今夜の「古典芸能への招待」(Eテレ)は金春流の「船弁慶」。一昨年の久留米座能で喜多流の「船弁慶」を観た。映画やドラマでもよく「船弁慶」の義経と静御前の別れの場面が登場する。ずっと前から不思議に思っていたのは、静御前は義経の妾のはずなのになぜ義経は子方なのかということ。久留米座能の時、大島輝久さんの解説でその謎は解けたのだが、前シテは静御前なので、義経が大人だとシテの存在感が薄れるからだという。能は面白い表現をするものだと思った。でもやはり、どこかに引っかかっていて、義経が大人であっても静御前の存在感を大きくする方法はないものだろうかと思う。
明治から昭和初期にかけて熊本のお座敷文化を支えた町芸者、通称「土手券」たちの芸を調べていて、ふと思い出したことがある。それは、明治40年(1907)7月下旬から8月末の間、歌人与謝野寛(鉄幹)が、まだ学生だった木下杢太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を引き連れ、九州を中心に各地を旅した時の紀行文「五足の靴」のことである。その中に江津湖の屋形船で湖上の涼を楽しむくだりがある。そこに二人の芸妓がやって来て「おてもやん」を披露するのだが、この二人が「土手券」と呼ばれた町芸者だ。「おてもやん」について肥後の古い土謡と書かれているが、この唄が永田イネによって作られたのは、明治30年代前半と言われているので、その時点ではそんなに古い唄ではない。しかし、この時代には既に「おてもやん」が熊本でかなり普及していたことがうかがえる。その数年後に流行ったのが「自転車節」。熊本では「おてもやん」の人気にあやかったのか、熊本弁の歌詞を付け加え、花柳界では「おても時雨」と呼んだ。おてもやんが山の向こうに住む恋人「彦しゃん」になかなか逢えない悲哀を唄うので「時雨(しぐれ)」と付けたのだろう。この2曲とも「土手券」たちによって唄われ、お座敷では人気を博したに違いない。
熊本市制施行百周年記念事業として2001年に出版された「新熊本市史・別編 民俗・文化財」には熊本の民謡として次のような歌たちが紹介されている。これらの多くが「土手券」たちのレパートリーとなっていたものと思われる。
▼古民謡
あの山に/山寺に/飽田山/天ヶ庄の子守歌
▼民謡
きんきらきん節(元歌)/キンキラキン節(替え歌)/ポンポコニャ節/オケンケ節/おてもやん/
おりゃんこ節/東雲節(元歌)/東雲節(替え歌)/肥後節/お蔭まいり/川尻名所めぐり/
おても時雨(自転車節)/ステテコシャン節/酒盛りの歌/高い山から/ジョウカイ節/嫁入歌/
四季の歌/水前寺の歌/飽託郡の歌
▼新民謡
火の国小唄/五十四万石/火の国音頭/くまもと音頭/銀杏恋しや/白川/キンニョムニョ/川尻小唄
▼盆踊り歌
盆踊り歌(西海岸地区)/川尻の盆踊り歌/野出の盆踊り歌/松尾の盆踊り歌/天明の盆踊り歌
▼子守歌(わらべ歌)
平の子守歌(河内町)/天明の子守歌/御幸の子守歌/旧北部町の子守歌/肥後手まり歌(あんたがたどこさ)
▼作業歌ほか
銭塘の雨乞い踊り歌/松尾の田植歌/天明の田の草取り歌/天明のもみすり歌/御幸の麦つき歌/
川口のけしねつき/飽田の米搗き歌/御座館節(新地節)/半田の新地節/川口の新地節/永棟節/
白石の地搗き/銭塘の地搗き/地搗きの数え歌(各地)/柿原周辺の地搗き/御幸のどうづき歌/
下無田の地搗き音頭/改寄の地搗き音頭/笛田の相撲甚句/下無田の相撲甚句/沖新の相撲甚句
〽おてもやん
〽おても時雨(自転車節)
