福嶋が勝って引き分けたが、今後もこの二人の対決から目が離せない。ただ、まだ二人とも実力的には野林とは大きな差があり、これから切磋琢磨しながら互いの実力を伸ばして行ってほしい。

▼100m決勝

くまもと城下まつり 2013 in 桜町

2013-04-28 20:57:17 | イベント
 昨日は「くまもと城下まつり2013 in 桜町」のステージに “わらべ” が出演するというので見に行った。カメラを構えたとなりの中年男性に声をかけた。すると “わらべ” の大ファンだと仰る。朝早く大分から出て来られたらしい。熱心なファンもいるものだと思いながら話をしていると、ファンになったきっかけがどうも僕のYouTube動画らしい。「あなたがご覧になっている動画はほとんど私が投稿したものだと思います」と明かすと、「まさかあの動画の投稿者に逢うとは・・・」と驚いておられた。大阪在住のSさんも同じように動画を見ていただいて一昨年から “わらべ” のステージを見に大阪から度々来熊いただいているが “わらべ” のサポーターとしても本当にありがたいことだ。
 さてステージの方はというとMCを務めたのはフリーアナの高橋久美子さん。熊本の民放テレビではおなじみの顔だが、昨日のMCは「???」の連続。「少女舞踊団」を度々「ぶとうだん」と言ってみたり、振付の中村花誠先生を「せいかせんせい」と言ってみたり。新人じゃないんだからしっかりしてよ!

▼ザ・わらべ & こわらべ 「牛深ハイヤ節」


▼熊本城おもてなし武将隊


▼代継太鼓保存会

ハイレベルな邦楽コンクール!

2013-04-27 22:16:02 | 音楽芸能
 今年もまもなく「~長谷検校記念~ くまもと全国邦楽コンクール」がやってくる。今年は5月12日(日)熊本市民会館大ホールで行われる。
 「長谷検校(ながたにけんぎょう)」というのは熊本市鍛冶屋町に生まれ、幕末から明治・大正時代に九州系「地歌」を全国に普及させた邦楽界の巨人。本名を長谷幸輝(ながたにゆきてる)という。「検校」というのは室町時代以降、盲目の方に与えられる官位。明治維新後「検校」という官位も廃止されたが、彼の業績は「検校」にふさわしいと、敬意を込めて長谷検校と呼ばれている。立田山麓の小峰墓地、鼻欠け地蔵などがある一角にお墓がある。
 この長谷検校の偉業を記念して熊本市や熊本県文化協会などが主催する「くまもと全国邦楽コンクール」は今年19回目を迎えるが、今年も「箏曲の部」「尺八・笛音楽の部」「三味線音楽の部」「琵琶楽の部」「三曲等合奏の部」の五つの部門が行われ、全国の才能ある邦楽演奏家たちがナンバー1の座を競う。とにかくビックリするほどレベルの高いコンクールなので興味のある方はぜひ会場を覗いていただきたい。
※写真は第17回のコンクールで実行委員長の幸山熊本市長から表彰を受ける最優秀賞の佐藤亜美さん(箏曲の部)

日本の踊り手のお初は・・・

2013-04-26 19:08:36 | イベント
 今日の歌舞伎や日本舞踊は今から400年ほど前の出雲阿国が始祖だと言われている。しかしそれは抹香臭い念仏踊りのような宗教色の強い踊りから、エンタテイメント性の強い「かぶき踊り」に変えたのが出雲阿国ということであって、踊りそのものは神代の時代からあった。「日本書紀」や「古事記」に書かれているように天岩戸伝説に登場する「あめのうずめ」が日本最古の踊り手といわれ、芸能の神様として敬われている。中学校の映画見学会で観た「日本誕生(1959)」で乙羽信子さんが「あめのうずめ」に扮し踊り狂う姿を想い出す。戦前に発行された「日本女性文化史(全国高等女学校長協会編)」によると、その様子を次のように書いてある。おそらく戦前の高等女学校の生徒はこのような教育を受けていたのだろう。ここ数年、ザ・わらべのおかげで日本舞踊を見る機会も多いので「あめのうずめ」を祀った宮崎・高千穂町の荒立宮に一度お詣りに行ってみたいと思っている。

天宇受賣命(あめのうずめのみこと)は、天香山の日影蔓(ひかげかづら)をたすきにかけ、眞折蔓(まさきかづら)を髪に飾り、天香山の小竹葉(ささば)を束ねて手に持ち、天岩戸の前に空槽(からふね)を伏せて、其の上に登つて踏みとゞろかし、乳房を露はし、裳緒(もひも)を押し下げて、神懸(かむがかり)のしたやうに正體もなく、踊りくるはれたのであつた。八百萬の神々は、この有様に、高天原もどよむほど笑ひ興ぜられた。


