徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

"Still Crazy For You" アゲイン! 

2014-06-30 22:09:50 | 音楽芸能
 「ハナ肇とクレイジーキャッツ」のメンバーもご存命なのは犬塚弘さんただ一人になってしまった。全盛期の頃、有楽町にあった日劇にクレイジーキャッツのステージをよく観に行ったものだ。僕の大学の一年先輩に、谷啓さんの出身校、逗子開成高卒の方がいた影響もあって、クレイジーキャッツの大ファンになった。中でも谷啓さんのちょっとトボけた味が好きだった。8年前、その谷さんが中心になって、クレージーキャッツとユーミン(松任谷由実)がコラボした"Still Crazy For You"は、クレージーキャッツの人気番組だった「シャボン玉ホリデー」などの雰囲気を見事に再現した大好きな曲だ。だが、4年前に谷啓さんが亡くなってからほとんど聴いていなかった。YouTubeからも姿を消していたが、再びアップされているのを昨日偶然見つけた。またいつ消されるかわからないので繰り返し繰り返し聴いているところだ。


第16回熊本いのちの電話 チャリティ公演!

2014-06-29 22:16:01 | イベント
 毎年夏恒例の、「熊本いのちの電話 チャリティ公演」が、今年も「納涼 みんなで楽しむ夏舞台」と題して、8月20日(水)に熊本市民会館で行われます。昨年に引き続き、中村花誠さんの監修による今年の舞台には、阿蘇を拠点に活躍する音楽デュオ、ビエント(Viento)を始め、舞踊団花童の「ザ・わらべ&こわらべ」、熊本県太鼓連盟の選抜ジュニアチーム、B-スマイル、くまCan、ヒゴマティック、くまもと笑いヨガ倶楽部など多彩な出演者が織りなす音楽と踊りの世界が繰り広げられます。さて、今年はどんな物語を見せてくれるのでしょうか。

お問い合せ:熊本いのちの電話事務局 ℡ 096-354-4343

▼下のパンフレットをクリックすると大きなサイズを開きます


市松模様と「童獅子(わらべじし)」

2014-06-28 20:57:02 | 音楽芸能

写真はHIROさん撮影

 この演目は初めて見た。名前からして「石橋(しゃっきょう)」ものの一つのようだ。ネットで調べてみると、江戸中期の明和4年(1767)、当時の人気歌舞伎役者、二代目佐野川市松によって初演されたとある。そこでふと思った。「市松ってあの市松模様(チェック柄)の?」やはりそうだった。彼が舞台で白と紺の正方形を交互に配した袴を履いて人気を博し、着物の柄として流行したことから「市松模様」と呼ばれるようになったという。
 実はこの演目で、“のぞみ・めぐみ姉妹”が登場した瞬間、思わず「オッ!」と声が出た。それは花童の舞台では初めて見る大正ロマンの世界だったからである。矢絣の着物に紺袴という衣装なのだが、これが最初は「市松模様」に見えたのである。実際、大正時代の女学生には「市松模様」の着物も好まれたらしい。もし、花誠先生が、初演者の佐野川市松に掛けた「市松模様」を思わせる衣装を選択されたとすれば、それは実に洒落た演出だなと思った。



二人三番叟(ににんさんばそう)

2014-06-27 17:38:58 | 音楽芸能
 能の「翁(おきな)」をもとにした舞踊「寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)」は天下泰平や五穀豊穣の祈願をこめた儀式的舞踊として、江戸時代からあったそうだが、明治時代中期、文楽三味線の豊沢団平が、義太夫として編曲し、復活した。「寿式三番叟」には、「翁」の舞、「千歳(せんざい)」の舞があり、最後に「三番叟」が登場する。しかし、そのうちの「三番叟」が高い人気を得たため、「翁」と「千歳」の舞を省き、「三番叟」のみを独立して「二人三番叟」として演じるようになったという。神事の舞なのに、小気味よいテンポとユーモラスな所作が人気を得た理由だろう。
 ザ・わらべの“くるみ・文乃”コンビによる「二人三番叟」は初披露だったが、彼女らは基礎がしっかりできているので安心して見ていられた。次は能楽殿などの舞台の上で観たいものだ。


