徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

昭和歌謡の歌姫 「なかの綾ライブ」はいかが!

2015-11-30 13:53:34 | 音楽芸能
 今週末の12月6日(日)上村元三商店(キャンドルハウス/源ZO-NE)プレゼンツ
「なかの綾ライブ」が行われます。
 慌ただしい師走の一夜、昭和歌謡で日頃の憂さを吹き飛ばしませんか!

■日時 12月6日(日)
17:30~19:00 DJ/OPENING ACT(90min)
19:00~19:40 なかの綾 1st STAGE(40min)
19:40~20:10 DJ
20:10~20:50 なかの綾 2nd STAGE(40min)
■会場 早川倉庫(熊本市中央区万町2丁目4)
■料金 前売券:3500円 当日券:4000円

※チケットのお求めやお問い合わせは
 上村元三商店(熊本市中央区魚屋町3-13)
 携帯:090-3079-4841 まで






昨年7月、早川倉庫でのライブ風景



思い出の曲 ~祝典行進曲~

2015-11-29 22:17:00 | 音楽芸能
 今日、BS朝日で放送していた「全日本吹奏楽コンクール全国大会 高校の部」を見ながら、なぜか、あるメロディが湧き上がってきた。團伊玖磨作曲の「祝典行進曲」である。この曲は、昭和34年の皇太子殿下(今上陛下)と美智子妃(現皇后陛下)のご成婚を祝して團伊玖磨によって作曲され、祝賀行事で演奏された曲。だが、僕にはそれとは別の思い出がある。
 1976年5月、僕は初めて家族帯同して転勤した。赴任先は山口県の防府だった。タイヤ工場の建設中で、工場立ち上げ要員30名ほどが、仮事務所で勤務した。立ち上げまでに準備しておかなければならないことは山積していて、毎日、深夜を過ぎることも多かった。それでも朝8時前には出勤した。そして朝から事務所内に必ず流れていたのが「祝典行進曲」だった。誰の発案だったのか、おそらく士気を高めるねらいがあったのだろう。毎日毎日、この曲を聞きながら事務所の清掃から始めるのがおきまりだった。第1期工場建設が竣工して一段落するまでの2年半をここで勤務したが、その間、毎朝、この曲を聞かない日はなかった。今でもこの曲が流れるとあの頃の気分に戻るような気がする。





美しい紅葉はなぜ消えた?

2015-11-28 20:47:46 | 熊本
 今年の紅葉もピーク時期は過ぎようとしているが、年々美しさが落ちてきたように感じられてならない。特に今年はシーズン前に台風が直撃したことも影響しているのかもしれないが、色づく前に落葉が始まり、毎年僕が見ている熊本城周辺や金峰山周辺は期待外れに終わりそうだ。
 そんな期待外れを少しでも埋め合わせようと、今、細川刑部邸でやっている夜間のライトアップを見に行った。しかし、紅葉はやはり明るい太陽のもとで楽しむもの。下の写真のような、かつての美しい紅葉風景が来年以降もどってくることを願わずにはいられない。

▼細川刑部邸のライトアップ







▼9年前の細川刑部邸前の大銀杏の紅葉


▼5年前の千葉城町の銀杏並木の紅葉

ブラタモリ発 新作落語 「山名屋浦里」

2015-11-26 17:19:19 | 音楽芸能
 3年前に放送されたブラタモリの「江戸の盛り場 ~吉原編~」のロケの時、タモリが現地で聞いた話をもとにした笑福亭鶴瓶の新作落語「山名屋浦里」がネットで話題となっている。ブラタモリの放送では紹介されなかったが、こんな話だそうだ。
 吉原一の花魁、山名屋の浦里は侠気に富んだ人で、しがない田舎侍の江戸妻になりすまし、窮地を救うといった人情噺のようだ。
 もともとは、江戸時代後期の吉原に実在した妓楼扇屋の花扇(はなおうぎ)という花魁の実話だそうだが、ヒロインを「明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)」で広く知られている山名屋の浦里に置き換えたようだ。落語の花魁ものといえば「盃の殿様」「明烏」「紺屋高尾」「幾代餅」など古典落語の定番の一つとなっているが、この「山名屋浦里」もいつかは古典の一つになるかもしれない。
※右の絵は、歌麿の「扇屋の花扇」

