松本喜三郎作の活人形「谷汲観音像」に会いたくなり、4年ぶりに熊本市北区高平の浄国寺を訪れた。本堂に上ると、奥様が開口一番、「今、BSで放送していますよ」と仰る。何という偶然、浄国寺を訪問した、まさにその時間、NHKプレミアムで、4年前にNHK-BS2で放送した「男前列伝」という番組の再放送をやっていた。俳優の山本耕史が熊本を訪れて、活人形「谷汲観音像」に強く心を動かされるという内容だったが、僕はその番組を見て初めて浄国寺を訪問したのだった。今日また再放送されることは全く知らなかったので、目に見えない力に動かされたような気がしてならない。そして4年ぶりに拝んだ観音様の表情は、今回もまた「すべてお見とおしだ!」と仰っているような気がした。
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われわれ熊本人には遠い話のように聞こえるが、どっこい、実はとても関係が深いのである。潮来の船頭たちが唄う舟唄がもとになったと言われる「潮来音頭」に対し、「潮来甚句」は宮城県の「塩釜甚句」が伝わったものだという。江戸時代、明暦の大火(1657年)以後、幕府は奥州各藩から米を買い付るようになり、伊達藩の米を積んだ千石船が盛んに潮来へ入って来た。そして一緒に伝わったのが「塩釜甚句」。この「塩釜甚句」が何を隠そう、もとはと言えば、海運に乗って塩釜へ伝わった「牛深ハイヤ節」なのである。つまり、「潮来甚句」と「牛深ハイヤ節」は親戚筋に当るというわけだ。芸能文化の歴史を辿ると実に面白い話にいくつも出くわすのである。
※右の絵は「潮来図誌」より
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今から380年前の寛永9年(1632)、肥後細川藩初代藩主の細川忠利公が、入府後初めて藩内の各地を視察してまわった時、筑後との国境にある多久村の星原番所で出されたお茶を大変気に入り、「御前茶」として献上するようになった。以降、旧藩時代には、毎年新茶ができ上がると、細川家の九曜紋の入った茶壷に納め、椎持往還を通って殿の御前へ運ばれていたという。椎持往還は、まさに肥後の殿様御用達のお茶の通る道だったのである。
静けさや悲しきかぎり思ひ倦(う)じ対へる山の秋の日のいろ(若山牧水)
松尾東小学校に行ってみたくなり、とりあえず行ってみた。ちょうど裏門から先生と思しき女性が出て来られたので事情を話し、校内を見せていただきたいとお願いすると、「喜ぶと思いますからぜひ校長にお会いください」とのこと。別の女の先生に取り次いでもらって校長室を訪問。にこやかに招き入れられたので、父の初任地であることや他の学校に統合されるというニュースのことなどを話した。校長先生は、まだ今後の計画は未定であること。生徒数が30名を切り、複式学級であることや今のままではクラブ活動もできず、子どもたちにとってはどちらが幸せなのかわからない等々、現状を懇切丁寧に説明いただく。突然の訪問にもかかわらず貴重な時間を割いていただき感謝に堪えない。校長先生が保存されている学校の記録集の、昭和初期の教員名の中にたしかに僕の父の名前が書かれていた。
秋色に染まり始めた金峰山と、連なる山々の景色を眺めていると、その美しさと静けさに悲しくなるのはなぜだろう。
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それはさておき、高杉晋作を高良健吾君がやるのは楽しみだ。江戸の品川宿に逗留していた時に起こした御殿山の英国公使館焼き討ち事件なども当然エピソードとして語られるだろう。邦楽指導は本條秀太郎さんが今回も担当されるかどうかわからないが、おそらく品川遊郭での座興のシーンがあると思うので「品川甚句」をやってくれないかな。端唄大好きおじさんの切ない願いである。
