徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

平安時代の熊本(3)

2023-06-30 17:07:45 | 歴史
 平安時代の熊本の3回目。平安中期の「三十六歌仙」の一人であり、肥後国司を務めた清原元輔(清少納言の父)と、世阿弥の能「檜垣」のモデルでもある檜垣媼。交流があったとも伝えられるこの二人は歌人としての足跡を残している。

 清原元輔の歌として肥後に関係があるものは、

      藤崎の軒の巌に生ふる松いま幾千代の子の日過ぐさむ


藤崎八旛宮(熊本市中央区井川淵町)境内の清原元輔歌碑

   音にきく鼓の瀧を打ち見ればたゞ山川の鳴るにぞありける


鼓ヶ瀧(熊本市西区河内町野出)

前者は藤崎八旛宮――今の藤崎台上――で、新春の子ノ日の遊びに、小松曳きを催して詠んだ歌である。後者は金峯山中、巌殿山――俗称「岩戸の観音」――のうしろの谷なる鼓ヶ瀧――を詠んだもので、まことに巧妙な歌であるが、これは元輔の作ではなく檜垣の作であるということにもなっており、その他異説もある。檜垣の「岩戸観音」信仰は有名なもので、彼の山中にいろいろ伝説も残っているし、また天明年中に発見せられた「檜垣自作の像」というのも国文学者の間には名高く、現に寺宝となっている。


岩戸観音(熊本市西区松尾町平山)

檜垣は毎日、国府のほとりから、この岩戸の観音へ日参していたと伝えられている。彼女は府中長谷山のほとりにも住んでいたことがあるが、その主なる住居は白川のほとり――今の蓮台寺――であったと信ぜられ、同寺境内には今なお檜垣が水を汲んだ井戸というのが残っている。なお同寺に檜垣の塔および同女の木造も祀られている。


白川の流れ。檜垣はこのほとりに草庵を結び、今日の蓮台寺(熊本市西区蓮台寺)の前身となった。


檜垣が毎日、閼伽の水を汲んだと伝えられる井戸の跡

 同女の歌として有名なものは、

  年ふればわが黒髪も白川のみづはくむまで老いにけるかな

  糸島をかけて飛ぶ鳥まてや鳥尾にも羽根にもこと伝へせむ

  身をうしと思ふ心に懲りねばや人をあはれと思ひそむらむ

なお横手町下北岡には、清原元輔を祀った「清原神社」という小さな石祠がある。いつの頃から奉祀せられたものか不明であるが――それほど古くからあるというが――珍しいことである。

上半期のベストシーン

2023-06-29 21:15:44 | 
 明日で今年の上半期が終わる。あっという間の半年だった。振り返ると様々な場面が思い出されるが、そんな中でも特に印象深いベストシーンを二つ選んでみた。

安絵巻「曲水の宴」
 5月4日、平安時代の宮中行事を再現した「曲水の宴」が代継宮(熊本市北区龍田)で開催された。代継宮の「曲水の宴」は今年で11回目。色鮮やかな十二単など平安時代の衣装を纏った歌人たちが庭園内の小川沿いに座り、酒杯が目の前を通るまでに与えられた歌題の和歌を詠んだ。今回の歌題は「山吹」と「鶯」。会場を取り巻く観客は雅な平安絵巻を楽しんでいた。


女性歌人に扮した後生川凜アナ(RKK)が短冊に和歌をしたためる


後の島唄コンサート
 3月21日、熊本城二の丸広場で最後の「古謝美佐子・熊本城島唄コンサート」が行われた。2001年に始まったこのコンサートは、熊本地震や新型コロナなどで中止された年もあったが、20回目を数える今回で幕を閉じることとなった。雨が降りしきる中、「熊本節」「春の唄」「花」「童神」などお馴染みの曲が次々と演奏され、詰めかけたファンから盛んな拍手が送られた。2010年からずっとゲスト出演した舞踊団花童が「春の唄」「花」などで踊りを添え、華やかに盛り上げた。島唄ファンの一人としてこのコンサートが終わるのはやはり寂しい。