熊本市制施行百周年記念事業として2001年に出版された「新熊本市史・別編 民俗・文化財」には熊本の民謡として次のような歌たちが紹介されている。これらの多くが「土手券」たちのレパートリーとなっていたものと思われる。
▼古民謡
あの山に/山寺に/飽田山/天ヶ庄の子守歌
▼民謡
きんきらきん節(元歌)/キンキラキン節(替え歌)/ポンポコニャ節/オケンケ節/おてもやん/
おりゃんこ節/東雲節(元歌)/東雲節(替え歌)/肥後節/お蔭まいり/川尻名所めぐり/
おても時雨(自転車節)/ステテコシャン節/酒盛りの歌/高い山から/ジョウカイ節/嫁入歌/
四季の歌/水前寺の歌/飽託郡の歌
▼新民謡
火の国小唄/五十四万石/火の国音頭/くまもと音頭/銀杏恋しや/白川/キンニョムニョ/川尻小唄
▼盆踊り歌
盆踊り歌(西海岸地区)/川尻の盆踊り歌/野出の盆踊り歌/松尾の盆踊り歌/天明の盆踊り歌
▼子守歌(わらべ歌)
平の子守歌(河内町)/天明の子守歌/御幸の子守歌/旧北部町の子守歌/肥後手まり歌(あんたがたどこさ)
▼作業歌ほか
銭塘の雨乞い踊り歌/松尾の田植歌/天明の田の草取り歌/天明のもみすり歌/御幸の麦つき歌/
川口のけしねつき/飽田の米搗き歌/御座館節(新地節)/半田の新地節/川口の新地節/永棟節/
白石の地搗き/銭塘の地搗き/地搗きの数え歌(各地)/柿原周辺の地搗き/御幸のどうづき歌/
下無田の地搗き音頭/改寄の地搗き音頭/笛田の相撲甚句/下無田の相撲甚句/沖新の相撲甚句
〽おてもやん
〽おても時雨(自転車節)
この物々しい写真は今から119年前の明治35年11月、熊本で行われた陸軍特別大演習の際、外国の駐在武官宿舎として使用されたわが母黌・済々黌の風景である。明治天皇の二度目の熊本行幸をお迎えした陸軍特別大演習がいかに盛大な行事であったかがうかがえる1枚。(冨重写真所写真展ポスターを写させていただきました)
われわれの時代には既に校舎は建て替えられていたが、初代校舎の前で演習視察から帰って来たと思しき外国武官たちの乗馬姿に明治後期という時代を感じる。極東の小国が大国ロシアと戦火を交えるまであと2年という歴史の1ページでもある。
▼現在の済々黌校舎
われわれの時代には既に校舎は建て替えられていたが、初代校舎の前で演習視察から帰って来たと思しき外国武官たちの乗馬姿に明治後期という時代を感じる。極東の小国が大国ロシアと戦火を交えるまであと2年という歴史の1ページでもある。
▼現在の済々黌校舎
BSプレミアムの「だれかに話したくなる山本周五郎日替わりドラマ」5話シリーズを見た。テレビ草創期には多かったが、近年では珍しい30分のドラマ。近頃のドラマにありがちな刺激的な映像や音もない。必要以上の説明もない。簡にして要。山本周五郎の小説世界で、行間を読み取るのも、読後の余韻を楽しむのも、視聴者に委ねられている。まだあまり知られていない若手俳優陣が起用されていることも新鮮に感じた。このシリーズは今後、第2、第3のシリーズが企画されているようだ。その折にはぜひ、熊本藩を舞台とした「よじょう」をドラマ化してもらいたいものだ。昔、渥美清主演で一度ドラマ化されたそうだが見ていない。
YouTubeに「ひえつき節」の映像をアップしてから既に6年近く経ち、お陰様で21万回を超える再生回数を数えました。
この間、数回にわたり、出だしの「庭の山椒の木」というフレーズは間違いで、正しくは「山茱茰(さんしゅゆ)の木」であるとのご指摘をいただきました。この度、あらためて「ひえつき節」発祥の地である宮崎県椎葉村様に確認させていただきましたところ、地域振興課のご担当者様から下記のようなお返事をいただきましたので、これをもちまして「ひえつき節」の歌詞問題は終了とさせていただきます。
