goo blog サービス終了のお知らせ 

徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

「gooブログ終了」と「熊本地震9年」と

2025-04-14 18:15:53 | 
 今日の昼前、ブログ友の油屋種吉さんからのコメントでショッキングな情報を知った。2025年11月18日をもってgooブログサービスが終了するというのだ。2005年2月にgooブログを開設して以来20年。別のブログサービスへ引っ越すのか、それともこのタイミングでブログをやめるのか決めかねている。
 今日は奇しくも熊本地震前震から9年の日。gooブログ歴の中でも最大の出来事だったが、あの記憶を風化させてはならない。熊本地震に関するgooブログ記事は、形はどうあれ残していきたい。
 本震の翌日に投稿したブログ記事を再掲してみた。

◆余震のまにまに(2016.4.17)
 二晩を車中で明かしたが、昨夜は雨の予報もあり、94歳の母にとってこれ以上は無理と判断し、僕らもさすがに疲れたので、姉婿の親族が経営する保育園の一室に泊めてもらい食事まで提供してもらった。おかげで母もだいぶ元気を取り戻したようで、僕らも睡眠不足はだいぶ解消した。
 ただ、やはり水が出ないのはこんなに不便なものかということを実感した。いまだに余震は続いているが、明日には水道も復旧の見込みだというし、一日も早くふだんの生活に戻りたいものだ。
 今日の午後、車の給油に行ったが、スタンドは軒並み売切れで給油をあきらめ、帰ろうとしたが、今度は道路の大渋滞に巻き込まれた。どうやら、水、食料ほか生活用品を求める人々が売っている店を探し回っているようだ。今までの各地の大地震などで散々同じようなことが発生したはずなのだが、その経験は災害対策のなかに活かされないのだろうか。

▼残念にも崩落した京町のむくり屋根の家(F氏宅)の石垣。屋内には西南戦争時の弾痕が残る。

お地蔵さん巡り

2025-03-10 19:17:20 | 
 今年二度目の風邪も治まって来たので今日は京町台を歩いた。今日の趣向は「お地蔵さん巡り」。

 最初はわが家に最も近い中坂の登り口にあるこのお地蔵さん。かつてはこの地に民謡「ポンポコニャ」にも唄われた金剛寺(現在は新屋敷1丁目)があった。この石仏、いつ誰がここに安置したのか誰も知らない。金剛寺といえば中将姫を祀った寺として知られる。僕はこのお地蔵さんは、かつてこの地に祀られていた中将姫の身代わりではないかと思って手を合わせている。



 次は中坂中腹の浄土宗専念寺の山門脇に鎮座するお地蔵さん。専念寺は、江戸前期の細川綱利公時代の「京町之絵図」に見えるので相当古いお寺であることは間違いない。お地蔵さんの台座に「天保」の文字が見えており江戸後期に彫られたものか。ただ、京町の古手の住民で、昔は中坂頂上辺りにお地蔵さんがあったという方がおられるので、ひょっとしたらここへ移って来られたのかもしれない。



 今日の最後は、宇土小路が京陵中学校前を通る県道に突き当たる角に鎮座する二尊のお地蔵さん。それぞれ、弘化と天明の文字が彫られており、50年ほどの時差があるようだ。かつて宇土小路の中間にあり、民家建設のため撤去を余儀なくされた二尊がここへ移されたものかもしれない。今度、近くの住民の方に確認しておこう。