出演者全員でのフィナーレ

寺田寅彦と映画

2023-06-28 20:55:07 | 文芸
 夏目漱石内坪井旧居を訪れるといつも邸内を見た後に見ておきたくなるのが寺田寅彦ゆかりの馬丁小屋。漱石を俳句の師と仰いだ寺田寅彦(1878~1935)は物理学者であり、随筆家、俳人でもあった。彼の随筆の中には漱石について書かれたものもいくつかあり、漱石の実像を知る上でもとても貴重な作品ばかりだ。
 その寺田は、当時まだ草創期にあった映画についても数多くの随筆を残している。彼の死後88年経ち、映画は著しい発展を遂げたが、彼の指摘は極めて正確に的を射ており、今日読んでも興味深い。下の文章は昭和7年8月に「日本文学」誌に寄稿した「映画芸術」と題する随筆の一部である。

◆映画と国民性
 すべての芸術にはそれぞれの国民の国民的潜在意識がにじみ出している。映画でもこれは顕著に滲透(しんとう)している。アメリカ映画はヤンキー教の経典でありチューインガムやアイスクリームソーダの余味がある。ドイツ映画には数理的科学とビールのにおいがあり、フランス映画にはエスカルゴーやグルヌイーユの味が伴なう。ロシア映画のスクリーンのかなたにはいつでも茫漠(ぼうばく)たるシベリアの野の幻がつきまとっている。さて日本の映画はどうであろう。数年前の統計によるとフィルムの生産高の数字においてはわが国ははるかにフランスやドイツを凌駕(りょうが)しているようであるが、これらの映画の品等においてはどうであるか。たくさんの邦産映画の中には相当なものもあるかもしれないが、自分の見た範囲では遺憾ながらどうひいき目に見ても欧米の著名な映画に比肩しうるようなものはきわめてまれなようである。
 ロシア崇拝の映画人が神様のようにかつぎ上げているかのエイゼンシュテインが、日本固有芸術の中にモンタージュの真諦(しんたい)を発見して驚嘆すると同時に、日本の映画にはそれがないと言っているのは皮肉である。彼がどれだけ多くの日本映画を見てそう言ったかはわかりかねるが、この批評はある度までは甘受しなければなるまい。なんとなればわが国の映画製作者でも批評家でも日本固有文化に関心をもって、これに立脚して製作し批評しているらしい人は少なくも自分の目にはほとんど見当たらないからである。アメリカニズムのエロ姿によだれを流し、マルキシズムの赤旗に飛びつき、スターンバーグやクレールの糟(かす)をなめているばかりでは、いつまでたっても日本らしい映画はできるはずがないのである。
 剣劇の股旅(またたび)ものや、幕末ものでも、全部がまだ在来の歌舞伎(かぶき)芝居の因習の繩(なわ)にしばられたままである。われらの祖父母のありし日の世界をそのままで目の前に浮かばせるような、リアルな時代物映画は見たことがない。チャンバラの果たし合いでも安芝居の立ち回りの引き写しで、ほんとうの命のやりとりらしいものはどこにも求められない。時局あて込みの幕末ものの字幕のイデオロギーなどは実に冷や汗をかかせるものである。現代の大衆はもう少しひらけているはずであると思う。もちろん営利を主とする会社の営業方針に縛られた映画人に前衛映画のような高踏的な製作をしいるのは無理であろうが、その縛繩(ばくじょう)の許す自由の範囲内でせめてスターンバーグや、ルービッチや、ルネ・クレールの程度においてオリジナルな日本映画を作ることができないはずはない。それができないのは製作者の出発点に根本的な誤謬(ごびゅう)があるためであろう。その誤謬とは国民的民族的意識の喪失と固有文化への無関心無理解とであろう。もっとも、良い映画のできないということの半分の責任は大衆観客にあることももちろんであろうが、しかし元来芸術家というものは観賞者を教育し訓練に導きうる時にのみ始めてほんとうの芸術家である。チャップリンのごとき天才は大衆を引きつけ教育し訓練しながら、笑わせたり泣かせたりしてそうして莫大(ばくだい)な金をもうけているのである。
 和歌俳諧(はいかい)浮世絵を生んだ日本に「日本的なる世界的映画」を創造するという大きな仕事が次の時代の日本人に残されている。自分は現代の若い人々の中で最もすぐれた頭脳をもった人たちが、この大きな意義のある仕事に目をつけて、そうして現在の魔酔的雰囲気(ふんいき)の中にいながらしかもその魔酔作用に打ち勝って新しい領土の開拓に進出することを希望してやまないものである。それには高く広き教養と、深く鋭き観察との双輪を要する事はもちろんである。「レオナルド・ダ・ヴィンチが現代に生まれていたら、彼は映画に手を着けたであろう」とだれかが言っているのは真に所由のあることと思われる。