今夜の演目から 「球磨の六調子」

2014-06-27 00:10:37 | 音楽芸能
 今夜の「花童・玄宅寺舞踊会」は新たにレパートリーに加わった曲が多く、いつも以上に充実した内容だった。その中で比較的小曲で久しぶりに聞いた「球磨の六調子」をまずアップしてみた。その他は徐々にアップ予定。
 ちなみに今夜の演目は
 二人三番叟水辺立秋祭り狐流れ灯わらべ獅子球磨の六調子かくれんぼ
 火の国旅情阿蘇の恋唄水前寺成趣園

▼球磨の六調子
 球磨地方を代表する民謡の一つ。六調子とは三味線の調子のことで、三下りを地と感の二つの調子に弾くという。七・七・七・五のはっきりした二六音形の歌詞に、にぎやかな囃子ことばを入れながら、激しいテンポの三味線に合わせて面白おかしく歌うので、祝宴には欠かせない唄である。由来や伝承もなく、いつ、何のために、どのように歌うという定めもなく、宴たけなわともなれば、突然、だれかが歌い出し、それから調子が崩れて、手拍子、手踊りが始まる。歌詞は多いが、歌い出しは
「球磨で名所は青井さんの御門(前は前は)/前は蓮池桜馬場 ヨイヤサー」で始まり、間に「多良木の文蔵爺 湯前の猫八どんお主ゃ かみあげほっつりほっつりのぼらんせ」などの囃子ことばと、歌詞の間にいろいろのざれ言葉も加えて一段と変化をつけ、座興を添える。
(熊本県大百科事典より)

 この唄の起源については、牛深ハイヤ節が球磨川を遡って伝わったという説と、瀬戸内地方や大分県などで広まった「よいやな節」が南下してきたという説があるという。


〽球磨で名所は 青井さんの御門
 前は蓮池 桜馬場 よいやさ

〽桜馬場から 薩摩瀬見れば
 殿の御殿に 鶴が舞う よいやさ

〽田舎庄屋どんの 城下見物見やれ

 麻の袴を後ろ低う前高こう
 ひっつり ひっぱり ひっからげて
 ごんぼづと(牛蒡筒)やら やまいもづと(山芋筒)やら
 いなわせて かるわせて
 相良城下を あっちゃ びっくり こっちゃ びっくり
 びっくり しゃっくり しゃじゃめくところを

〽あらま笑止や 虎毛の犬が
 庄屋どん うち噛もちゅうて 吠えまわる よいやさ

木曜時代劇 吉原裏同心

2014-06-26 13:06:41 | テレビ
 今夜から始まるNHK「木曜時代劇 吉原裏同心」は楽しみだ。佐伯泰英原作ものでは「居眠り磐音 江戸双紙シリーズ」や「酔いどれ小籐次 留書シリーズ」も面白かった。今回の「吉原裏同心」も同じく豊後の武士が江戸で活躍するというパターンが踏襲されている。しかも舞台が吉原の遊郭。とくればお座敷の音楽も楽しみだが、今回も邦楽指導は本條秀太郎さん。どんな音を聞かせてくれるだろうか。出演は、小出恵介、貫地谷しほり、宝塚出身の野々すみ花らを始め多彩な顔ぶれが揃っている。今夜は玄宅寺の花童舞踊会もあるし、しっかり録画をしておこう。