お問い合わせのひえつき節の件につきまして回答させていただきます。
ひえつき節の歌詞中で「庭の山椒の木」の部分の山椒ですが「山椒の木」で間違いございません。
確かに椎葉村の民謡大会等でひえつき節を唄われる場合は、「さんしゅうの木」と唄われる方も多くいらっしゃいますが、「山椒(さんしょう)」を「さんしゅう」というのはあくまで方言によるもので、正しい歌詞は「山椒の木」で間違いございません。
ひえつき節は椎葉村に古来から伝わる労働歌であり、主に稗や粟、蕎麦等の雑穀等の収穫作業の中で唄われてきました。椎葉村の農家にも庭先に山椒の木があったと伺っております。
同じ内容のお問い合わせも私共にも多く寄せられておりますが、同様の内容でお答えをさせていただいております。
この間、数回にわたり、出だしの「庭の山椒の木」というフレーズは間違いで、正しくは「山茱茰(さんしゅゆ)の木」であるとのご指摘をいただきました。この度、あらためて「ひえつき節」発祥の地である宮崎県椎葉村様に確認させていただきましたところ、地域振興課のご担当者様から下記のようなお返事をいただきましたので、これをもちまして「ひえつき節」の歌詞問題は終了とさせていただきます。
お問い合わせのひえつき節の件につきまして回答させていただきます。
ひえつき節の歌詞中で「庭の山椒の木」の部分の山椒ですが「山椒の木」で間違いございません。
確かに椎葉村の民謡大会等でひえつき節を唄われる場合は、「さんしゅうの木」と唄われる方も多くいらっしゃいますが、「山椒(さんしょう)」を「さんしゅう」というのはあくまで方言によるもので、正しい歌詞は「山椒の木」で間違いございません。
ひえつき節は椎葉村に古来から伝わる労働歌であり、主に稗や粟、蕎麦等の雑穀等の収穫作業の中で唄われてきました。椎葉村の農家にも庭先に山椒の木があったと伺っております。
同じ内容のお問い合わせも私共にも多く寄せられておりますが、同様の内容でお答えをさせていただいております。
日本人初のオリンピック選手金栗四三さんが、自ら「韋駄天(いだてん)」と揮毫した扁額が昨年、東京の世田谷観音寺(東京都世田谷区)で見つかり、そのレプリカが、昨年末、故郷の玉名市上小田の実家に里帰りしたというニュースが報じられた。
今日、玉名の妹宅に所用で行ったついでに見に行った。ヒノキの扁額は、縦31㎝、幅91㎝。文字が浮き上がるように記されていた。その下に小さな韋駄天神が祀られていた。せめて大河ドラマ「いだてん」が放送されている間に見つかっていればとちょっと残念な気がした。ドラマは1964年の東京オリンピックが開かれるまでを描き、それから56年後の2度目の東京オリンピックへとつなぐはずだったが、コロナ禍で延期、いまだ先行不透明の状態。金栗さんはいったい何を思う。
帰り道はいつものごとく、河内川沿いに山越えのコースを選ぶ。途中、立ち寄った雲厳禅寺境内の淡いピンクのしだれ梅が心を和ませてくれた。
今日、玉名の妹宅に所用で行ったついでに見に行った。ヒノキの扁額は、縦31㎝、幅91㎝。文字が浮き上がるように記されていた。その下に小さな韋駄天神が祀られていた。せめて大河ドラマ「いだてん」が放送されている間に見つかっていればとちょっと残念な気がした。ドラマは1964年の東京オリンピックが開かれるまでを描き、それから56年後の2度目の東京オリンピックへとつなぐはずだったが、コロナ禍で延期、いまだ先行不透明の状態。金栗さんはいったい何を思う。