寺田寅彦が好んだフランス映画「パリの屋根の下」(ルネ・クレール監督)から



夏目漱石内坪井旧居


夏目漱石内坪井旧居玄関


寺田寅彦が居候を望んだ漱石内坪井旧居の馬丁小屋


寺田寅彦の下宿先(黒髪町下立田)

祓い給へ 清め給へ 守り給へ 幸え給へ

2023-06-27 20:15:03 | 日本文化
 今日は藤崎八旛宮段山御旅所での「夏越大祓」の日。近年はここで「茅の輪くぐり」をし、半年の穢れを祓い清め、後半年の息災を祈願することにしている。
 この「茅の輪くぐり」は新型コロナが猛威を振るい始めた頃に話題になった日本神話のスサノオノミコトと蘇民将来のエピソードに由来する。スサノオノミコトの「疫病を逃れるために、茅の輪を腰につけなさい」との教えを守った蘇民将来は難を逃れられ、以来、無病息災を祈願するため腰につけていた茅の輪が、江戸時代になると、現在のように「茅の輪くぐり」に変化したといわれている。くぐり方の作法は神社によって多少違いがあるそうだが、「祓い給へ 清め給へ 守り給へ 幸え給へ」と唱えながらくぐると、より災厄から逃れられるといわれている。


神職を先頭にくぐり始め、参拝者があとに続く。


藤崎八旛宮例大祭で奉納能が行われる能楽殿が仮の拝殿となっている。

山形愛羽選手 布勢スプリントで快走!

2023-06-25 19:58:23 | スポーツ一般
 陸上競技日本グランプリシリーズは今日、鳥取で「布勢スプリント」が行われ、熊本期待の山形愛羽選手(熊本中央高校)が女子100mに出場した。彼女には今月初めに行われた日本選手権に出場してほしかったのだが熊本県高校総体と日程が重なり、日本選手権は出場できず残念だった。
 今日は予選3組を11.60で1位通過。強豪ぞろいの決勝では11.55という自己ベストをマーク、3位と同タイムの4位に入賞した。グランプリシリーズの転戦などで徐々に実力が安定してきたようだ。いよいよ8月のインターハイが楽しみになってきた。


レース後の山形選手(730番)

4:50あたりからトップ8による決勝レース

   ▼RESULT

通潤橋 国宝指定へ

2023-06-24 21:46:46 | 熊本
 熊本県山都町の通潤橋が文化審議会より国宝答申したことにより、今秋、熊本県では二番目の国宝が指定されることになった。
 小学校の頃、通潤橋や布田保之助の話を先生から聞いた覚えがあるが、今も県内の小学校などでは教えているのだろうか。
 参考のため、戦前の小学校の修身教科書に載っている「通潤橋」の話を下記してみた。


放水時の通潤橋(キロクマさんより)