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今朝の熊日新聞に、熊本市西区の松尾東、松尾西、松尾北の小学校3校を、同じ城西中校区の小島小と統合する方向であるというニュースが載っていた。児童数の減少でやむをえないことなのかもしれないが、このうちの松尾東小は昔、松尾小学校といって僕の父にとっては初任配置された思い出深い学校。もし生きていれば寂しがったに違いない。また、この学校は平安時代の女流歌人、檜垣嫗が閼伽の水を汲んで岩戸観音へ日参した道沿いにあり、僕も季節ごとに訪れる馴染みのルートでもある。もし、学校が無くなってしまうとなれば寂しさは禁じ得ない。
昭和6年に師範学校を卒業した父は、川尻尋常高等小学校勤務の辞令をもらったものの、すぐに5ヵ月間の短期兵役に服務した。兵役が明けて8月31日付けでもらった辞令は何と松尾尋常小学校への転任。従って松尾が実質的な初任地ということになった。その初出勤の様子を父は次の様に書き遺している。
さて、辞令を受けたら一週間以内に赴任すればよいと聞いていたし、娑婆の風に吹かれるのも5ヶ月ぶりだから2、3日休養してからとのんびり構えていた。ところが退営の翌日、つまり9月1日の昼過ぎクラスメートのK君が訪ねてきた。彼は当初から松尾小勤務となっていたので一緒の赴任である。二人とも未知の学校であり、所在地も知らないので下見に行こうというわけだ。新市街からフォード幌型のバスに揺られて30分、運転手に教えられて松尾村役場入口という標柱のある所に降り立った。辺り一帯は田んぼであり家は一軒もない。行く手300メートル位の山麓に農家が2、3戸点在している。進むこと10分余、集落に差しかかった。しかし校舎らしい建物は見当たらない。里人に聞くと「学校はさらに10分程登ったところ」だと言う。ここからはいよいよ爪先上りの山道である。K君と顔を見合わせながら「えらい辺鄙な学校だな」と言いつつ上りに上る正面には金峰山が峨々として突立っている。右手は急斜面の櫟林、左手は段々畑でその下に谷川のせせらぎが聞こえる。漸く校舎が見えてきた村道から幅1メートル程の通学路に入り十数段の階を上ったところに校舎はあった。しかし、校舎内外に人影はなく静まり返っている。なるほど今日は第二学期の始業日、みな早退したのだなと思いつつ校庭を一巡していると、端の教室からオルガンの音が聞こえてきた。そこで教室に入り来意を告げたところ、日直勤務という女先生が「職員も児童も新任の先生のおいでを待ち焦がれています」との言葉。こうなれば何をか言わん翌日から出勤と相成った次第である。松尾小は金峰山の南麓段丘の山懐に位置し、職員7名(男5、女2)、児童150名余、学校長以外はすべて学級担任である。当時ほとんどの学校には校番さん(今の用務員)か小使いさんがいたが、この校にはその配置がなく、例えば鐘打ちは高等科の男子の当番という具合で、それぞれを職員もしくは児童で補っていた。
昭和6年に師範学校を卒業した父は、川尻尋常高等小学校勤務の辞令をもらったものの、すぐに5ヵ月間の短期兵役に服務した。兵役が明けて8月31日付けでもらった辞令は何と松尾尋常小学校への転任。従って松尾が実質的な初任地ということになった。その初出勤の様子を父は次の様に書き遺している。
さて、辞令を受けたら一週間以内に赴任すればよいと聞いていたし、娑婆の風に吹かれるのも5ヶ月ぶりだから2、3日休養してからとのんびり構えていた。ところが退営の翌日、つまり9月1日の昼過ぎクラスメートのK君が訪ねてきた。彼は当初から松尾小勤務となっていたので一緒の赴任である。二人とも未知の学校であり、所在地も知らないので下見に行こうというわけだ。新市街からフォード幌型のバスに揺られて30分、運転手に教えられて松尾村役場入口という標柱のある所に降り立った。辺り一帯は田んぼであり家は一軒もない。行く手300メートル位の山麓に農家が2、3戸点在している。進むこと10分余、集落に差しかかった。しかし校舎らしい建物は見当たらない。里人に聞くと「学校はさらに10分程登ったところ」だと言う。ここからはいよいよ爪先上りの山道である。K君と顔を見合わせながら「えらい辺鄙な学校だな」と言いつつ上りに上る正面には金峰山が峨々として突立っている。右手は急斜面の櫟林、左手は段々畑でその下に谷川のせせらぎが聞こえる。漸く校舎が見えてきた村道から幅1メートル程の通学路に入り十数段の階を上ったところに校舎はあった。