帰り道はいつものごとく、河内川沿いに山越えのコースを選ぶ。途中、立ち寄った雲厳禅寺境内の淡いピンクのしだれ梅が心を和ませてくれた。
熊本では数十年ぶりになるという「翁」公演。水前寺成趣園能楽殿での公演がいよいよ来月9日に迫った。人間国宝の喜多流能楽師・友枝昭世さんが演じる翁はもちろんのこと、大蔵流狂言方・山本則重さんの三番三(さんばそう)が見ものだ。そして、舞もさることながら囃子方の音に注目したい。
2019年に世を去った名ドラマー、ハル・ブレインがザ・ロネッツの「Be My Baby」で叩いた音楽史に残る伝説のビート「thump-thump-thump-crack !」を連想させる心地よい小鼓、大鼓のリズムを楽しみたい。
三番三(さんばそう)鈴の段
翁:友枝昭世
三番三:山本則重
千歳:山本凛太郎
笛:森田徳和
小鼓:幸正佳・曽和鼓堂・古田寛二郎
大鼓:白坂信行
後見:中村邦生・友枝雄人
地謡:狩野了一・金子敬一郎・内田成信・粟谷充雄・大島輝久・友枝真也・谷友矩・渡辺康喜
狂言後見:山本泰太郎・山本則秀
▼会場となる水前寺成趣園
古今伝授の間
能楽殿
2019年に世を去った名ドラマー、ハル・ブレインがザ・ロネッツの「Be My Baby」で叩いた音楽史に残る伝説のビート「thump-thump-thump-crack !」を連想させる心地よい小鼓、大鼓のリズムを楽しみたい。
三番三(さんばそう)鈴の段
翁:友枝昭世
三番三:山本則重
千歳:山本凛太郎
笛:森田徳和
小鼓:幸正佳・曽和鼓堂・古田寛二郎
大鼓:白坂信行
後見:中村邦生・友枝雄人
地謡:狩野了一・金子敬一郎・内田成信・粟谷充雄・大島輝久・友枝真也・谷友矩・渡辺康喜
狂言後見:山本泰太郎・山本則秀
▼会場となる水前寺成趣園
古今伝授の間
能楽殿
久しぶりに見性寺(熊本市中央区坪井)の前を通ったら、西側山門や外塀の改修工事が終わって綺麗になっていた。この見性寺では時々本堂でイベントが行われる。岡林立哉さんの馬頭琴コンサートや坪井山頭火の会などで訪れたことがある。
夏目漱石が五高にいた頃、同僚だった菅虎雄や浅井栄凞らとともにこの寺で参禅している。菅は漱石を五高に導いた人物で、浅井は漱石の鏡子夫人が井川淵町の家に住んでいた頃の白川入水事件を、新聞ネタにならないようもみ消しに奔走した人物。漱石自身も悩み多かったことが参禅の動機だったのかもしれない。漱石は教師として松山へ赴任する前、鎌倉の円覚寺塔頭帰源院で二週間の参禅をしている。漱石が当時抱えていた悩みが背景にあったようだが、この体験は後に、自らの不倫体験も色濃く投影された小説「門」に活かされることになる。ちなみに見性(けんしょう)とは、禅の言葉で、人間に本来そなわる本性を見通すことをいい、禅の悟りの一つとされるそうだ。
ところで「草枕」に出てくる観海寺のモデルとなった寺はどこなのかということが話題になることがある。先般他界された半藤一利さんの天草市本渡の明徳寺説、熊本市松尾町の雲巌禅寺説、はたまた小天温泉周辺の寺も鏡ヶ池との位置関係で候補になったりする。しかし、「草枕」の舞台全般がそうであるように、観海寺は特定の一つの寺ではなく、漱石が見知ったいくつかの寺を合わせて表現しているのだろう。和尚や納所坊主らとの交流の場面もあり、それは度々訪れた見性寺もモデルの一つなのかもしれない。
見性寺
▼2016年に放送されたNHKドラマ「夏目漱石の妻」では鏡子夫人の白川入水事件が描かれていた。
ヌヌッ!光秀公と伊呂波太夫!