2008年に訪れた時、撮影した雷雲と通潤橋の写真


▼通潤橋(昭和18年出版 初等科修身より)
 熊本の町から東南十数里、緑川の流れに沿うて、白糸村というところがあります。あたり一面高地になっていて、緑川の水はこの村よりもずっと低いところを流れています。また、緑川に注ぐ二つの支流が、この村のまわりの深い崖下を流れています。
 白糸村はこのように川にとり囲まれながら、しかも川から水が引けないところです。それで昔は水田は開けず、畠の作物はできず、ところによっては飲水にも困るくらいでした。村人たちはよその村々の田が緑の波をうつのを眺めるにつけ、豊かに実って金色の波がうつのを見るにつけ、どんなにかうらやましく思ったでしょう。
 今からおよそ百年ほど前、この地方の総莊屋に布田保之助という人がありました。保之助は村々のために道路を開き、橋をかけて交通を便にし、堰をもうけて水利をはかり、大いに力をつくしましたが、白糸村の水利だけはどうすることもできないので、村人と一緒に水の乏しいことをただ嘆くばかりでした。
 いろいろと考えたあげくに、保之助は深い谷をへだてた向こうの村が白糸村よりも高く、水も十分にあるので、その水をどうかして引いてみようと思いつきました。しかし、小さな掛樋の水ならともかくとして田をうるおすほどのたくさんの水を引くのはなまやさしいことではありません。保之助はまず木で水道を作ってみました。ところが水道は激しい水の力で一たまりもなくこわされ、固い木材が深い谷底へばらばらになって落ちてしまいました。
 けれども、一度や二度のしくじりでこころざしのくじけるような保之助ではありません。今度は石で水道を作ろうと思っていろいろと実験してみました。水道にする石の大きさや水道の勾配を考えて、水の力のかかり方や吹きあげ方などをくわしく調べました。とりわけ、石の継ぎ目から一滴も水ももらさないようにする工夫には一番苦心しました。そうしてやっと、これならばという見込みがついたので、まず谷に高い石橋をかけ、その上に石の水道をもうける計画を立てて、藩に願い出ました。
 藩の方から許しがあったので、一年八ヶ月を費やして大きな眼鏡橋をかけました。高さが十一間余り、幅が三間半、全長四十間。そうしてこの橋の上には三筋の石の水道が作ってありました。
 初めて水を通すという日のことです。保之助は礼服を着け、短刀をふところにしてその式に出かけました。万が一にもこの工事がしくじりに終ったら、申しわけのため、その場を去らず、腹かき切る覚悟だったのです。工事を見とどけるために来た藩の役人も、集まった村人たちも、他村からの見物人も保之助の真剣な様子を見て、思わず襟を正しました。
 足場が取り払われました。しかし、石橋はびくともしません。やがて水門が開かれました。水は勢い込んで長い石の水道を流れて来ましたが、石橋はその水勢にたえて相変わらず谷の上に高くどっしりとかかっていました。望みどおりに水がこちらの村へ流れ込んだのです。
 「わぁ」という喜びの声があがりました。保之助は長い間、苦心に苦心を重ねた難工事ができあがったのを見て、ただ涙を流して喜びました。そうして水門をほとばしり出る水を手に汲んで、おしいただいて飲みました。
 まもなく、この村にも水田の開ける時が来て、百町歩ほどにもなりました。しだいに村は豊かになり、住む人は増えて、藩も大いに収益を増すようになりました。
 橋の名は通潤橋と名付けられ、今もなお深い谷間に虹のような姿を横たえて、一村の生命を支える柱となっています。

感謝と鎮魂

2023-06-23 19:42:40 | 友人・知人
 時々送られてくるブリヂストン社友会ニュース(OB会報)に掲載されている訃報欄に、存じ上げている方の名前を拝見することが多くなりました。今月のニュースには在職時代に大変お世話になった方が3名載っていました。
 お一人目は栃木工場時代の直属上司のI様。信頼していただいて幅広い仕事を任せていただきました。名家のご出身で見識が高く、また多趣味で、プライベートでも大変お世話になりました。弟様は著名なクラシック音楽の指揮者でした。
 お二人目は同じく栃木工場時代の大先輩S様。この方を初めて知ったのは1964年の東京オリンピックの時。水泳の自由形の選手で、この大会の日本水泳唯一のメダルを獲得した800㍍リレーメンバーの一人です。大会のプールサイドで見ていた僕は、後に同じ職場で働くことになるとは思いもしませんでした。同じ水泳畑ということで公私にわたって大変お世話になりました。
 お三人目は東京本社時代にちょうど社員の高齢化対策が始まり、健康管理情報システムを構築するためのプロジェクトが立ち上がり、僕が事務局担当を仰せ付かりました。そのプロジェクトメンバーの一人として横浜工場から参加いただいたのがT様です。ダンディーでソフトな語り口でシステムエンジニアとしての提案をしていただき、多くのことを学ばせていただきました。