しかし、校舎内外に人影はなく静まり返っている。なるほど今日は第二学期の始業日、みな早退したのだなと思いつつ校庭を一巡していると、端の教室からオルガンの音が聞こえてきた。そこで教室に入り来意を告げたところ、日直勤務という女先生が「職員も児童も新任の先生のおいでを待ち焦がれています」との言葉。こうなれば何をか言わん翌日から出勤と相成った次第である。松尾小は金峰山の南麓段丘の山懐に位置し、職員7名(男5、女2)、児童150名余、学校長以外はすべて学級担任である。当時ほとんどの学校には校番さん(今の用務員)か小使いさんがいたが、この校にはその配置がなく、例えば鐘打ちは高等科の男子の当番という具合で、それぞれを職員もしくは児童で補っていた。
大分の栗田弘一さんの Facebook に大分市剣八幡にまつられている絵馬「波奈之丸入港図」の写真が掲載されていた。栗田さんにお願いして転載させていただいたが、まるで自分が見て来たような錯覚を起こすほどの迫力だ。機会があればぜひ一度見に行きたい。また、御舟唄の復元が実現し、実際に聴くことができる日が来ることを願ってやまない。
郷土史家の大平五雄先生は「ふるさと寺子屋」の中で次のように紹介している。
■大分に残る"肥後の文化財"
最大の難所「滝室坂」を越え、街道を行くと、大分に入る。ここで豊後街道は肥後街道と名前を変える。野津原町今市には石畳が当時のままの姿で残っている。手入れの行き届いた実に見事なものだ。
野津原をすぎると、ついに九州の終着駅"鶴崎"。一行は船に乗って瀬戸内海へとむかった。ここには、細川氏築建の剣神社があり、"細川船団"の絵馬「波奈之丸入港図」や絵巻物がまつられている。"波奈之丸"とはいかなる大波もどうすることもできない、という意味で、航海の無事を祈願してつけられた。また、行列を描いた絵巻物は非常に貴重な逸品。神社に現存する唯一のものである。
一説によると、清正は、熊本に来る前からどこを領地にもらおうか、目安をつけていたそうである。"参勤交代の時、便利なように"という理由で、天草とひきかえに、久住・野津原・鶴崎を手に入れた。
そのため大分では今なお加藤清正の人気が高く、様々な"肥後の文化財"も大切に保存されている。熊本ではまず見られない逸品も数多く現存している。感謝の気持ちをもつとともに、私達熊本の人間もその姿勢を大いに見習いたいものである。
▼クリックすると拡大します
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郷土史家の大平五雄先生は「ふるさと寺子屋」の中で次のように紹介している。
■大分に残る"肥後の文化財"
最大の難所「滝室坂」を越え、街道を行くと、大分に入る。ここで豊後街道は肥後街道と名前を変える。野津原町今市には石畳が当時のままの姿で残っている。手入れの行き届いた実に見事なものだ。
野津原をすぎると、ついに九州の終着駅"鶴崎"。一行は船に乗って瀬戸内海へとむかった。ここには、細川氏築建の剣神社があり、"細川船団"の絵馬「波奈之丸入港図」や絵巻物がまつられている。"波奈之丸"とはいかなる大波もどうすることもできない、という意味で、航海の無事を祈願してつけられた。また、行列を描いた絵巻物は非常に貴重な逸品。神社に現存する唯一のものである。
一説によると、清正は、熊本に来る前からどこを領地にもらおうか、目安をつけていたそうである。"参勤交代の時、便利なように"という理由で、天草とひきかえに、久住・野津原・鶴崎を手に入れた。
そのため大分では今なお加藤清正の人気が高く、様々な"肥後の文化財"も大切に保存されている。熊本ではまず見られない逸品も数多く現存している。感謝の気持ちをもつとともに、私達熊本の人間もその姿勢を大いに見習いたいものである。
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春雨の降るは涙か桜花 散るを惜しまぬ人やある
都の春は惜しけれど 馴れし東の花や散る
いとまごいして東路へ 花を見捨てて帰る雁
これでほぼ「熊野」をモチーフとした舞踊であろうと結論付けた。当っているだろうか。
【熊野のあらすじ】