 お地蔵さんが登場する歌といえば、美空ひばりさんの「花笠道中」がまず頭に浮かぶ。

五高記念館で来し方を思う

2025-03-05 18:54:06 | 
 先月27日、熊本大学黒髪キャンパスの五高記念館を訪れた。漱石関連の展示を見るためだったが、残念ながら五高記念館は臨時休館。ここを訪れたのは久しぶりだったので、しばらく煉瓦造り二階建ての校舎を眺めて過ごした。
 ここに来ると決まってある想いが湧いてくる。それは自分自身の来し方のこと。自分の進路を考え始めたのは中学に入って、同級生が進路の話をするのを聞くようになってからである。僕は両親が教職だったので、何となく将来は教職の道へ進むのだろうなぁと漠然と考えていた。おそらく両親もそれを望んでいただろう。その流れで行くと、多分、熊本高校に進学して熊本大学の教育学部を目指したのだろう。一方で、僕は中学入学と同時に水泳部に入っていたので高校でも続けたいという気持もあった。
 中学3年の時、ローマ五輪の水球に参加した中学の先輩、藤本重信さんが、日の丸を付けた白いブレザーを着て学校に挨拶に来られた。そのカッコよさに憧れたものだ。さらにその年熊本で行われた国体では高校水球の決勝で、済々黌が熱戦を繰り広げていて、その結果に熊本県の天皇杯獲得がかかっているという情報が授業中の教室に飛び込んできた。そんな出来事があって僕は済々黌に進んで水球をやりたいという気持が強くなってきた。担任の先生との進路面談でその気持ちを伝えると、先生には意外なことだったらしく、「君は熊髙に進んでご両親と同じ教職の道を目指すのかと思っていたよ」と言われた。さらに「しかし、僕は君の選択を支持するよ!」と付け加えられた。
 僕は結局、済々黌へ進んで水球部に入り、インターハイや国体で貴重な経験をした。大学もスポーツ推薦で入学し、そんな経歴が就職にもつながった。
 ひょっとしたら進学していたかもしれない熊本大学の五高記念館の煉瓦造りを眺めながら、中学3年時の判断が人生のターニングポイントになったことに思いを致すのである。 


熊本大学五高記念館

日曜日の徒ばなし

2025-02-23 17:21:24 | 
 今日は久しぶりに散歩がてら熊本市現代美術館まで行った。
 途中、夏目漱石内坪井旧居に立ち寄って、新年度のイベント計画をたずねたが、館長のお話しでは、予算取得の問題もあり未定であるとのこと。

 上通を歩いていくと「元祖熊本ラーメン こむらさき」の前を通る。この店にも随分来ていないなぁと思いながら、ふと店名の由来にもなったという江戸吉原随一と謳われ、「小紫・権八」の悲恋話でも知られる花魁小紫のことが頭に浮かんだ。「そういえば大河ドラマ『べらぼう』には・・・」と思いかけたが、小紫はたしか、蔦重よりずっと前の時代だったことを思い出した。



 現代美術館に着くと、美術図鑑でも眺めてゆっくりしようと思っていたホームギャラリーはイベント会場になっていた。客席は既に満席となっていたが、立ち見はできそうだったので、イベントを見ていくことにした。「プロジェクト大山」というコンテンポラリー・ダンスのユニットだった。テレビで見ることはあってもナマで見ることはないジャンルのパフォーマンスなので興味深かった。普段見る機会が多い日本舞踊などとつい比較してしまう。最初の演目が終わると突然ジャズライブが始まった。ピアノとヴォーカルだけの「イパネマの娘」を聴きながら、ちょっとシュールな空気感が面白かった。


昨夜の夢 ~エルヴィス~

2025-01-18 22:20:21 | 
 昨夜、不思議な夢を見た。
 僕はどこかのホールで行われているライブコンサートを観に行っている。ステージでは一人の歌手が1本のギターを爪弾きながら歌っている。顔がハッキリとはわからないが、風体から見てエルヴィス・プレスリーのようだ。バラードなのだが不思議なことに日本語で歌っている。そして観客が彼の歌に合わせて合唱しているのだ。今まで聞いたことのないその歌を、あとで曲名を調べてみようと必死に耳コピーした。
 しかし、朝起きてみるとそのメロディは儚く消えていた。何でこんな夢を見たのだろうとしばらく布団の中で考えた。
 思い当たるのは先日、NHK-BSのプレミアムシネマでエルヴィス・プレスリーの伝記ドラマ「エルヴィス」をやっていた。僕が中高生の頃、エルヴィス主演の映画をよく観に行ったものだが、そのエルヴィスのイメージと、この映画でエルヴィスに扮している役者のイメージがあまりにも違うので途中で見るのをやめた。その後、前から気になっている、英語で演じられる能「青い月のメンフィス」(Blue Moon Over Memphis)のイントロダクションPVをYouTubeで見た。エルヴィスのファンにとって聖地となっているテネシー州メンフィスの、かつての邸宅グレイスランドを訪れた旅人の前にエルヴィスの霊が現れるという夢幻能である。おそらくそんな映像などが入り混じってわけのわからない夢になったのだろう。