 お三方に心からの感謝と哀悼の意を捧げます。


龍馬と四時軒

2023-06-22 20:59:14 | 歴史
 沼山津の知人宅を訪問した帰り、近くの「四時軒」を訪ねた。熊本地震で被災し、今年の2月復旧したばかりだが、実に13年ぶりの訪問だ。「四時軒」というのは幕末維新の開明思想家として知られる横井小楠旧居のことである。幕末ここには多くの志士たちが訪れているが、中でも最も興味深いエピソードを残しているのが坂本龍馬である。龍馬はここを三度訪れている。

 一度目は1864年2月、幕命で勝海舟とともに長崎に向かう途中、熊本城下に入った龍馬は、勝海舟の命を受け、宿舎の新町本陣(御客屋)から踵を返すように沼山津の四時軒へ向かい蟄居謹慎中の小楠に金子を届けている。
 二度目はその2ヶ月後、長崎からの帰りに再び四時軒を訪れ、小楠から依頼されていた小楠の甥二人と門弟一人を神戸海軍操練所へ連れて行っている。
 三度目はその翌年、1865年5月のことで、薩長連合実現に奔走していた頃、薩摩から長州に向かう途中、鹿児島の米ノ津から船で熊本にやって来て四時軒に寄っている。夜を徹しての酒宴談義で第二次長州征伐について激論が戦わされ、遂には口論になったという。その後二人は会うことがなかった。

 その二度目の訪問の際、小楠宅で一夜を明かした龍馬を、八丁馬場まで送ってもらうよう小楠が隣人に依頼したという。その隣人が「時々わからない言葉で話していた」と龍馬について語っている。
 また、三度目の訪問は鹿児島の米ノ津から船で来ているので前回、前々回とは別のルートで来ているようで、川尻に着いたとすれば、5月下旬という季節も考えると、舟運を使ったのではという説もあるらしい。現在の秋津川は舟で上れるような川ではないが、当時、有数の港だった川尻から加勢川を経て、支流の秋津川まで舟で入れる水量があったというから、帆掛け舟での加勢川遡上説もあり得るような気がする。


四時軒の座敷から飯田山を望む


今日はここちよい風が座敷を吹き渡っていた


四時軒の南門(秋津川側)


秋津川の両岸には草が生い茂り四時軒内からは水面が見えないが、今日も変わらず清流が流れていた。

町芸者の生まれた街

2023-06-21 21:34:16 | 音楽芸能
 今日は霧のような細かい雨が時折降っていたが、寺原町のかかりつけ医に定期的な診察を受けに行った。受診後、すぐ裏を流れる坪井川を眺めてしばらく過ごした。ボンヤリしているとどこからか三味の音が聞こえるような気がした。



 寺原町は、明治から昭和初期にかけて熊本のお座敷文化を支えた町芸者「土手券」発祥の地。昭和初期に坪井川の河川改修が行われ、流路が変わったので正確な位置関係はわからないが、下の地図(大正7年頃)の一番下の「流長院」の上にある「庚申橋」のたもと坪井川土手沿いに町芸者たちが住んでいたらしい。「土手券」の名の由来である。「券」とは「券番(検番)」のこと。当時は舟運が盛んだったので町芸者も普通に舟を操っていたらしい。地区の祭では坪井川に舟を浮かべ、舟上では土手券たちが音曲を奏でて賑わったという。



 当時の風景を思い浮かべながら、と言っても見たことはないので想像するしかないが、さぞや情趣豊かな風景が展開したであろう。「都々逸」や「さのさ」なんぞが聞けたらもう最高だ。


品川心中

2023-06-20 22:07:04 | 古典芸能
 気になるエンタメ情報を見つけた。WOWOWで古典落語の名作「品川心中」がドラマ化されるという。主役の遊女お染を演じるのは人気女優・吉岡里帆さんだそうだ。「品川心中」はNHKの「超入門!落語 THE MOVIE」でいずれやってくれるのではないかと期待していたのだが… WOWOWは契約していないので ( ;ㅿ; )
 それはさておき、落語「品川心中」はテレビで何度か見たが、最後に見たのは2015年10月に橘家圓蔵師匠の追悼番組(NHK)だったからもう8年前になる。
《あらすじ》
 品川の女郎お染は人気も陰り、物日に必要な金を用立ててくれる客もいない。女郎たちから馬鹿にされるので死のうと思うが、一人で死ぬのも癪なので誰かを道連れにすることを思いつく。なじみの客の中から、少々とんまな貸本屋の金蔵を道連れにすることにする。さて顛末はいかにというお噺。

