徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

僕の東京オリムピック噺 ~隔世の感あらた!~

2019-01-31 14:42:01 | スポーツ一般
 2020年東京五輪の入場券の料金が大会組織委員会から発表された。開閉会式のチケットは12,000円〜300,000円だそうである。スポーツ情報サイトの「CYCLE」によれば、1964年東京五輪の開会式は500円~8,000円だったそうだ。現在の価値に換算すると約10倍の5,000円~80,000円程度だったのではないかという。今回の料金が高いのか、そうでもないのか、設定根拠がわからないので何ともいえない。
 大会組織委員会が神経をとがらせているのがチケットの不正転売。実は1964年東京五輪の時もあった。当時、チケットは徹夜して並んで購入するしか方法はなかったので、比較的ヒマな学生たちが、自分または他人の資金で買占め、ダフ屋まがいの行為が横行し、社会問題となった。これまでの歴代の大会でも不正転売は常に問題になっており、大会組織委員会がどういう対策を打つのか要注目だ。

 1964年東京五輪の思い出をいくつか。

▼ドン・ショランダー
 この大会のヒーローの一人がアメリカの水泳選手ドン・ショランダー。100、400の自由形とリレー2種目の合わせて4つの金メダルを手にした。この時18歳、水泳はとにかくアメリカの独壇場で、男女合わせて18種目中13種目で金メダルを獲った。連日アメリカ国歌を聞かされたが、その強いアメリカ水泳を象徴する存在がショランダーだった。この時の彼の100㍍の優勝タイム53秒4は、現在では女子にも抜かれている。大会期間中、われわれ競技スタッフの間ではショランダーの可愛い恋人が話題になっていたことを思い出す。



▼水泳ニッポン
 この大会の頃の日本水泳界は、山中毅や田中聡子らを始めとするトップ選手たちがピークを過ぎ、若手もいま一つ伸び悩むという低迷期にあった。ホスト国の名誉をかけて各種目で奮闘するもののメダルは遠かった。そしてとうとう1個のメダルも獲れないまま最終日最終種目、4×200㍍リレーが始まった。代々木競技場は物凄い歓声の中、興奮のるつぼと化した。日本チームの岡部、庄司、岩崎、福井(写真左から)の各選手が力泳し、見事3位でゴール。悲願のメダルを手にした。会場全体が感動の嵐に包まれたあの日の光景を僕は一生忘れない。


あいたかばってんあわれんたい ~「熊本自転車節」異聞~

2019-01-30 17:31:49 | 音楽芸能
 大河ドラマ「いだてん」によって突然「熊本自転車節」にスポットライトが当たった余波が続いている。元唄である「ハイカラ節」から「自転車節」さらに「熊本自転車節」へという経緯については既にブログに書き込んだが、実はあまり知られていない話が他にもある。
 「熊本自転車節」を聞いて勘のいい方ならお気づきだと思うが、彦しゃんという恋人の名前が出て来るけれど、一人称はいったい誰?ということだ。大方の熊本人が想像するとおり、これは「おてもやん」なのである。「熊本自転車節」よりも先、明治30年代の前半には民謡「おてもやん」が成立しており、明治40年代に入る頃には相当流行していたようだ。この「おてもやん」流行の影響を受けて「熊本自転車節」が作られたものと見える。そのため、花柳界では「熊本自転車節」のことを「おても時雨」とか「おてもくずし」と呼んで歌われていたという。彦しゃんというのは八代地方に伝わる「彦一ばなし」の、とんち者の彦一をモチーフにしたものと思われるが、戦後、「肥後にわか」が隆盛を極めていた頃、おてもやんと彦一は代表的なキャラクターだった。「肥後にわか」が始まったのは明治中期の日清戦争後だといわれるが、いったいいつ頃からおてもやんと彦一の組み合わせが始まったのだろう。そんなこんなで興味は尽きない。

〽逢いたかばってん逢われんたい たった一目でよかばってん
 あの山一丁越すとしゃが 彦しゃんのおらす村ばってん
 今朝も今朝とて田のくろで 好かん男に口説かれて
 ほんに彦しゃんのおらすなら こぎゃん腹も立つみゃあばってん
 千代八千代 どうしたもん(縁)じゃろかい