アメノウズメノを祭神とする高千穂荒立宮で奉納舞をする吉崎真美さん

葛飾北斎とジャポニスムの神髄

2013-04-25 20:28:35 | 美術
 熊本県立美術館で行われている「北斎展―世界が絶賛した浮世絵師―」を観に行った。まず何よりも驚いたのは「富嶽三十六景」にしろ「東海道五十三次」にしろ想像していたよりも絵が小さかったこと。思わず美術館のスタッフに「これ実物ですか?」と聞いてしまった。その細密さたるやハンパじゃない。絵師、彫師、摺師いずれもが極めて高度な精密技術を要求されたことだろう。北斎らの浮世絵は、19世紀中頃にフランスを始めヨーロッパの国々で起こったジャポニスムの嚆矢となったが、ジャポニスムの神髄というのはこの日本人特有の精密さにあったのかもしれない。


富嶽三十六景(江の島)


東海道五十三次(お伊勢参りの道の要所でもあった水口と石部)


平安時代と現代 二人の女流歌人

2013-04-24 19:00:41 | 歴史
 平安時代の女流歌人「桧垣」の伝説は諸説紛々として、どれを信じていいのかわからないので、識者はどう見ていたのかを判断材料にすることにした。そこでまず頭に浮かんだのが、昨年3月、92歳で他界された現代の女流歌人であり、宮中歌会始選者でもあった安永蕗子さん。安永さんが生前「熊本の女性でまず思い浮かぶのは桧垣」と述べられた記事を読んだことがある。昭和57年(1982)に出版された「熊本県大百科事典」の中に「桧垣」について自ら解説された項目があるのを発見した。それは下記のとおりだが、安永さんの「桧垣」についての認識の一端を知るうえで極めて興味深い。

▼桧垣(ひがき)
 生没年不詳。平安時代の女流歌人。桧垣のある家に住んでいたので伝えられた名であるが、肥後白川のほとりに住んだ。藤原清輔の「袋草子」に「肥後遊君桧垣」として「桧垣集」の歌を引いている。延喜3年(903)藤原興範が白川の岸で桧垣に水を乞うた折の歌が「後撰集」巻17に採られている。一首は「年ふればわが黒髪も白川のみずはくむまで老いにけるかな」。大宰府官人のもてはやした名花桧垣も、藤原純友の乱に遭って家財を失い、老いとともに白川あたりに流れてきた零落の歌である。肥後守清原元輔との出会いも伝えられる。世阿弥作の能「桧垣」では岩戸観音が背景となっているが、霊厳洞の近くで天明期(1781~89)に発見された桧垣の小像が雲厳禅寺に安置されていた。熊本市の九品山蓮台寺には供養塔があり、俗に桧垣寺とも呼ばれている。「桧垣歌集」1巻には31首が収められる。同寺には立て膝姿の桧垣像人形が存置され、色あせながら、なお見残す女の美しさが、「老女もの」の品位にふさわしい風格を見せる。(安永蕗子)


蓮台寺の桧垣の像

第47回織田記念国際陸上 迫る!

2013-04-23 19:46:56 | スポーツ一般
 今週末の4月28日(日)・29日(月)には「第47回織田記念国際陸上」が広島で行われる。日本のトップアスリートや外国からの参加選手らが集う今年最初の陸上競技のビッグイベント。男子100mでは日本短距離界のトップを争う江里口匡史(大阪ガス・鹿本高出)と山縣亮太(慶応大)の対決が見もの。また女子100mでは昨年のこの大会で不本意な結果に終わった野林祐実(九州学院)が日本のトップクラスのスプリンターたちにどこまで食い下がれるかが楽しみだ。

▼男子100Mエントリー


▼女子100Mエントリー



▼第46回織田記念国際陸上(2012年)の女子100M

夏目漱石文学と「禅」・「能」

2013-04-22 21:16:04 | 文芸
 夏目漱石の文学は「禅」や「能」の影響がみられるという。先日訪れた内坪井旧居の展示物にもそんな内容の説明があった。僕は詳しく研究したわけではないので漱石作品を読んでもどれがそうなのかよくわからない。たしかに熊本にいた時代も坪井立町の臨済宗・見性寺で参禅していたと聞くし、能(謡)については寺田寅彦の「夏目漱石先生の追憶」の中にも次のようなくだりがある。