 エルヴィスの主演作「ブルー・ハワイ」の中で歌う「好きにならずにいられない(Can't Help Falling In Love)」

 夢幻能「青い月のメンフィス(Blue Moon Over Memphis)」の紹介PV

春のたより

2025-01-16 19:54:08 | 
 今日は朝から国立熊本病院へ。先日受けた消化器検査の結果を聞くためだったが、だいぶ待たされた挙句、結果が届いていないので来週再来院の指示。憮然たる思いで帰路につく。二の丸広場を通って帰ろうと「二の丸休み処」の前に差しかかると、中のモニターに、一昨年他界した同級生の顔がアップで映っていてビックリした。勇知之君といって、郷土史家で「西南の役」研究家として知られていた。誘われるように中に入りバンコに座って見た。西南戦争で証明された熊本城の堅固さを紹介するビデオ映像だった。勇君はその解説役として登場していた。しかし、「休み処」の客はほとんど外国人。ビデオには無関心のようだったが、勇君もきっとこの様子を見て苦笑していることだろう。
 頬が凍てつくような空気を感じながら二の丸広場を歩いたが、もう1,2週間も経てば護国神社の紅梅の開花のたよりが聞けるだろう。


つぐない

2025-01-11 19:23:59 | 
 年賀状じまいをご連絡いただく方も多くなり、僕の出状数もかつての半数以下になってしまった。いまだに年賀状のやり取りを続けている方のなかに、那須塩原市の栃木工場勤務時代の同僚Kさんがおられる。Kさんからの賀状の中に「昨年6月に定年退職」した旨、書き添えてあった。僕が東京へ転勤になった後、彼女は一度退職し、結婚・出産などを経て再雇用されたことは知っていた。いわゆる仕事のできるタイプで、特に当時進められていた業務OA化の尖兵となっていたので再雇用と聞いた時は「さもありなん」と思ったものだ。
 「定年退職」と聞いて「もうそんな歳になっていたか!」と驚いたが、考えてみれば僕が栃木工場に勤務したのはもう40年も前。彼女は高校時代バレーボールの選手で歌もうまかった。時々、週末には職場の仲間で行きつけのカラオケスナックに行くことがあったが、彼女の歌で今でもよく思い出すのが、当時流行り始めていたテレサ・テンの「つぐない」。伸びやかな歌声に聞きほれたものだ。栃木工場時代のことを思い出すとどこからか彼女の歌う「つぐない」が聞こえて来るような気がする。


年末のご挨拶

2024-12-31 17:05:19 | 
今年も多くの皆様に、当ブログをご訪問いただきありがとうございました。
厚く御礼申しあげます。
今年は元日から「能登半島地震」の報が飛び込み、8年前の「熊本地震」を思い出し、
暗澹たる1年の始まりを感じさせました。
来るべき新年も何が待ち構えているのか油断はできません。
ともあれ、皆様方がご息災でお幸せな1年になりますよう心よりお祈りいたします。
新年も当ブログをよろしくお願い申しあげます。
筆主敬白


阿蘇中岳の噴煙

年末お礼参り

2024-12-29 20:32:09 | 
 このところの寒さで外歩きは控えていたが、そろそろ運動不足が気になりだしたので、神社への年末お礼参りを兼ねて久しぶりに散歩した。加藤神社はお礼参りの参拝者で賑わっていた。かかりつけ医からインフルエンザが流行しているので人混みは避けるよう言われていたことを思い出し、今日は鳥居の下から遥拝するにとどめた。
 二の丸広場を通り抜け、護国神社へ行くとこちらは数人しか見えなかったので拝殿前まで進んで参拝した。すっかり正月の装いが整っていた。鳥居下の「終戦より八十年」の看板が目についた。終戦は昭和20年8月。僕はこの年度の生まれなので感慨深いものがある。


正月の装いが整った熊本県護国神社


新年は終戦から80年

 護国神社から二の丸広場へ戻る途中、住江門跡を通りながら、ふと住江金之(すみのえきんし)博士のことを思い出した。住江博士とは熊本県御船町出身の醸造学の権威である。御船町の地酒醸造元に生まれた博士は五高、東大を出たあと、細川家の重臣住江家の養子に迎えられた。住江門とは近くに住江家の邸があったことから名付けられたもの。
 つい先日、日本の「伝統的酒造り」がユネスコの無形文化遺産に正式登録され、熊本県の酒造関係者も大喜びというニュースが流れていたが、住江博士もその歴史を築いたお一人として喜んでおられることだろう。