夏目漱石が五高にいた頃、同僚だった菅虎雄や浅井栄凞らとともにこの寺で参禅している。菅は漱石を五高に導いた人物で、浅井は漱石の鏡子夫人が井川淵町の家に住んでいた頃の白川入水事件を、新聞ネタにならないようもみ消しに奔走した人物。漱石自身も悩み多かったことが参禅の動機だったのかもしれない。漱石は教師として松山へ赴任する前、鎌倉の円覚寺塔頭帰源院で二週間の参禅をしている。漱石が当時抱えていた悩みが背景にあったようだが、この体験は後に、自らの不倫体験も色濃く投影された小説「門」に活かされることになる。ちなみに見性(けんしょう)とは、禅の言葉で、人間に本来そなわる本性を見通すことをいい、禅の悟りの一つとされるそうだ。
ところで「草枕」に出てくる観海寺のモデルとなった寺はどこなのかということが話題になることがある。先般他界された半藤一利さんの天草市本渡の明徳寺説、熊本市松尾町の雲巌禅寺説、はたまた小天温泉周辺の寺も鏡ヶ池との位置関係で候補になったりする。しかし、「草枕」の舞台全般がそうであるように、観海寺は特定の一つの寺ではなく、漱石が見知ったいくつかの寺を合わせて表現しているのだろう。和尚や納所坊主らとの交流の場面もあり、それは度々訪れた見性寺もモデルの一つなのかもしれない。
見性寺
▼2016年に放送されたNHKドラマ「夏目漱石の妻」では鏡子夫人の白川入水事件が描かれていた。
ヌヌッ!光秀公と伊呂波太夫!
まもなく桜馬場城彩苑が開業して10周年を迎える。
この10年、さまざまな思い出がよみがえる。撮った写真が多すぎてどれを選ぶか困ったが、次の5枚だけをセレクトした。
開業間もない頃の城彩苑全景(西嶋三井ビルディング最上階より)
2011年3月5日 開業日の様子
わくわく座における公演(写真は2016年10月10日 舞踊団花童特別公演)
毎年春秋に行われる花魁道中
親水空間ステージにおける様々なショー
しかし、僕にとってこの桜馬場は城彩苑ができる前の熊本城内プールの20年以上にわたる思い出がある。それは今でも城彩苑を訪れるたびに必ず思い出す。
1960年熊本国体における水球決勝戦(済々黌 VS 鴨沂高)
この10年、さまざまな思い出がよみがえる。撮った写真が多すぎてどれを選ぶか困ったが、次の5枚だけをセレクトした。
開業間もない頃の城彩苑全景(西嶋三井ビルディング最上階より)
2011年3月5日 開業日の様子
わくわく座における公演(写真は2016年10月10日 舞踊団花童特別公演)
毎年春秋に行われる花魁道中
親水空間ステージにおける様々なショー
しかし、僕にとってこの桜馬場は城彩苑ができる前の熊本城内プールの20年以上にわたる思い出がある。それは今でも城彩苑を訪れるたびに必ず思い出す。
1960年熊本国体における水球決勝戦(済々黌 VS 鴨沂高)
新型コロナなかりせば、今週末21日には第10回熊本城マラソンが開かれるはずだった。いまだ終息が見通せないなか中止はやむを得ないが、熊本早春の風物詩として定着しつつあっただけに残念だ。
来年は開催できることを祈りつつ、過去の大会の思い出を振り返ってみた。
第1回(2012)、第2回(2013)大会のフルマラソン男子優勝者・地下翔太選手(球磨村)
第2回大会のフルマラソン女子の上位入賞者と大会実行委員会会長の幸山熊本市長
フルマラソン給水所の様子
フルマラソンの沿道では多くのグループが思い思いのパフォーマンスで選手たちを応援
コースの要所要所にボランティアAED隊が待機
熊本地震で崩れる前の二の丸御門付近での応援風景