いだてん第2回で、スヤが四三に「自転車節」を教える


古謡のふるさと ~天ヶ庄の子守歌~

2019-01-29 21:18:47 | 音楽芸能
 母の生家がある玉名市大浜町へ行くと、帰りは河内川沿いの県道101号を通って山越えすることが多い。2000年に他界した父はこの道がことのほか好きだった。途中、鮎帰橋のそばに水車がポツンと1基。掲示板に、昔は河内川沿いに80基ほどの水車があり、米や雑穀をつく動力としていたと書いてある。このあたりの地区を平(だいら)地区と呼ぶ。南北朝時代にはこの辺りを菊池氏の家来、天乃氏が治めていたので天ヶ庄と呼んでいたという。この地区には古くから子守歌が歌い継がれていて「天ヶ庄の子守歌」と呼んでいた。天乃氏が菊池家の幼君を預かっていた頃の名残りだという。今日では歌う人もなく、歌詞の一部が残るのみでメロディは失われている。歌詞の内容を読むと、昔はこの辺りまで船がのぼって来ていたようだ。
 県道を熊本へ向かってもう少し進むと、歌枕として知られる鼓ヶ滝がある。その先を右折して橋を渡り登って行くと檜垣嫗や宮本武蔵の伝説が残る岩戸観音の霊厳洞へと続く道である。


河内川(鮎帰橋近く)


だいら水車





友枝昭世 ~卒都婆小町(そとわごまち)~

2019-01-28 17:24:33 | 音楽芸能
 昨夜はEテレの「古典芸能への招待~人間国宝 友枝昭世の至芸」を堪能した。テレビで友枝昭世さん(シテ方喜多流能楽師)の能を観るのは、2015年1月23日放送のEテレ「にっぽんの芸能」で「枕慈童」を。2017年1月29日放送のEテレ「古典芸能への招待~厳島観月能」で「羽衣」を観ているので今回で3回目となる。ナマの舞台は昨年7月28日に福岡の大濠公園能楽堂で行なわれた「狩野琇鵬三回忌追善能」で仕舞「融」を観た1回きりだ。能は千番見るまで語る資格なしだそうなので、まだ百番にも満たない僕には語る資格はないし、語るほどの知識も持ち合わせていないが、とにかくその圧倒的な存在感はわかる。特に今回の「卒都婆小町」は能の中で最も位の高い、奥義中の奥義の曲といわれているそうだから友枝さんくらいの存在感がないと務まらないのだろう。
 観ながらふと、昨年7月の「狩野琇鵬三回忌追善能」で隣り合わせた高齢のご婦人のことを思い出した。なんと能歴70年の方で、友枝昭世さんのお父上、友枝喜久夫さんの至芸をご覧になっていることがご自慢のようだった。昨年、ご覧になった友枝昭世さんの「隅田川」が少々ご不満だったようで、辛口コメントをおっしゃっていたが、友枝さんの仕舞「融」をご覧になった後は「これだけで今回観に来たかいがあった」と言いながら激しく拍手を送っておられた。おそらく昨夜の番組もご覧になっていたと思うがどんな反応をされたのだろうか。




 2015年9月20日、藤崎八旛宮例大祭・段山御旅所での御能奉納において後見を務める友枝昭世さん(左端)。シテとして初舞台の狩野祐一さんの緊張はハンパなかっただろう。(能「敦盛」より)

ミシェル・ルグラン

2019-01-26 21:12:42 | 映画
 映画音楽の巨匠、ミシェル・ルグランさんが亡くなった。86歳だったそうだ。彼が音楽を担当した映画は何本も見たが、なかでも「シェルブールの雨傘」と「華麗なる賭け」が特に忘れられない。
 「シェルブールの雨傘」は僕が大学に入った年に公開されたから既に55年が経つ。しかし、今聞いてもその魅力はいささかも色褪せていない。また、「華麗なる賭け」の主題歌、ノエル・ハリソンが歌った「風のささやき」も印象に残る。映画を観始めて60年以上経つが、これまで観た映画音楽の中で最高の作曲家であり演奏家でもあったと思う。


