
そこで「オミナエシ」の話題を三つ。
細川忠興公が朝鮮出兵にあたってガラシャ夫人に送った歌と夫人の当意即妙の返歌の話がある。
忠興公の歌は
「なびくなよ わがませがきのおみなえし あらぬかたよりかぜはふくとも」
これに対するガラシャ夫人の返歌が
「なびくまじ わがませがきのおみなえし あらぬかたよりかぜはふくとも」
これは、忠興公が美貌のガラシャ夫人を籬で囲った女郎花にたとえ、自分の留守中にあらぬかた(太閤の暗喩)からの誘いがあってもけっして乗ってはいけないという戒めと、それに対して絶対にそんなことはしないというガラシャ夫人の決意を歌で交わしたもの。

「山裾の小松が下の赤土に 乏しく立てる女郎花のはな」
この短歌はその時初めて知ったのだが、女郎花という艶めかしい名の花が乏しく立っている状態とはいったい?と不思議に思った。小松の下の赤土に生えた状態がみすぼらしく見えたのか、余分な葉がないオミナエシの咲き方が貧相に見えたのかいまだに答えは出ていない。
柳田国男の「歳時習俗語彙」には盆花採りの話が書かれている。迎え盆では精霊はこの花とともに家に来るものと考えられていたという。その盆花には必ずなくてはならぬという一・二種の花があり、肥後玉名郡などでは盆花は桔梗と女郎花の二種と決まっていたとも書かれている。
※上はわが母の書