(先生は)謡曲を宝生新氏に教わっていた。いつか謡って聞かされたときに、先生の謡は巻き舌だと言ったら、ひどいことを言うやつだと言っていつまでもその事を覚えておられた。

 漱石先生は日頃よく「熊野(ゆや)」などを謡って、自分自身は悦に入っていたらしいが、寺田寅彦の言葉のように奥様や知人友人などには評判は良くなかったらしい。便所や風呂などで謡っている姿を想像すると微笑ましい。
 これから漱石作品を読む時は少しそんな視点からも読んでみたい。


夏目漱石が参禅した見性寺


寺田寅彦が居候を望んだ漱石内坪井旧居の馬丁小屋

祇園に生きた女性 ~ 新日本風土記 ~

2013-04-21 20:04:04 | テレビ
 4月19日(金)のNHKプレミアム「新日本風土記」では、今、京都の祇園で開催されている「都をどり」にちなみ、300年以上の歴史をもつ花街・祇園に生きる女たちの姿を映し出した。90名ほどの出演者の頂点に君臨するのが名取芸妓のまめ鶴さん。舞妓としてデビューして37年の大ベテランだ。そのまめ鶴さんが16歳で舞妓デビューした時の映像がNHK「新日本紀行」のアーカイブに残っていた。その初々しいまめ鶴さんの舞妓姿の場面にかすかな記憶が。「新日本紀行」という番組は冨田勲さんのテーマ曲が大好きで昔からよく見ていた。アーカイブとして放送されたり、数年前からは「新日本紀行ふたたび」という昔の取材地を再び訪れるという番組もやっているが、見始めると「あ~、これ見たな」と想い出すことが多い。まめ鶴さんの舞妓デビューの回も多分見ているはずだ。風格を漂わせた今日のまめ鶴さんの姿を見ながら、祇園に生きた一人の女性の人生を見た気がした。


祇園甲部 芸舞妓の頂点に立つまめ鶴さん(黒の衣装)

漱石先生はいったい何と・・・?

2013-04-20 17:22:44 | 文芸
 「夏目漱石内坪井旧居」内部の展示がリニューアルされ、今日、記念イベントが行われるというので覗いてみた。レイアウトもだいぶすっきりと整理され、漱石の人物像がよりわかりやすくなったような気がする。そんな展示物の中で僕が一番興味深かったのが1枚の新聞記事だ。漱石は明治33年(1900)7月、英国留学のため4年3ヶ月を過ごした熊本を去るが、その8年後の明治41年(1908)2月、九州日日新聞(現在の熊本日日新聞)のインタビューに答えて熊本の印象を語っている。その中でも熊本に到着した時のくだりは、わが家の周辺の風景であり、漱石の時代と現在、あるいは終戦直後の僕が子供だった頃の風景と比較しながら読んだ。もし漱石先生が今日の風景を眺めたらいったい何と表現されるだろうか。

▲初めて熊本に行った時の所感
 それならお話いたしましょう。私は7、8年前松山の中学から熊本の五高に転任する際に汽車で上熊本の停車場に着いて下りて見ると、まず第一に驚いたのは停車場前の道幅の広いことでした。そうしてあの広い坂を腕車(人力車)で登り尽くして京町を突き抜けて坪井に下りようという新坂にさしかかると、豁然として眼下に展開する一面の市街を見下ろしてまた驚いた。そしていい所に来たと思った。あれから眺めると、家ばかりな市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向うの蒼暗き中に封じ込まれている。それに薄紫色の山が遠く見えて、その山々を阿蘇の煙が遠慮なく這い回っているという絶景、実に美観だと思った。それから阿蘇街道(豊後街道)の黒髪村の友人の宅に着いて、そこでしばらく厄介になって熊本を見物した。
※原文を現代文に変えています


夏目漱石内坪井旧居パンフレットより


今日も県外からの観光客が多いようだ


そぼ降る春雨に濡れる庭の若葉が美しい

藤の花房 色よく長く ~ 山田の藤 ~

2013-04-19 19:10:04 | 熊本
 玉名市山田の山田日吉神社境内にある天然記念物「山田の藤」を10数年ぶりに観に行った。今、七分咲きといったところか。前回来た時と比べるとすっかり観光地化した感じだ。樹齢200年を超えるという藤の老木は、人々の楽しみのため、原形をとどめないほどに変わりゆく自らの環境をどう思っているだろうか。それでも藤棚の下に入ると、以前はあまり気づかなかった藤の花の芳醇な薫りが気分を和ませてくれる。