第6回大会(2017年)から選手たちは熊本地震で崩れた熊本城石垣を横目で見ながら走ることになった
実況放送の解説者・有森裕子さんは毎回沿道から選手たちに気合を入れるのが恒例
ゴール地点 二の丸広場での優勝者インタビュー
ゴール地点 二の丸広場でのサンプラザ中野くんとパッパラー河合さんのトークショー
ゴール地点 二の丸広場でのきよくま君と舞踊団花童によるステージショー
記念すべき第1回大会(2012)を報じる熊日新聞
来年は開催できることを祈りつつ、過去の大会の思い出を振り返ってみた。
第1回(2012)、第2回(2013)大会のフルマラソン男子優勝者・地下翔太選手(球磨村)
第2回大会のフルマラソン女子の上位入賞者と大会実行委員会会長の幸山熊本市長
フルマラソン給水所の様子
フルマラソンの沿道では多くのグループが思い思いのパフォーマンスで選手たちを応援
コースの要所要所にボランティアAED隊が待機
熊本地震で崩れる前の二の丸御門付近での応援風景
第6回大会(2017年)から選手たちは熊本地震で崩れた熊本城石垣を横目で見ながら走ることになった
実況放送の解説者・有森裕子さんは毎回沿道から選手たちに気合を入れるのが恒例
ゴール地点 二の丸広場での優勝者インタビュー
ゴール地点 二の丸広場でのサンプラザ中野くんとパッパラー河合さんのトークショー
ゴール地点 二の丸広場でのきよくま君と舞踊団花童によるステージショー
記念すべき第1回大会(2012)を報じる熊日新聞
YouTubeのマイチャンネルに、ある方から「よへほ節」の歌詞について質問があった。
それは「よへほ節」の一節「骨もなけれど肉もなし」と映像の字幕にあるが、音声は「骨もなければ肉もなし」と唄っているのではないかという趣旨だった。
山鹿市が運営している「山鹿探訪なび」に紹介されている歌詞は下図のとおりである。
しかし、音声を聞き直してみると確かに「骨もなければ肉もなし」と唄っているようにも聞こえる。
そこで、山鹿灯籠踊りの地方指導もされている民謡三味線の本條秀美さんにおたずねしてみた。
その回答を要約すると次のとおり。
一般的に「民謡」は、口伝で人から人へと歌い継がれ、「田原坂」などでも、一部違った歌詞で歌う人もおり、歌詞は統一されていません。それぞれ歌う人の歌い方でOKと理解しております。
「よへほ節」についても、歌詞の統一を話し合ったこともありましたが、結局、歌い手が歌いやすい歌い方で行こう、ということになり今日に至っています。民謡はその時々の歌い手によって変わることは常、と理解しております。
ちなみに、野口雨情による改作の前の原曲は「骨もなければ肉もなし」と唄っていたようだ。
▼指摘があった映像
山鹿灯籠踊り保存会による大宮神社での奉納踊り
2013.7.6 山鹿さくら湯・池の間 俚奏楽「山鹿湯籠踊り」より
振付:中村花誠
立方:中村くるみ・上村文乃
地方:(唄・三味線)本條秀美社中/(筝)小路永和奈/(囃子)花と誠の会
それは「よへほ節」の一節「骨もなけれど肉もなし」と映像の字幕にあるが、音声は「骨もなければ肉もなし」と唄っているのではないかという趣旨だった。
山鹿市が運営している「山鹿探訪なび」に紹介されている歌詞は下図のとおりである。
しかし、音声を聞き直してみると確かに「骨もなければ肉もなし」と唄っているようにも聞こえる。
そこで、山鹿灯籠踊りの地方指導もされている民謡三味線の本條秀美さんにおたずねしてみた。
その回答を要約すると次のとおり。