権勢を振るう平宗盛の愛妾である熊野に、故郷の母の病状が思わしくないという便りが届く。熊野は故郷に帰りたいと願い出るが、宗盛は聞き入れない。宗盛に伴い、清水寺の花見に同行した熊野は、春爛漫の中、故郷の母への思いで心は晴れない。酒宴で舞を舞っていると、急に時雨が降り始め、花を散らしてしまう。これを見た熊野は、母を思う和歌を一首読み上げる。その歌はかたくなな宗盛の心に届き、ようやく帰郷が許される、といった内容。
夏目漱石の能好きは有名で、自らも宝生流の謡曲を嗜んでいたが、代表作「吾輩は猫である」の中で、吾輩の主人である苦沙弥先生が、いつも後架の中で謡をうたっていて、後架先生と渾名をつけられても平気で「平の宗盛にて候」と呻っているというくだりがある。苦沙弥先生というのは漱石自身と言われており、実際、漱石は「熊野」をよく呻っていたらしい。
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父が書き遺した備忘録によると、叔父は昭和2年に尋常小学校を卒業し、特待生として九州学院に入学。(野球の名門校として憧れていたらしい。)入学と同時に野球部に入り、キャッチャーとして頭角を表し、5年生の時の足立-柴田のバッテリーは県下随一と評価されていたという。当時、熊本には社会人野球の「オール熊本クラブ」があり、中学出の優秀プレーヤーを確保するため、地元の官庁や企業などへの就職を当局が斡旋していたらしい。叔父はこのルートに乗り、昭和7年、卒業と同時に熊本市役所に就職した。その後、社会人野球の国鉄鳥栖鉄道管理局にスカウトされ移籍した。移籍の詳しい経緯はわからない。
最近、この叔父の情報について新しい展開があった。実はこのブログを見ていただいているMさんからメールをいただいた。その内容からMさんが九州学院のOBであることが判明。しかも、僕よりも随分年長でいらっしゃる。ひょっとして何か手掛かりがつかめるかも知れないと思い、事情を説明しておたずねしてみた。するとMさんから同窓生の方からの情報などをいろいろ送っていただいた。僕にとっては初めて知る事ばかりだ。ほとんどあきらめかけていた叔父の実像調査に新たな希望が湧いてきた。Mさんには感謝感謝である。
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今日は熊本城二の丸広場で秋のお城まつり恒例の「熊本城流鏑馬」。騎射は6名の射手により3回ずつ行われるので計18回は見ることが出来る。いろいろ場所を変えながら見ていると、ある場所でとなりで見ていた高齢のおじさん。いかにも見慣れているといった風で連れと話している。「どこのお宮でもやってるからな」とか「ここは的がでかいから当たるよな」とのたまう。解説のアナウンスをちゃんと聞いてろよな、とツッコミたくなる。武田流流鏑馬は千年を超える歴史を有する古武道であって、あちこちでやっている農耕神事の流鏑馬とは異なるし、的の大きさはちゃんと規格が決まっていてその都度適当に作っているものではない。こんなおじさんよくいるよなぁと思いながら、自分もそうならないように用心用心。
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舞踊団花童は朝から既に5公演をこなしたとかで、さすがに“こわらべ”ちゃんたちは疲れたのか、夕方からの本丸御殿での「秋夜の宴」は、くるみ・あやのの二人だけの出演。吟道・清吟流との共演だったが、二人のロング・インタビューやラストの「くまもと音頭」では観客を呼び込んでのミニ舞踊教室とふだんはなかなか見れない趣向が新鮮だった。二人で踊った「桜月夜」は素晴らしくすぐにでもアップしたいが、創作舞踊は著作権の問題があるから要注意だ。
2014.10.17 秋のくまもとお城まつり 二の丸広場特設ステージ
リハーサルとフィナーレだけですが・・・
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リハーサルとフィナーレだけですが・・・
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