シェルブールの雨傘


風のささやき

長唄・囃子「喜撰」

2019-01-25 13:40:21 | 音楽芸能
 「喜撰」というのは平安時代の六歌仙(在原業平・僧正遍照・文屋康秀・大友黒主・喜撰法師・小野小町)を題材とした歌舞伎舞踊「六歌仙姿容彩(ろっかせんすがたのいろどり)」に登場する喜撰法師のこと。舞台は江戸時代の祇園に置き換えられ、小野小町に見立てた茶汲み女お梶に口説きかかる踊りなど坂東三津五郎家が代々得意としたといわれる。
「〽やれ色の世界に出家を遂げる・・・」から始まるお馴染み「チョボクレ」の軽快な節回しが何ともここちよい。「まかしょ」などにも登場する「チョボクレ」はもともと上方で願人坊主などの大道芸・門付芸として始まったといわれ、各地に伝わって民俗芸能として残っている地区もある。熊本では宇城市不知火町の「永尾ちょぼくれ」が今日も伝統芸能として伝えられている。写真は十代目 坂東三津五郎(2015年没)の演じる喜撰。


白川大蛇行説

2019-01-24 20:18:00 | 熊本
 昨日の熊日新聞に、熊本城の坪井川沿い長塀北側(竹の丸)でボーリング調査したところ、昔の河川とみられる地層が見つかったという記事が載っていた。深さ約17㍍の辺りから、厚さ3㍍ほどの河川堆積物の層が検出されたという。これが、加藤清正が河川を改修する前の白川の流れだとすると富田紘一さん(肥後考古学会会長)などが提唱されている「白川大蛇行説」が立証されるかもしれない。


旧白川(今の坪井川)の流れは、舌状台地のへりを舐めるように、現在行幸橋が架かる地点辺りから右に曲がり、桜の馬場から第一高校あたりにかけて大きく膨らんで流れていた可能性がある。


桜の馬場から合同庁舎跡あたりの石垣は、白川の浸食崖を上手く利用して築いたものかもしれない。加藤清正は、この白川の河運を利用して熊本城の築城資材を運んだ。段丘上の国立熊本病院敷地内には築城時の修羅道跡が残っている。





慶長10年(1605)に作成された「慶長国絵図」に描かれた蛇行する白川

今週のカバー写真 ~水前寺成趣園と漱石~

2019-01-23 19:16:35 | 文芸
 夏目漱石は水前寺や江津湖がことのほかお気に入りだったと、熊本を去って10年後の九州日日新聞のインタビューに答えている。水前寺のこんこんと湧き出る水にちなんだ俳句が残されている。一昨年の暮れ、熊本地震で倒壊した出水神社の鳥居の石を利用して次の三つの句碑が建てられた。

湧くからに流るるからに春の水・・・(成趣園正門の脇)

しめ縄や春の水湧く水前寺・・・・・(出水神社手水舎の脇)

鼓うつや能楽堂の秋の水・・・・・・(能楽殿芝生席の隅)

下の写真は能楽殿の句碑と能舞台。


▼余談
 大河ドラマ「いだてん」の第2回に、夏目漱石と思しき青年が登場した。父に連れられて嘉納治五郎に会いに行った四三少年を肩車して治五郎の柔道指導を見せてくれる。四三の父と同じく胃に弱点がありそうな感じ。漱石が熊本にやって来たのは明治29年なので、四三少年が6、7歳の頃とすれば時代的には合うことになる。もちろんこれはフィクションで、映画「フォレスト・ガンプ」的なエピソード挿入だろう。