一般的に「民謡」は、口伝で人から人へと歌い継がれ、「田原坂」などでも、一部違った歌詞で歌う人もおり、歌詞は統一されていません。それぞれ歌う人の歌い方でOKと理解しております。
「よへほ節」についても、歌詞の統一を話し合ったこともありましたが、結局、歌い手が歌いやすい歌い方で行こう、ということになり今日に至っています。民謡はその時々の歌い手によって変わることは常、と理解しております。
ちなみに、野口雨情による改作の前の原曲は「骨もなければ肉もなし」と唄っていたようだ。
▼指摘があった映像
山鹿灯籠踊り保存会による大宮神社での奉納踊り
振付:中村花誠
立方:中村くるみ・上村文乃
地方:(唄・三味線)本條秀美社中/(筝)小路永和奈/(囃子)花と誠の会
子供の頃、よく聞いたり自ら使っていた言葉で、今ではほとんど使われなくなった言葉がいくつもある。おそらく熊本弁なのだろうと思うが、そんな中から今日は三つあげてみた。
▼「ツ」
子供の頃、外で遊ぶことが多くよくケガをした。膝を擦りむくなんてことは日常茶飯事。赤チンを塗って2、3日経つと「ツ」ができる。「かさぶた」のことだ。「ツがでけた」とか「ツがとれた」という言い方をした。「かさぶた」のことをなぜ「ツ」というのかその語源を探ると、「兜(と)=かぶり物のこと」とか「鍍(と)=メッキのこと」など、いずれも「と」が訛って「ツ」になったのではと思われる。熊本では、藤崎八旛宮例大祭の随兵行列などで大将の馬の後をついて行く甲冑をつけた雑兵たちのことを「ツームシ」と言ったそうだ。「ツームシ」とは「かぶと虫」のことで雑兵たちの格好が「かぶと虫」を連想させたのでそう呼ばれたという。
2012年「城下町くまもと時代絵巻」における「ツームシ」たち
▼「チャンカラ」
昔は買った品物が粗悪品だったり、使い勝手が悪かったりすると、その品物のことを「チャンカラ」と言った。この表現は品物にとどまらず、ろくな仕事ができない人なども「あいつはチャンカラ」などと謗った。今日よく使う「ポンコツ」と同じような意味合いだったと思う。語源を探るとどうも差別的な臭いがするのでこれ以上あまり追及しないことにする。
▼「まつぼり」
子供の頃、祖母にこんな話を聞いた。よく家の前を通る荷馬車の馬車引きが道端に落ちていた「何か」を拾った。たまたまそれを祖母が目撃していた。それが何だったのか祖母は言わなかったが、馬車引きは祖母に「まつぼりしようか」と山分けを持ち掛けてきたらしいが祖母は断ったそうだ。「まつぼり」はこっそり自分のものにすることを言うが、他県では今でもこの言葉が使われているらしい。
▼「ツ」
子供の頃、外で遊ぶことが多くよくケガをした。膝を擦りむくなんてことは日常茶飯事。赤チンを塗って2、3日経つと「ツ」ができる。「かさぶた」のことだ。「ツがでけた」とか「ツがとれた」という言い方をした。「かさぶた」のことをなぜ「ツ」というのかその語源を探ると、「兜(と)=かぶり物のこと」とか「鍍(と)=メッキのこと」など、いずれも「と」が訛って「ツ」になったのではと思われる。熊本では、藤崎八旛宮例大祭の随兵行列などで大将の馬の後をついて行く甲冑をつけた雑兵たちのことを「ツームシ」と言ったそうだ。「ツームシ」とは「かぶと虫」のことで雑兵たちの格好が「かぶと虫」を連想させたのでそう呼ばれたという。
2012年「城下町くまもと時代絵巻」における「ツームシ」たち
▼「チャンカラ」
昔は買った品物が粗悪品だったり、使い勝手が悪かったりすると、その品物のことを「チャンカラ」と言った。この表現は品物にとどまらず、ろくな仕事ができない人なども「あいつはチャンカラ」などと謗った。今日よく使う「ポンコツ」と同じような意味合いだったと思う。語源を探るとどうも差別的な臭いがするのでこれ以上あまり追及しないことにする。