 牛深で古くから唄われている俗謡「牛深三下り」にも「浦里 嘆けば みどりも嘆く もらい泣きする 明烏」という「明烏夢泡雪」の一節がある。


肥後菊の宴

2015-11-25 20:45:07 | イベント
 肥後六花のひとつである「肥後菊」の展示が、熊本城内竹の丸の肥後六花園で行われています。
 展示期間は11月30日までです。

▼肥後菊
 江戸中期、藩主細川重賢が栽培を奨励したことに始まる。後に肥後菊中興の祖といわれた秀島七右衛門が文政二年(1819)に「養菊指南車」を著し、独特の花壇作り栽培法が確立した。個々の花を単独に観るのではなく、花壇全体の調和した美しさ(花の大きさ、花の色、花の数など)を鑑賞する。
 花は一重咲きの薄物で、花芯が大きい。花弁は平たいものと筒状の二種で、色は紅、白、黄の三系統からなる。花期は11月中旬~12月上旬。
(熊本城竹の丸・肥後六花園の掲示より)










肥後の通り名

2015-11-24 20:23:59 | 歴史
 熊本・水俣出身の民俗学者・谷川健一さんは、地名は「日本人のアイデンティティ」であるというが、伝統的地名はどんどん失われてゆく。どこへ行っても「○丁目○番地」で味もそっけもない。わが家のある京町2丁目も、今やどんどん広がって、どこからどこまでが京町2丁目なのか全くわからなくなってしまった。
 舞踊団花童の演目に「肥後の通り名」というのがあり、懐かしい昔の通りの名前が唄い込まれている。わが家の近くでは、加藤清正が、関ヶ原の戦で西軍について敗れた柳河立花藩の家臣団を預かって住まわせた柳川小路(柳川丁)や、宇土小西藩の家臣団を住まわせた宇土小路などが唄われているが、谷川さんがおっしゃるように、地名は日本人の足跡でもあり、残して行きたいものだ。


柳河立花藩家臣が住んでいた柳川丁


柳川丁の由来を記したプレート


宇土小西藩家臣が住んでいた宇土小路



さくら湯物語

2015-11-23 21:21:47 | イベント
 3周年を迎えた山鹿温泉元湯「さくら湯」では秋の山鹿温泉祭が催され、さくら湯の「池の間」では舞踊団花童による「さくら湯物語」と題する日本現代舞踊が披露された。

▼写真はいずれもクリックして拡大できます。

~山鹿燈籠踊りによせて~ 「とうろう」


~山鹿燈籠踊りによせて~ 「とうろう」


山鹿湯の町


花くらべ


肥後の通り名


肥後の通り名


池の間の庭に植えられた堀越麗禾ちゃん(市川海老蔵長女)初舞台記念植樹


毎年、Nコンで上位入賞を続ける山鹿小学校音楽部と山鹿市ALTのデニス先生のコーラス(祭り広場)