「西南の役見聞録」とわが町

2014-06-25 21:59:00 | 歴史
 津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」で、明治10年の西南の役を目撃した吉田如雪という人の「西南の役見聞録」という著が紹介されている。読んでいくと、今のわが家周辺のことがいろいろと書かれていて実に興味深い。なかでも、これを読んで腑に落ちたことが一つある。それは、官軍側の砲台が「瀬戸坂上松枝亘屋敷」にあったと書かれていたことだ。瀬戸坂上で砲台を据えるとすれば、おそらく今のFさん宅であろう。この家は独特の「むくり屋根」で相当古い建物という話は聞いていたし、3年ほど前、Fさんの奥様から「家には西南戦争時の弾痕が残っている」とお聞きしたこともある。その時は、ここら辺で戦闘があったという話は聞いたことがないなぁと思ったのだが、砲台があったとすれば薩軍の標的になってもおかしくない。たしかにこの家からは寺原田畑や坪井方面が一望できるので砲台を据えるには絶好の場所だったに違いない。
 他にも聞き覚えの名前がいろいろ登場するが、思わず笑ってしまったのは、「今日家財を五丁川東村岩崎古平と西梶尾村不浄取・丈平竝に弁慶下熊屋敷に送る。」と書かれた一節。戦火を避け家財を安全な場所に移すために、五丁(今の西里)や西梶尾村の荷馬車や肥汲み馬車を手配したようだ。実は僕が子供の頃、まだ水洗便所は普及しておらず、西里村や西梶尾村あたりから定期的に肥汲み馬車がやってきていた。それを思い出し、つい可笑しくなってしまった。不浄な話で恐縮。


西南の役の時、砲台が置かれたと思われる場所

公開自粛の映像

2014-06-24 19:32:59 | 音楽芸能
 この映像は「2010春のくまもとお城まつり」の中の「老舗料亭体験」という行事の様子を記録した映像である。実は今日まで公開を自粛していたもの。なぜ自粛していたかというと、この映像が撮影されたのは4年前、2010年3月28日のこと。ザ・わらべの3人は、リーダーのくるみさんが13才、あやのさんとかえさんは12才で小学校を卒業したばかり、まだ中学校の入学式も迎えていなかった。そんな子どもたちが料亭で踊っている映像を見た人の中には「子どもを酒席で踊らせるなんて…」というような批判をする向きもないとは限らないと懸念したからである。この「老舗料亭体験」というのは、昼食をとりながら熊本伝統のお座敷芸能を見ていただき、料亭の雰囲気を味わってもらいたいというのが趣旨で以後も毎年行われている。ザ・わらべのメンバーも今年は高校3年と2年になった。もう公開してもよかろうというわけだ。それにつけてもこの時の、福島竹峰さん、藤本喜代則さん、中村花誠さんらを始めとする地方の豪華さは、今となっては貴重な映像だ。


長洲嫁入り唄(のんしこら)

2014-06-23 16:44:18 | 音楽芸能
 音楽デュオのビエント(Viento)さんが、玉名郡長洲町の民謡「長洲嫁入り唄」をアレンジし、来月、そのビエントバージョンが発表されるという。
 「長洲嫁入り唄」は江戸中期から「肥後の嫁入り唄」として長洲や荒尾など有明海沿岸で歌い継がれてきた民謡。昭和10年頃まで婚礼で友人らが歌って花嫁を励まし、見送る習わしが続いていたという。「のんしこら」という囃子ことばと、軽快な中にも哀歓綯い交ぜのメロディーが特徴。「のんしこら」もしくは「のしこら」の意味は、「熨斗こら」と、お嫁さんに「熨斗」を付けて送り出すと言う意味が込められているといわれる。この囃子ことばから俗にこの唄のことを「のんしこら」と呼ぶこともある。
 現在では長洲町以外では余り知られていないのが実情。今回のビエントバージョンの発表が、県内外の多くの方々にこの民謡を知っていただく機会になればよいのだが。
※右の写真(生活情報紙「あれんじ」より)をクリックするとビクター少年民謡会の「のんしこら」を再生します。