▼「まつぼり」
子供の頃、祖母にこんな話を聞いた。よく家の前を通る荷馬車の馬車引きが道端に落ちていた「何か」を拾った。たまたまそれを祖母が目撃していた。それが何だったのか祖母は言わなかったが、馬車引きは祖母に「まつぼりしようか」と山分けを持ち掛けてきたらしいが祖母は断ったそうだ。「まつぼり」はこっそり自分のものにすることを言うが、他県では今でもこの言葉が使われているらしい。
今年も西松尾町の小田部さん宅のしだれ梅が見事に咲いた。毎年、このしだれ梅の開花情報で本格的な春の到来を実感する。
ただ今年はちょっと様子が違う。それはこの時季、しだれ梅とともに集落の田畑には菜の花が咲き乱れていたはずだ。それが今年はほとんど見かけない。やはり冬が例年より寒かったせいなのだろうか。少し遅れて咲いてくれるならいいのだが。
▼梅は咲いたか
ただ今年はちょっと様子が違う。それはこの時季、しだれ梅とともに集落の田畑には菜の花が咲き乱れていたはずだ。それが今年はほとんど見かけない。やはり冬が例年より寒かったせいなのだろうか。少し遅れて咲いてくれるならいいのだが。
▼梅は咲いたか
フォローさせていただいているブログ「甘い生活 since2013」さんがザ・ビーチボーイズの「Getcha Back」を取り上げておられた。この曲は1985年にリリースされた曲だそうだが、僕が彼らのサウンドにハマっていたのは高校、大学の頃だから1960年代。従って好きな曲も「Surfin' U.S.A. 」「Surfer Girl」「Fun, Fun, Fun」「I Get Around」「Barbara Ann」など。中でも好きだったのが「Surfer Girl」。彼らの他の曲とは一線を画すメロウなサウンドがここちよい。ドキュメンタリー番組の夕景のシーンなどによくBGMとして使われることも多い。今日は「Surfer Girl」と、それとは対照的なサーフ・ロックの「Fun, Fun, Fun」を聴き比べてみた。
今日はわが家で母の白寿祝いをやった。コロナ禍がいまだ続くなかでもあるので、子と孫だけが集うささやかなお祝いとなった。
孫娘のますみがコンビニのお誕生日新聞(昔の新聞プリントサービス)で、母の誕生日、大正11年2月15日の東京日日新聞と、結婚記念日、昭和17年4月5日の朝日新聞のコピーを持ってきた。
今からほぼ1世紀前の大正時代後期の世情不安な雰囲気、そしてその20年後、大東亜戦争に突入して間もない、まさに戦時中の様子が伝わってくる。戦後生まれのわれわれが体験したことのない、暗い時代を生きぬいて来た母の強さを感じずにはいられない。
やっと歩き始めた曾孫を愛おしげに眺める母が一日でも長く生きてくれることを願うばかりだ。
父と母が結婚式を挙げた熊本大神宮
孫娘のますみがコンビニのお誕生日新聞(昔の新聞プリントサービス)で、母の誕生日、大正11年2月15日の東京日日新聞と、結婚記念日、昭和17年4月5日の朝日新聞のコピーを持ってきた。
今からほぼ1世紀前の大正時代後期の世情不安な雰囲気、そしてその20年後、大東亜戦争に突入して間もない、まさに戦時中の様子が伝わってくる。戦後生まれのわれわれが体験したことのない、暗い時代を生きぬいて来た母の強さを感じずにはいられない。
やっと歩き始めた曾孫を愛おしげに眺める母が一日でも長く生きてくれることを願うばかりだ。
父と母が結婚式を挙げた熊本大神宮