三島由紀夫 「豊饒の海」 と 荒木精之先生

2015-11-22 22:12:12 | 文芸
 昨日のブログ記事に、ドナルド・キーンさんのETV特集についてふれたが、番組では、親友でもあった三島由紀夫から、絶筆となった「豊饒の海」の翻訳を託されていたエピソードも紹介していた。
 「豊饒の海」といえば、第2部の「奔馬」を執筆するに当たり、神風連について取材するため、三島が熊本に荒木精之を訪ねたことがよく知られている。荒木精之とは戦後、熊本にあって文芸界のリーダー的な役割をはたした作家である。既にこのブログでも何度か紹介したことがあるが、荒木先生とはたった一度だけお会いしたことがある。もう40数年前のことだ。
 僕が会社に入って2年目の頃、当時の工場長から社内報を発行するようにとの指示があった。人事労務部門の新人だった僕にそのお鉢がまわってきた。さっそく社内の編集委員会なるものを組織し、記事内容を話し合ったが、その中の一つとして定例的に地元ネタを載せようということになった。そして、ある先輩社員の提案で「肥後の民話」を載せることになった。その先輩が言うことには、ネタは荒木精之先生に相談してみたらどうだと言う。まだ僕は荒木先生のことは全く存じ上げなかった。うだつの上がらない田舎作家くらいに思っていたかもしれない。怖いもの知らずで、いきなりアポなしでご自宅を訪問した。熊本市内の薬園町にあったご自宅の格子戸を開けて声をかけると、上の写真の通り、文士らしく着物姿の先生が現われた。来意を説明すると、先生は「わかった!」と仰って奥の部屋へ。しばらくして戻って来られた先生は一冊の本を携えていた。「これを使ったらどうか!」一瞬ためらった僕に先生は「いいから持ってけ!」それが左の「続 肥後民話集」である。先生にお会いしたのは後にも先にもその時1回きりだった。その後、先生の著作や業績を知るにつけ、なんと無礼なことをしたのだろうと恥じ入ったものだ。


昭和41年8月、三島由紀夫を熊本駅で見送る荒木精之先生

谷崎潤一郎 「細雪」

2015-11-21 19:11:39 | 文芸
 今年は、明治末期から戦後昭和まで活躍し、近代日本文学を代表する小説家の一人である谷崎潤一郎の没後50年ということで、谷崎の作品や谷崎自身を取り上げた番組が多い。先週の「歴史秘話ヒストリア」(NHK総合)では谷崎と彼を取り巻く女たちを取り上げていたし、昨日のプレミアムシネマでは市川崑監督版の「細雪」(1983)を放送していた。また、昨夜のETV特集では、日本文学研究者ドナルド・キーンさんの、70年にも及ぶ文豪たちとの交友が話の中心だったが、中でも谷崎との出逢いは強烈な印象だったらしく、外国人に対して「日本について知りたかったら『細雪』を読めと言いたい」というキーンさんの言葉が印象的だった。
 映画「細雪」の1950年版に、末妹の妙子を演じた高峰秀子さんは、自身の著書「わたしの渡世日記」の中で、谷崎潤一郎邸を訪ねた時の様子を次のように述べている。

――谷崎家は、当主潤一郎をのぞいては全くの女の城だった。潤一郎好みの友禅や小紋のやわらかものに身を包んだ女たちが、まるで花にたわむれる美しいチョウチョウでもみるようにヒラリヒラリと舞う中に、大桜鯛なる潤一郎がひときわ高く君臨している、という風であった。
(中略)
 いま、「細雪」の一節が、そっくりそのまま私の目の前に展開されていた。ここにいる人たちは、谷崎潤一郎一家なのか、藤岡貞之助一家なのだろうか?…… ――

 キーンさんも何度も谷崎邸を訪問し、高峰さんと同じような光景を見たのかもしれない。


「細雪」(1950)における高峰秀子さん

横審委員長のお初は 肥後熊本藩の細川公!

2015-11-20 20:09:50 | スポーツ一般
 大相撲九州場所は終盤の13日目。全勝の横綱白鵬に、1敗の横綱日馬富士が土をつけ、俄然盛り上がってきた。
 ところで、現在の横綱は鶴竜を加えた3人ともモンゴル出身力士。若乃花の昇進以来、18年も途絶えている日本人横綱の誕生が待たれるが、そもそも大相撲の「横綱制度」は熊本から始まった。
 肥後熊本藩に仕えていた相撲の宗家、吉田司家は、寛政元年(1789)19世吉田追風が「横綱」を考案し、11月、谷風梶之助と小野川喜三郎に横綱を免許した。これが、現在に至る横綱制度の始まりである。この免許を与えるに当たって、熊本城内で審議会が行われ、肥後熊本藩第8代藩主細川斉茲公が事実上の審議委員長を務めたと伝えられる。以来、第40代横綱の東富士欽壹が昇進した昭和24年(1949)まで、代々の横綱に吉田司家が免許を与えた。