 このお噺を一つのエピソードとして取り込んだ映画が川島雄三監督の傑作時代劇コメディ「幕末太陽伝」。落ち目の遊女お染を演じた名女優・左幸子さんと心中の道連れにされる貸本屋の金蔵を演じた小沢昭一さんのコミカルなやりとりが秀逸。


「幕末太陽伝」でお染を演じた左幸子さん

古今亭志ん朝師匠の名調子で聴く「品川心中」

幕末に品川宿で流行った「品川甚句」

高砂と阿蘇神社

2023-06-19 21:53:24 | 伝統芸能
 またまた前日の記事からの連想で恐縮だが、漱石「草枕」の「鈴鹿馬子唄」のくだりより少し前に巻き戻すと、
 「おい」と声を掛けたが返事がない。
の有名な書き出しで二章が始まる。ここで登場するのが茶屋の婆さん。画工はその婆さんの顔を見て、宝生流の能舞台で見た「高砂」の姥にそっくりだと思う場面だ。

―― 返事がないのに床几に腰をかけて、いつまでも待ってるのも少し二十世紀とは受け取れない。ここらが非人情で面白い。その上出て来た婆さんの顔が気に入った。
 二三年前宝生の舞台で高砂を見た事がある。その時これはうつくしい活人画だと思った。箒を担いだ爺さんが橋懸を五六歩来て、そろりと後向きになって、婆さんと向い合う。その向い合うた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔がほとんど真むきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。茶店の婆さんの顔はこの写真に血を通わしたほど似ている。 ――


高砂の浦に現れる尉と姥

 「高砂」といえば熊本ゆかりの能。ワキは阿蘇神社の神主友成である。そういえば、平成28年の熊本地震で倒壊した阿蘇神社の楼門が復元間近だというニュースを最近見た。今年中には一般公開が始まるという。
 阿蘇神社のある一の宮町はかつて僕は仕事で何度も訪れた懐かしい町。阿蘇神社にももう何十年も参拝していない。復興なった時にはまず参拝し、昔お世話になった方を訪ねてみたい。

   ▼「高砂」のエンディング・住吉明神の神舞

空山一路(くうざんいちろ)

2023-06-18 22:10:53 | 文芸
 昨日、YouTubeに投稿した「俚奏楽 伊勢土産」には「坂は照る照る 鈴鹿は曇る」という「鈴鹿馬子唄」のフレーズが織り込まれている。この一節を聞きながら、ふと漱石の「草枕」を思い出した。峠の茶屋の婆さんとの会話の合間に、馬の鈴の音が聞こえ、画工を「夢現」の世界に誘う。

―― 会話はちょっと途切れる。帳面をあけて先刻の鶏を静かに写生していると、落ちついた耳の底へじゃらんじゃらんと云う馬の鈴が聴こえ出した。この声がおのずと、拍子をとって頭の中に一種の調子が出来る。眠りながら、夢に隣りの臼の音に誘われるような心持ちである。余は鶏の写生をやめて、同じページの端に、
  春風や惟然が耳に馬の鈴
と書いてみた。山を登ってから、馬には五六匹逢った。逢った五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らしている。今の世の馬とは思われない。
 やがて長閑な馬子唄が、春に更けた空山一路の夢を破る。憐れの底に気楽な響がこもって、どう考えても画にかいた声だ。
  馬子唄の鈴鹿越ゆるや春の雨 ――

 漱石が鈴鹿峠を歩いて越えたという話は聞いたことがない。おそらく小天温泉へ向かう峠道で五六匹の馬と馬子に出逢い、聞き覚えた「鈴鹿馬子唄」が頭に浮かんだのだろう。

 「鈴鹿峠」は東海道土山宿から坂下宿への峠道で難所の一つであり、お伊勢参りに向かう西国の旅人にとっての要衝である。「伊勢土産」を作った本條秀太郎さんも漱石と同じようにこの風景を表現したかったのかもしれない。