しののめのあかりに踏みし路ゆゑに蝶とおもひし藤の花びら(与謝野晶子)

念仏に季はなけれども藤の花(正岡子規)

禰宜の子の烏帽子つけたり藤の花(夏目漱石)

▼写真をクリックすると大きなサイズを開きます









▼藤音頭
 歌舞伎舞踊「藤娘」の後半に演じられるこの長唄舞踊「藤音頭」は、美しい娘に姿を変えた「藤の精」が酒に酔う様子の振りが見どころ。


偉大な先輩がたの姿・・・

2013-04-18 12:33:20 | テレビ
 昨夜、RKKテレビで放送された特別番組「進まん 同心の友 ~済々黌55年の時空を超えて~」では、先日、55年ぶりに選抜高校野球大会に出場した済々黌の選手たちの甲子園での様子や応援団の様子のリポートのほか、済々黌の歴史、先輩たちへのインタビューなどが放送された。中でも僕にとって懐かしい二人の先輩の元気そうなお顔を見ることができたことが何より嬉しかった。
 昭和33年の選抜大会優勝チームのメンバーの一人、上村啓明さんは熊大附中の僕の先輩でもある。中学時代から野球部で活躍しておられ、まだ小学生だった僕らの憧れの人だった。早実のエース、王貞治さんから決勝打を打って破った時の興奮が今でも鮮明に甦る。
 水球の大先輩である柴田徹さんは、僕が済々黌へ入って水球を始めた年、日本を代表するバックスとして活躍しておられ、神宮プールの日本選手権で初めてその勇姿を見た。当時の日本選手としては珍しく大柄でスケールの大きなプレーが持ち味だった。後年、一緒に酒を酌み交わしたことも懐かしい想い出となっている。
 お二人とも70歳を超え、さすがにそのお顔には時の流れを感じさせるが、画面を見ながら僕の頭の中ではお二人の往年の凛々しい姿がフラッシュバックした。

牛深三下り ( Ushibuka-Sansagari )

2013-04-17 19:58:07 | 音楽芸能

 新聞に今週末の「牛深ハイヤまつり」のことが書いてあったのを見て「1年経つの早ッ!」とあらためて実感させられた。この時季になると必ず聴きたくなるのがこの「牛深三下り」。もう何度もこのブログで紹介したが、今年も飽きずに書くべし!

 この曲は天草の牛深町で唄われてきた民謡。江戸時代から「牛深ハイヤ節」の前唄として唄われる。「牛深ハイヤ節」は日本全国に知られた民謡で、日本各地の多くの民謡のルーツになったと言われる。「三下り」とは三味線の三弦を一音下げてひく奏法のことで、言い換えれば「調律」のことである。これにより「粋な音色」になると言う。歌詞は昔の恋愛沙汰などをモチーフにしているがほとんどナンセンスソングに近い。

This song is a folk song of Ushibuka-machi,Amakusa, Kumamoto Prefecture. It is sung from the Edo era as the opening performance of Ushibuka-haiyabushi. Ushibuka-haiyabushi is the folk song well known all over Japan, are said to be the roots of many other regional folk songs. Sansagari means lowering one scale of the third bowstring of a samisen. In other words, it is a tuning of a samisen. This performance method becomes a stylish tone. The motif of the lyrics is the love affair that happened in old days, but there is hardly the meaning.

 

2012.5.18 熊本城本丸御殿 春の宴
立方 ザ・わらべ
地方 本條秀美と秀美社中/中村花誠と花と誠の会


現代版 “よじょもん みゃあり” ~ ふるまち寄席 ~

2013-04-16 01:01:27 | 音楽芸能
 昨夜は、このほどリスタートをきった上村元三商店の皮切り興行「ふるまち寄席」が、古桶屋町の普賢寺で行われた。普賢寺は熊本民謡「おてもやん」の中に歌い込まれた「よじょもん みゃあり(夜聴聞詣り)」の舞台となったお寺。今回の「ふるまち寄席」は現代版「よじょもん みゃあり」とでも言うべきか。
 今回の演し物は落語が桂藤兵衛さんで「短命」と「小間物屋政談」の二題、講談が宝井琴調さんの「寛永三馬術 出世の春駒」と「徂徠豆腐(そらいどうふ)」の二題。僕は落語でも講談でも「徂徠豆腐」が大好きで、初めて生で「徂徠豆腐」を聴けたのは感動だった。また次の機会が楽しみだ。


会場となった普賢寺本堂


宝井琴調さんの講談「徂徠豆腐」