住江門跡

八景園の赤い椿

2024-12-28 22:15:21 | 
 この時季の花といえばすぐに頭に浮かぶのは「椿の花」。僕が子どもの頃、わが家の2軒先にあった「八景園」の庭に咲く赤い椿である。「八景園」と言ってもわが家の大家Y氏宅なのだが、かつて「八景園」という名の茶屋を開いていたので近所の人たちはみなこの家のことを「八景園」と呼んでいた。普通の民家には見られない屋根の付いた棟門が茶屋の名残りを思わせた。その門をくぐるとすぐ脇に一本の椿の木があり、晩秋になると赤い花を咲かせた。
 茶屋を開いていたのは戦前までだったらしいが、この店の前を通る道「新坂」は戦後の車社会になるまでは、熊本市内と上熊本駅の間を歩いて行き来する行商人や荷馬車を引く馬方などが行き交う道だった。うどんが売りだったらしいが「八景園」は格好の「峠の茶屋」的な存在だったという。
 3年ほど前、フォローさせていただいているブログ「水前寺古文書の会」さんの「明治42年頃の熊本の遊びどころ」という記事に、当時の人気店が23店舗ほど紹介されていて、その中に挙げられている「一休」という料理屋が、「八景園」の前身であったことに驚いたことがある。この料理屋「一休」の女将は二本木遊郭内にあった西券番でならした芸娼お繁という人で、才色兼備の女将だったそうである。京町台の東端に位置する眺望の佳さが売り物だったようだが、庭に咲く赤い椿の花も客を和ませていたのかもしれない。「一休」という店名も「峠の茶屋」を感じさせる。

師走の平凡な一日

2024-12-19 20:04:07 | 
 朝のニュースで「熊本にも初雪・・・」と言っていた。未明に降ったらしい。阿蘇山を眺めてみた(下写真)が、雪だまりのようなものは見えるが、まだ冠雪というほどではない。
 今日は父の月命日で菩提寺のご住職が来られる日。師走でお忙しいのか、坊守さん(奥様)がやって来られた。坊守さんはこれまでも何度か来られたが、ご住職には失礼ながら僕は坊守さんの読誦が好きだ。女性らしい柔らかい声でよどみなく進んで行く。少し節がついていて、まるで声明(しょうみょう)のような美しい読誦が続く。読まれるのはお経ではなく正信偈(しょうしんげ)という親鸞聖人が残した詩歌のようなもの。102歳の母が唱和する。母は女学校時代に習得し今でも丸暗記している。
帰命無量寿如来
南無不可思議光
法蔵菩薩因位時
在世自在王佛所・・・

 今年もあと2週間。午後出かけた時に、京町本丁の正善寺の掲示板にこんな書が貼ってあった。
  「正月に初日の出を拝む人は多いが、大晦日の夕日を拝む人は少ない」
 言われてみればたしかにそうだ。大晦日の夕暮れにはお天道様に今年一年の感謝を込めて拝みたいと思う。


わが家から遠望する阿蘇の山々

今年忘れられない風景(1)

2024-12-07 21:10:02 | 
SL人吉の引退
 1922年に製造された蒸気機関車「8620形58654号機」愛称「ハチロク」は「SLあそBOY」として、また「SL人吉」として101年の永い間頑張ってきたが、機関車の老朽化、部品調達や技術者の確保が難しくなった等の理由により、今年3月23日のラストランを以て引退した。
 釜尾町の井芹川に架かる鶴野橋の上から見送ったが、汽笛を鳴らしながら去って行く「ハチロク」を見ていると、僕の生きた時代が遠い彼方へ過ぎ去って行くようで万感胸に迫るものがあった。