「空山一路」を思わせる漱石が歩いた草枕の道



YouTube動画800本目

2023-06-17 21:38:06 | Web
 YouTubeへ投稿した動画が、今日投稿した「俚奏楽 伊勢土産」で、公開・非公開合わせて800本に到達した。2009年の終わりごろから試作を始め、翌2010年から本格的に投稿を始めて13年。まさに「塵も積もれば山となる」である。始めた当初はこんな本数を投稿するなど考えもしなかった。
 これからは新作はそれほど増えないと思うので、投稿済みの動画のうち記録的価値がありそうなものをリマスターしたり、字幕を付けたりすることに重点を置きたいと思っている。

 今日投稿した800本目の「俚奏楽 伊勢土産(歌詞付)」



 投稿を始めた当初、手掛けた何本かの作品の中から下の「どちりなきりしたん」を再見してみた。


おてもやんの音楽的系譜

2023-06-16 22:10:48 | 音楽芸能
 4年ほど前、熊日新聞で毎月第4金曜日の夕刊に連載されていた「肥後にわか~笑いの来た道~」では、肥後にわかと民謡「おてもやん」の深い関係について取り上げていました。そして「おてもやん」の音楽的系譜について「東海風流プロジェクト(水野詩都子・﨑秀五郎)」さんが寄稿されました。紙面では要約が掲載されていましたが、今回あらためて全文を紹介いたします。(一部編集させていただきました。)


 私どもは「東海風流(とうかいふりゅう)プロジェクト」と申しまして、民謡歌手 水野詩都子と三味線演奏家 﨑秀五郎が2015年に立ち上げたプロジェクトです。近年歌われなくなってしまった中部の唄を歌い継ぐため、現地調査・取材・検証を行い、発表する活動をしております。
 私どもの発表の場の一つである「中部のうたを聞く会」を通じ、中部の民謡(うた)を中心に、関連のある曲をご紹介しながら、唄と三味線のコンビならではの演奏を主体とした形で、普段聞く民謡をいつもと違う角度で聞いていただこうと構成したものです。

 「おてもやん」の曲のルーツは諸説ある中、私どもは音楽という観点も踏まえて下記の通り考えております。
 江戸で流行った歌は、花柳界に移り、それを聞いた客が覚えて帰り、全国各地でも流行ります。昔の宿の泊まり方は、保養・療養が主な目的で、七日とか十日といった長逗留が当たり前ですので、毎晩聞こえる歌も覚えてしまいます。
 そして芸妓の移動です。かつて芸妓には旦那《提供者を意味するdonorドナーが語源》の存在がありました。スポンサーの様なものですが、適度に援助したり協力する程度のものではなく、芸妓一人を見出し決めるとほとんど生涯にわたり世話をするほどのものでした。そんな旦那について行き、各地で流行歌を披露します。
 また、幕府公認の吉原芸者以外、移動が自由だったため、芸者衆は各地に移動しながら仕事をしていたことも伝播に大きな影響があったひとつです。他にも江戸で流行った唄が歌舞伎などの芝居に取り入れられ、地方巡業で全国に広まるということもあります。
 さて、明治20年頃「きんらい節」という曲が流行りました。上方の噺家・初代芝楽が京都から江戸に移り、「きんらい節」を披露し花柳界から瞬く間に全国に届くほど大流行しました。蓄音機ができる10年前ですから、広範囲で流行したというのは今考えると凄い事だと思います。曲のおしまいに呪文のような囃子言葉があります。

「キンムクレッツノスクネッポ スッチャンマンマンカンマンカイノ オッペラポーノ キンライライ
 そおじゃ おまへんか アホらしいじゃ おまへんか」

 明治大正期は意味のない言葉や英語やポルトガル語のようなものを歌の最後につけて楽しむ歌が流行ったようです。「オッペケぺー」とか「ギッチョンチョン」などと言うのもあります。長崎で「キンライライ」というのは、「また来てね」という意味で使うらしいのですが、あまり関係ないように思います。また、江戸の人には最後の関西弁が非常にウケたのでしょう。
 そして通称「そうじゃおまへんか節」と言われました。この系統の唄は、必ず「そうじゃおまへんか」の旋律が入っています。
「名古屋名物」で言うと、「おそぎゃあぜえも」。
「おてもやん」で言うと、「花盛り花盛り」「それが因縁たい」。
「男なら」で言うと、「オーシャリシャリ(仰る通り)」の部分です。
この「きんらい節」に影響された、山形県の座敷の騒ぎ唄の「酒田甚句」があります。

