大河ドラマ「八重の桜」に秋月悌次郎(あきづきていじろう)という会津藩士が登場する。北村有起哉(きたむらゆきや)が演じているが、この人は会津藩主・松平容保の側近として仕え、戊辰戦争では軍事奉行添役をつとめ、会津落城後は戦争責任を問われ、江戸の熊本藩邸での終身禁固刑となった。その後、特赦によって赦免されると教育者として活躍した。熊本の第五高等学校に在勤中は同僚だったラフカディオ・ハーンから「神様のような人」と称されたことで知られる。そのハーンが「東の国から」に収められた「九州の学生とともに」の中で秋月悌次郎について次のように述べている。
「この学校の漢文の老先生で、みんなからひとしく尊敬されている人がある。この人の、若い生徒たちにおよぼしている感化というものは、これはじつに大きなものがある。この人がひとこといえば、どんな怒りも爆発でもしずめることができるし、この人がにっこり笑えば、どんなのんき坊の大器晩成先生でも、うかうかしてはいられなくなる。それはつまり、この老先生が、ひと時代まえの武士生活における剛毅、誠実、高潔の精神―――いわゆる昔の日本魂の理想を、青年層にたいして、みずから身をもって体現しているからなのである。
秋月というこの老先生の名前は、郷党仲間のあいだでも、そうとうひろく知れわたっている。この人の小影を入れた、人物月旦のような小さな書物なども、げんに刊行されている。秋月氏は、もと、会津藩の高禄の士であった。若くして信任厚く、権勢の地位にのぼった。藩兵の長となり、諸藩のあいだを商議談判に馳駆し、また藩政にもあずかる一方、領内の知行となるなど、封建時代の武士のやることは、ひととおりみなやってのけ、そして、平生、軍務政務のひまには、おおむね、人に物を教えていたものらしい。こうした経歴をもった教師は、こんにちでは、まことにすくない。また、こういう人に教えを乞う弟子も、今日では、その数がいたってすくない。ところが秋月氏は、そのような異数の人物でありながら、こんにち、その人をまのあたりに見て、これがむかし、自分の配下のたぎり立った剣士たちに愛されもし、畏れられもした人物とは、およそまず信じられまい。若いころ、峻厳をもって鳴らした戦場の古強者(ふるつわもの)が、年老いて温和怡然となったものほど、人の心をふかくひきつけるものはなかろう。
この秋月氏は、武家制度がのるかそるかの最後のいくさをしたおりに、藩公の命にしたがって、おそろしい戦争に出陣した人である。この戦争には、会津藩では、婦女子から小さな子どもにいたるまでが参加したのである。しかし、剛勇と剣とだけでは、さすがに新しい戦法には勝てなかった。会津勢はついに敗れた。そして、賊軍方の指揮者であった秋月氏は、国事犯として、長い間囹圄(れいご)の身となったのである。
この人の教えをうけた弟子のうちで、すでに鬼籍に入ったものも、幾人かはあるけれども、秋月氏はしかし、老後の孤独を感ずるようなことはすこしもなかった。自分の息のかかった教え子が、みな肉親の子とおなじように、師になつき、尊敬していたからである。そんなぐあいで、秋月氏はしだいに齢を加え、高齢となり、だんだん神さまのような風貌を呈してきた。
―――――中 略―――――
かりに諸君が、そんなら、ごくふつうに見られる伝統的な神のすがたというのは、どんなかっこうをしているかと訊くとしたら、わたくしは、こうそれに答えたい。それは、「長い、白いヒゲをたらして、白装束に白の束帯をしめ、ひじょうに柔和な顔をした、しじゅうにこにこわらっている、高齢の老人だ」と。
「この学校の漢文の老先生で、みんなからひとしく尊敬されている人がある。この人の、若い生徒たちにおよぼしている感化というものは、これはじつに大きなものがある。この人がひとこといえば、どんな怒りも爆発でもしずめることができるし、この人がにっこり笑えば、どんなのんき坊の大器晩成先生でも、うかうかしてはいられなくなる。それはつまり、この老先生が、ひと時代まえの武士生活における剛毅、誠実、高潔の精神―――いわゆる昔の日本魂の理想を、青年層にたいして、みずから身をもって体現しているからなのである。
秋月というこの老先生の名前は、郷党仲間のあいだでも、そうとうひろく知れわたっている。この人の小影を入れた、人物月旦のような小さな書物なども、げんに刊行されている。秋月氏は、もと、会津藩の高禄の士であった。若くして信任厚く、権勢の地位にのぼった。藩兵の長となり、諸藩のあいだを商議談判に馳駆し、また藩政にもあずかる一方、領内の知行となるなど、封建時代の武士のやることは、ひととおりみなやってのけ、そして、平生、軍務政務のひまには、おおむね、人に物を教えていたものらしい。こうした経歴をもった教師は、こんにちでは、まことにすくない。また、こういう人に教えを乞う弟子も、今日では、その数がいたってすくない。ところが秋月氏は、そのような異数の人物でありながら、こんにち、その人をまのあたりに見て、これがむかし、自分の配下のたぎり立った剣士たちに愛されもし、畏れられもした人物とは、およそまず信じられまい。若いころ、峻厳をもって鳴らした戦場の古強者(ふるつわもの)が、年老いて温和怡然となったものほど、人の心をふかくひきつけるものはなかろう。
この秋月氏は、武家制度がのるかそるかの最後のいくさをしたおりに、藩公の命にしたがって、おそろしい戦争に出陣した人である。この戦争には、会津藩では、婦女子から小さな子どもにいたるまでが参加したのである。しかし、剛勇と剣とだけでは、さすがに新しい戦法には勝てなかった。会津勢はついに敗れた。そして、賊軍方の指揮者であった秋月氏は、国事犯として、長い間囹圄(れいご)の身となったのである。
この人の教えをうけた弟子のうちで、すでに鬼籍に入ったものも、幾人かはあるけれども、秋月氏はしかし、老後の孤独を感ずるようなことはすこしもなかった。自分の息のかかった教え子が、みな肉親の子とおなじように、師になつき、尊敬していたからである。そんなぐあいで、秋月氏はしだいに齢を加え、高齢となり、だんだん神さまのような風貌を呈してきた。
―――――中 略―――――
かりに諸君が、そんなら、ごくふつうに見られる伝統的な神のすがたというのは、どんなかっこうをしているかと訊くとしたら、わたくしは、こうそれに答えたい。それは、「長い、白いヒゲをたらして、白装束に白の束帯をしめ、ひじょうに柔和な顔をした、しじゅうにこにこわらっている、高齢の老人だ」と。