「別れの汽笛」が胸に響く




大河ドラマ「いだてん」(2019)では綾瀬はるかが「ハチロク」を追って爆走した

不思議なご縁

2024-11-09 17:45:51 | 
 今日はベスト電器北熊本店に行った後、立田山麓の立田自然公園(泰勝寺跡)へ足を伸ばしてみた。茶室仰松軒での月イチ生け花指導に来られるU先生とお話しするのが楽しいので、今度いつ来られるのか公園入口の受付でたずねてみると、なんと今月は今日と明日来られる予定だという。10時には来られるというので、それまでにお詣りをしておこうと四つ御廟に向かった。四つ御廟の入口で二人のご婦人が園内清掃のおじさんに何か尋ねておられた。どうやらお二人は初めての来園で、ガラシャ夫人のつくばいを探しておられたようだ。僕もちょうどガラシャ廟の方へ行こうとしていたので、「つくばいは御廟の脇にありますよ」と言ってお二人をご案内した。
 それからしばらくお二人とガラシャ夫人のことや忠興公のことなどを立ち話した。なんとお二人も生け花の先生に会うのが目的だったようだ。そろそろ先生がお見えになるかと茶室仰松軒の方へ移動した。園内ではモデルさんの撮影会が行われていた。7、8人のモデルさんとその倍くらいの人数の撮影者がそれぞれ思い思いの場所を選んで撮影していた。この公園に来始めて20年以上経つと思うが初めて見る光景だった。
 結局、今日は先生のご都合がつかなかったのかお見えにならなかった。この公園では今までも意外な出会いを経験したが、今日も不思議なご縁を感じた。


茶室仰松軒でのモデル撮影

細川忠利公御廟にお参りしながら

2024-09-28 21:35:40 | 
 昨日は所用で西区の親戚を訪ねた。その帰り道、北岡自然公園(妙解寺跡)の前を通ったので、久しぶりに公園に立ち寄ってみた。以前入園したのは熊本地震の前だから8年ぶりくらいか。閉館まで1時間くらいしかなかったので、とりあえず細川忠利公御廟だけでもお参りしようと御廟所へ向かった。80段ほどの石段を登るのは今の体力にはちょっときつかった。
 お参りをしながら、立田山にあるわが家の墓のことを思い出した。40年ほど前、父が墓を改葬したが、それまでは古い苔むした墓が二つ立っていた。その一つには「島原の乱で戦死した第十五代の孫」と刻まれていた。細川家に仕えていたことはわかっているので、「島原の乱」ということは、わが第十五代は細川忠利公(細川忠興、ガラシャの三男)に仕えていたということなのか。祖父が亡くなった時、父が幼かったため家督を親戚筋に譲ったこともあって、わが家には記録が何も残っていない。僕が生きているうちになんとかファミリーヒストリーを明らかにしたいと思っているのだが・・・
※右は細川忠利公像

細川家御廟所

恩師を偲んで

2024-09-25 21:06:52 | 
 今日は夕方、京町から出町、稗田町辺りを散歩した。稗田南公園の近くに高校時代お世話になったY先生のお宅がある。先生とは高校卒業以来、一度もお目にかかったことはない。今日通り過ぎようとすると駐車場に高齢のご婦人が立っておられた。奥様かなと思いながら、思い切って声をかけてみた。
「失礼ですがY先生のお宅ですよね」
 よく聴こえなかったとみえ、怪訝な表情で歩み寄って来られた。
 だいぶ耳が遠くなっておられるようだ。
「失礼ですがY先生の・・・」と大声で繰り返すと「はいそうです」。そこで
「高校時代にお世話になった者です」と言うとにっこりと笑みを浮かべながら
「手が届きませんで申しわけありません」とおっしゃる。
 そこで肝心の質問をぶつけてみた。
「先生はご健在でしょうか?」
 もし健在ならば100歳を超えておられるはずだがと思いながら返事を待っていると、
 質問には直接答えず
「だいぶ頑張ったんですけどね~」とおっしゃる。
 言葉のニュアンスから、長い闘病生活があったのではないかと感じ、それ以上は聞かなかった。
「いつお亡くなりになったんですか?」と尋ねると
「大正12年だったでしょうか」
 おそらく平成の間違いだと思って問い直すことはしなかった。高校時代のご恩への感謝を再び述べ、「どうかいつまでもお元気で」と挨拶をして失礼した。

 実はこのY先生、数学の先生で、僕が数学が苦手で留年の危機にあった時、マンツーマンで補習をやっていただき、何とか危機を逃れることができた大恩人なのである。

   星の界(What a Friend We Have In Jesus - Tamura Makiko Session)