「自転車節」余話

2019-01-22 19:06:21 | テレビ
 20日に放送された「いだてん」第3回では肥薩線にSL人吉を走らせ、それを綾瀬はるか演じる春野スヤが自転車で追っかけて爆走するという凄いシーンがあったり、スヤが玉名の池部さんとの縁談を匂わせたりと綾瀬はるかの存在感が際立っていた。四三は結局、池部家の養子となってスヤと・・・。
 それはさておき、今回の放送後も先週に続いて「熊本自転車節」へ多くの方にアクセスいただいた。投稿後、8年も経ってから注目していただけるなど思いもしなかった。綾瀬はるかが唄う熊本弁の歌詞が注目されているが、「熊本自転車節」と呼ぶのは「自転車節」が先にあったからである。神長遼月の「ハイカラ節」をもとにして唄われ始めた「自転車節」はいつ頃誰が唄い始めたのかわかっていない。ただ、明治時代後期には流行していたことが、日本自転車史研究会のサイトなどに記載されている。日本自転車史研究会の「自転車資料年表」に、1910年(明治43)10月10日発行の「今流行自転車ぶしと博多ぶし」(編集兼発行者 大淵浪 発行元:駸々堂)という記載がある。そしてサイトの中のブログには、その小冊子の一部が掲載されている。つまり明治43年の時点でこの唄が流行していたことがわかる。また、大正6年に発行された「十美人:芸者自慢」という芸者必携の唄本には「自転車節」も掲載されている。このことから、この当時は全国的に唄われていたと推測できる。「熊本自転車節」はこの「自転車節」に熊本弁の歌詞を付け加えたものである。


「♪あいたかばってんあわれんたい…」と唄いながら自転車を漕ぐ綾瀬はるか


俚奏楽 南部育ち

2019-01-21 21:21:05 | 音楽芸能


 昨日の熊本県邦楽協会演奏会の演目のうちで印象に残った一つが秀美会の「俚奏楽 南部育ち」。
 南部とは、青森県の東半分、岩手県の北部および中部、秋田県北東部という3県にまたがる広大な地方のこと。この地方の代表的な民謡、次の3曲の組曲となっている。
 子どもだと思っていた小佐井濯君がいつの間にか立派な青年になって唄と低音三味線を担当していた。

▼南部牛追唄
 〽田舎なれどもサーハーエ 南部の国はサー 西も東もサーハーエ 金の山 コラサンサエー

▼外山節
 〽わたしゃ外山の ひかげのわらび たれも折らぬで ほだとなる コラサノサンサ

▼からめ節
 〽ハアドッコイ ドッコイ ドッコイナ 田舎なれども 南部の国は 西も東も金の山 ハアドッコイ
  ドッコイ ドッコイナ


「久留米座」能

2019-01-19 22:36:46 | 音楽芸能
 喜多流による「久留米座」能を観に行く。この舞台が入る久留米シティプラザは、20数年前の久留米在住の頃、久留米井筒屋があったところ。今回初めて行ったがすっかり景色が変わっていた。演能が行われる時は、立派な特設能舞台が組まれ、素晴らしい雰囲気だ。
 今回の番組は狂言「附子」と能「船弁慶」。「附子」はおなじみの演目で、たしか今回で5回目くらいか。3年前には熊本復興支援狂言で野村万作・萬斎親子共演の「附子」を観た。能「船弁慶」はテレビでは観たことがあるが、ナマの舞台は初めて。シテは狩野了一さんで、後シテの平知盛の怨霊はさすがに迫力十分。義経を務めた子方の石田大雅君は、これまでも何度か舞台で可愛らしい姿を拝見しているが、いつの間にか凛々しい少年になっていた。大島輝久さんの解説で、ずっと前から不思議に思っていた義経がなぜ子方なのかという謎も解けた。



久留米シティプラザ


久留米座舞台



「久留米座」能ポスター


石田大雅君(2016年の熊本城薪能にて)

日本人のおなまえっ!