夢千代日記と中国残留孤児

2014-06-22 18:37:59 | 歴史
 このところ日曜日の楽しみはBSプレミアムで放送されている「名作ドラマアンコール 夢千代日記」シリーズである。現在放送されているのは最後のシリーズ「新 夢千代日記」。このシリーズのエピソードで印象深かったのが中国残留孤児の話。夢千代(吉永小百合)の芸者置屋「はる家」で下働きをするスミ(夏川静枝)のところに長男の正雄と称する男(せんだみつお)がやって来て、スミを母親だと言う。スミは、終戦直前のソ連軍侵攻で関東軍に見捨てられた黒龍第三開拓団が集団自決した時に、長男をナイフで刺し殺したことを夢千代に告白する。男は、実は傷は致命傷ではなく中国人によって助けられ育てられたのだと言う。そして幼い頃、母に教えられた歌だといって童謡「春が来た」を歌って聞かせるのだった。
 これは早坂暁が書いたフィクションである。しかし、この様な話は実際に山ほどあったという。80年代の初めから中国残留孤児の肉親捜しが始まった。このシリーズが放送されたのは84年だが、当時は中国残留孤児のことがニュースやワイドショーなどで頻繁に放送されていたので、早坂はこれを巧みにシナリオに取り入れたのである。
 中国残留孤児といえば僕には忘れられないこんな話があった。僕の会社の先輩Oさんには、終戦直前に中国に残された兄がいた。中国残留孤児の肉親捜しが始まり、孤児たちが日本へやって来たニュースがテレビで盛んに放送されていたある日、テレビを見ていたOさんのお母さんが、テレビに映し出された一人の中年男性を見るなり、「○○○だ!」とOさんの兄の名を叫んだという。赤ん坊の時に中国に残してきて40年、その中年男性の顔に、おそらく一日たりとも忘れなかったであろう愛しいわが赤ん坊の面影を見出したのだった。そして間違いなくその男性はOさんの兄であることが証明された。当時、マスコミでも話題になったものだが、この話を同僚から聞いた時、何という母の愛の深さ、そして母と子の強い絆だろうと涙がとまらなかった。

 そしてもう一つ、満蒙開拓団の悲劇は決して忘れてはならない。国は国策として満州に開拓団を送り出しながら、結局最後は国民を見殺しにしたという歴史が厳然としてある。そのことは昨今の何やらきな臭い政治の動きを警戒する上でも、もう一度しっかりと思い起こすべきだ。

世界遺産と炭坑節

2014-06-21 22:11:18 | 音楽芸能
 「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)が正式に世界文化遺産への登録が決定した。まずはおめでたい。次は、熊本県の万田坑や三角西港などが含まれる「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」が早く登録されることを期待している。
 この九州・山口の産業革命遺産群については腑に落ちないことがある。それは、筑豊炭田地域の田川鉱の遺産などが含まれていないことだ。当初の計画では含まれていたらしいが、その後削除されたらしい。どういう経緯があったのだろうか。
 ところで、田川といえば、「月が出た出た」でおなじみ「炭坑節」の発祥の地。レコード化された時の歌詞に「三池炭鉱の上に出た」と歌われたので、三井三池炭鉱が発祥の地と多くの人が勘違いしたようだ。
 その「田川炭坑節」の保存に50年以上の永きにわたり力を尽くしてこられたのが、熊本在住の日本舞踊家・花柳〆太郎さん。もともと〆太郎さんのおばあさんが炭鉱労働者の作業歌に三味線で歌を付けたのが「炭坑節」の始まりという。この〆太郎さんの息子さんが、花童との共演などでわれわれにもおなじみの花柳伯龍さんである。2年ほど前だったか、熊本県立美術館分館で伯龍さんを偶然お見かけし、ご挨拶をしたことがあるが、その時、お母様と思しき方とご一緒だった。別れた後で、「あゝあの方が〆太郎さんだったのか!」と気付き、大変失礼をしてしまった。

▼花柳伯龍さんが加藤清正に扮した「くまもとをどり ~ 熊本城うたまい絵巻 ~」

日本サッカーの未来!