「酒田甚句」
〽︎日和山 沖に飛島 朝日に白帆
 月も浮かるる最上川 船はどんどん えらい景気
 今町船場町 興屋の浜 毎晩お客は どんどん
 しゃんしゃん しゃん酒田はよい港
 繁盛じゃおまへんか ハーテヤテヤ

酒田は最上川が海に注ぐ港町。歌詞が関西弁であることから北前船寄港地として酒田港が繁栄していたことが伺えます。この他にも「金沢訛り(石川県)」「どんがらがん(福岡県)」などがあります。
さて、この「そうじゃおまへんか節」を名古屋の芸妓が取り入れ、出来上がったのが「名古屋名物」です。

「名古屋名物」
〽︎名古屋名物 おいて頂戴もに すかたらんにおきゃせ ちょっともだちゃかんと ぐざるぜも
  そうきゃもそうきゃも何でゃあも 行きゃすか置きゃすか どうしゃあす
  お前(みゃ)はまこの頃 どうしゃあた 何処ぞに姫でも出来せんか
  出来たら出来たと言やあせも 私も勘考(かんこ)があるぎゃあも おそぎゃあぜも

 最初から最後まで地元の人しかわからないほどの濃い名古屋弁が特徴の歌詞です。「きんらい節」の《スッチャンマンマンカンマンカイノ オッペラポーノ キンライライ》の部分は、「名古屋名物」で言うと《ちょっともだちゃかんと ぐざるぜも》です。また、名古屋名物の大きな特徴として、この後「語り」部分を導入した事です。この洒落たアレンジが、名古屋娘の可愛らしさをさらに強調させます。そして、これを母体に影響を受けたのが「日高川甚句」「熊本甚句(おてもやん)」と言われております。
 ウタは、他にも、旅人や相撲の巡業、瞽女など様々な形で伝播して行きます。明治30年過ぎには蓄音機ができます。それによって鮮明に伝わり、瓜二つの曲ができたのかもしれません。「そうじゃおまへんか節」の系統の唄は、旋律の他に歌い出しの旋律もよく似ています。また三味線の手付けも酷似しています。
 ルーツには幾通りの見解があります。以上は、あくまで私ども「東海風流プロジェクト」としての見解です。私どもも日々探っていく中、大変勉強になることばかりで、今後も引き続き検証して参りたいと思っております。
東海風流プロジェクト
水野詩都子 本條秀五郎




2010.3.27 熊本城長塀前特設ステージ 坪井川大園遊会
立方:ザ・わらべ
地方:福島竹峰と福島竹峰社中/藤本喜代則と藤本喜代則社中/中村花誠と花と誠の会

「おてもやん」ふたたび

2023-06-15 22:34:00 | 音楽芸能
 熊本夏の風物詩「火の国まつり」が4年ぶりに帰ってくる。第46回火の国まつりは8月4日(金)から6日(日)まで熊本市マチナカで開催される。メインイベントの「おてもやん総おどり」は8月5日に行われるが、約4000人が参加予定だそうだ。

 ところでYouTubeマイチャンネルに「おてもやん」を10本ほどアップしているが、その中で最も人気があるのが下の映像。もう
12年前にアップしたものだが、その8年後には字幕版もアップ。二つ合わせて38万回の再生回数を数える。踊っているみわちゃんとゆうあちゃんは当時たしか7歳と4歳。既に二人とも舞踊団花童を卒業しているが、いまだに視聴者からコメントをいただく。二人にとって少女舞踊団時代の思い出として一生の記念になることを願っている。

2011.4.15 熊本城・本丸御殿 春の宴
踊り:こわらべ(みわ・ゆうあ)
演奏:藤本喜代則社中・中村花誠社中