2019-01-18 18:03:41 | 日本文化
 昨夜のNHK「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」では、大河ドラマ「いだてん」の主人公「金栗四三」の姓「金栗」の由来を四三の母役の宮崎美子が調べていた。その結果、「金栗」というのは「金凝(かなこり)」が変化したもので、もともと金属を取り扱う技術者集団であったということがわかった。
 さらに、「いだてん」で狂言回し役の古今亭志ん生の本名は「美濃部孝蔵」といい、美濃部家は菅原道真の子孫で、滋賀県南部の甲賀の領主として甲賀忍者をとりまとめる家でもあったという興味深い話があった。昨夜の出演者の一人、中尾彬の妻、池波志乃は志ん生師匠の孫にあたるという。
 甲賀といえば、彦根在勤の頃、水口高校などへリクルートに行っていた頃を懐かしく思い出した。
 菅原道真といえば梅。わが家や近隣の梅もほころび始め、かすかに早春の匂いを漂わせている。


護国神社梅園の紅梅(今日の様子)

あの日 ~熊本国体と五十四万石~

2019-01-16 23:05:33 | スポーツ一般
 昭和35年(1960)10月23日、熊本では1回目の秋の国体が全国から1万3千人が参加して開幕。メイン会場の水前寺競技場では超満員の観衆が見守るなか開会式が行われた。
 この年、僕は中学3年で、高校受験の準備が始まっていたこともあってか、大会を見に行くチャンスはなかった。しかし、このひと月前にはローマ・オリンピックが行われたばかりで、4年後はいよいよ東京オリンピックがやって来るというので世のスポーツ熱は高かったことを覚えている。ローマ五輪の水球に参加した中学の先輩、藤本重信さんが、日の丸を付けた白いブレザーを着て学校に挨拶に来られ、そのカッコよさに憧れたものだ。

開会式のマスゲームでは細川九曜紋をかたどった形で、婦人会による「五十四万石」が踊られた。

      ▼五十四万石(作詞:野口雨情 作曲:大村能章)

「いだてん」ロケ地のはなし。

2019-01-15 17:06:37 | テレビ
 大河ドラマ「いだてん」第2回の放送に登場したロケ地の中から。

▼熊本城・戌亥櫓(いぬいやぐら)
 嘉納治五郎が熊本の旧制第五高等中学校に赴任する場面に登場。こんな道を行くわけないのだが、熊本城を背景にしたかったのだろう。治五郎が赴任した明治24年は宇土櫓はあったが天守閣は復元されていないので消している。ただ、戌亥櫓は明治初期に破却されていて、この当時はまだ復元されていないはずだが、このシーンは場所を特定しているわけではないのでそのまま地震前の戌亥櫓の映像を使ったようだ。面白いのは西出丸石垣の補修工事が行なわれているような加工があるが、この明治24年は明治熊本地震の2年後。現在、崩落したままの石垣をうまく利用したものと見える。




戌亥櫓(2018年3月23日)


▼熊本城・宇土櫓
 嘉納治五郎一行が宇土櫓を背景に記念撮影をするシーン。現在の加藤神社境内からのショットだが、左の方の天守閣が入らないようなアングルで撮っている。




宇土櫓(2019年1月12日)


▼田原坂(熊本市北区植木町)
 幼い金栗四三が父に連れられて嘉納治五郎に会いに行く途中、田原坂で一休みするシーン。うしろに西南戦争の痕跡、弾痕の家が見える。当時、春富村から熊本へ行くには高瀬から汽車に乗ったはずだが、いったいどんな行程だったのやら。




弾痕の家


▼高瀬船着場(玉名市永徳寺)
 成長した四三(中村勘九郎)が駆け抜ける高瀬船着場のシーン。俵ころがし周辺にセットを組んだらしい。菊池川にかかる鉄橋(高瀬川橋梁)の上をSLが渡って行く様子をCGで描いている。



 
高瀬船着場と俵ころがしの跡


▼二俣橋(下益城郡美里町)
 海軍兵学校に不合格となった四三が落ち込んでいると、後に妻となる春野スヤがやってきて発破をかけるシーン。二俣の双子橋のうち二俣渡しの上だが、ここは冬の晴れた日、陽が差すと橋の下にハートマークが現れるという「恋人の聖地」として有名。二人の関係を象徴するシーンとなっている。




二俣渡し。橋の下の石段を綾瀬はるかが降りるシーンもある