2014-06-20 19:43:12 | スポーツ一般
 ザックジャパンの命運もいよいよ風前の灯し火。コロンビア戦を残すだけとなった。ここまでの展開を見ていると、何やら8年前のドイツ大会を思い出す。あの時はジーコジャパン。中田始め黄金世代といわれたメンバーを揃え、大いに期待を集めたものだが、ふたを開けてみると、互角以上と言われていたオーストラリアに1-3と逆転負け、どうしても負けられないと臨んだクロアチア戦はスコアレスドロー、そして王者ブラジルには完膚なきまでに叩きのめされてグループリーグ敗退となった。決勝トーナメント進出は1回おきというジンクスなのか。でもまだコロンビア戦次第ではどう転ぶかわからない。そこにかすかな希望を持とう。
 もし、今大会がGL敗退となってもサッカーが終わるわけではない。長い歴史のほんの1ページにすぎない。前回の王者スペインだって今回はあのザマだ。長い歴史の中ではいろんなことがある。日本サッカーにとっての救いは、今回敗退して帰ってもサポーターが減るということはないだろう。諸先輩がたの血の滲むような努力によってサッカーが一つの文化として根付いたからだ。1968年のメキシコ・オリンピックで銅メダルを獲った日本サッカーは、数年のうちに弱体化し、国立競技場の日本リーグで数百人の観客しか入らない試合がいくつもあった。そんな時代を見て来た僕としては、たとえ今回1勝も出来なかったとしても、サッカーの未来に悲観することは何もない。

肥後の駒下駄

2014-06-19 13:54:35 | 熊本
 今朝の熊日新聞に熊本市中央区呉服町の老舗履物店「武蔵屋」さんのことが紹介されていた。熊本の伝統的工芸品である「肥後の駒下駄」を作っているのはもう「武蔵屋」さんだけらしい。
 われわれの生活からすっかり姿を消した下駄。僕が入学した頃、済々黌の男子生徒は下駄ばきが標準的なスタイルで、入学祝いに下駄をプレゼントされたことを憶えている。「肥後の駒下駄」だったかどうかは憶えていないが、白い鼻緒でかなり値段が張りそうな下駄だった。この下駄を履いて、まだ石畳だった瀬戸坂をわざとカランコロンと下駄音を響かせながら通学したものだ。しかし、僕が3年生になった頃、校則で下駄ばきが禁止となった。時代にそぐわないという理由だが、バンカラの象徴でもあった下駄の禁止は、生徒の反対運動も起こり、ちょっとした学内紛争の様相を呈したものだ。今思えば笑い話のようだが、そんな出来事もあったりして下駄は僕の生活からフェードアウトして行った。あれから半世紀、近頃、下駄が妙になつかしい。また下駄ばきを始めてみるか。

▼武蔵屋さん




▼熊本民謡「キンニョムニョ」には肥後細川藩時代の仇討物語「肥後の駒下駄」が唄い込まれている。


1枚の写真 ~ なつかしいあの日あの時 ~

2014-06-18 21:51:46 | 水球

 昭和38年(1963)5月、僕が高校3年の運動会の写真である。この年の運動会の写真はこれ1枚きりだ。この時からすでに51年の歳月が流れた。どんな運動会だったのか、ほとんど記憶に残っていないが、ただ一つだけハッキリ憶えているのが部活紹介のパレードだ。パレードでは先輩たちが勝ちとったインターハイや国体などの優勝トロフィーや楯などを持って行進するのが習わしだった。入場門で待機していると必ず、他の運動部の部員たちから「それ何のトロフィー?」と尋ねられたものだが、まるで自分たちが勝ちとったかのように説明するのが誇らしかった。そして、それは自分たちもその伝統を守り、次の世代へつなぐのだという覚悟を決める儀式のようなものだったのかもしれない。