初めての横綱、谷風梶之助と小野川喜三郎


かつて藤崎八旛宮参道にあった吉田司家

柏崎の思い出

2015-11-19 21:27:39 | 
 新潟県柏崎市の重要無形民俗文化財である「綾子舞」をYouTubeで見ていたら、50年以上も前、一度だけ行った柏崎の懐かしい思い出がよみがえってきた。
 僕が高校3年の夏だった。インターハイを前に柏崎高校との合同練習を行うため、柏崎高校にほど近いところに宿舎を借りた。その宿舎はさんという方がご住職のお寺で、幼稚園も経営しており、ちょうど夏休みだったからか、僕らに宿舎として提供していただいたのだった。4、5日間の短かい合宿だったが、食住にいろいろ気を配っていただき、僕らは心おきなく練習に打ち込むことができた。このさんには僕らとほとんど同じ年代の四姉妹がおられ、まるで家族のように接していただいたことを憶えている。
 そうこうしているうち、さんのご家族が今はどうされているのか急に知りたくなり、インターネットで検索してみた。すぐに、幼稚園はかなり大きくなっていることがわかった。さらに、さんのご親族と思しき方のブログにたどり着いた。思い切って、そのブログへメッセージを送っておたずねしてみた。すぐに懇切なお返事をいただいた。それによると、その方は三女の方のご子息だった。次女の方がご住職の跡を継いでおられるという。ご健在のしらせが嬉しかった。
 実は、僕は7年前に新潟へ出張したことがある。その時、柏崎に立ち寄りたいと思ったのだが、時間的な制約があってかなわなかった。後ろ髪引かれる思いで新潟空港から飛行機に乗ったことを思い出す。またいつか柏崎を訪れるチャンスがあればいいのだが。

▼7年前の新潟出張時の海岸風景。50数年前の柏崎の海岸も同じような風景が広がり、向こうに佐渡が見えた。



▼重要無形民俗文化財「綾子舞」

祭りのよそおい ~その残酷なストーリー~

2015-11-18 16:04:23 | 美術


 この絵は女性日本画家の島成園(1892~1970)による大正2年(1913)の作「祭りのよそおい」である。この絵を数年前に初めて見た時から、一見可愛らしい、微笑ましい風景ながらも、なぜか妙に心に引っ掛かるものを感じた。
 最近になって、この絵について、大阪市の生涯学習情報誌「いちょう並木」の「おおさかKEYわーど」というコラムに、大阪大学教授で美術史家の橋爪節也さんがこの絵について解説しているのを発見した。これを読んで腑に落ちた気がする。 

――大阪の女性画家らしい個性的な作品を紹介しよう。大正2(1913)年の第7回文部省美術展覧会で入選した島成園《祭りのよそおい》(大阪新美術館建設準備室蔵)である。祭の幔幕を張る豪家の店先の縁台に、晴れ着を着飾った三人の少女が座っている。右端には立った少女が一人。一見すると楽しい祭の日の少女たちを描いた、類型的にいえば“乙女チック”で愛らしい作品に見える。しかし、この絵にはある意味、残酷なストーリーがある。
 たとえばこの四人の家庭環境はどんな状態だろう。着物や草履、扇子などから見て左端の少女が最も裕福であり、順に経済力が落ちていく。三番目の絞りの子どもは、どことなく左の裕福な少女たちに媚びを売っているように見える。右端に立つ少女は着物も粗末で、裕福な少女たちをジッと見つめ、それも横向きで目しか描かれていない。
 この絵のテーマは、少女たちの可憐さではなく、子どもの世界に投影された大人社会の格差、残酷な現実社会の姿である。成園は堺に生まれ、船場にも道頓堀にも近い大阪市南区鍛治屋町(現中央区島之内)で成長した。《祭りのよそおい》の心理劇は、とりわけ大阪都心の日常風景だったはずであり、男性の画家ではなかなか思いつかない発想である。あなたなら、これまでの人生をふりかえって、四人の少女の誰に一番共感するだろうか?――

 大正・昭和初期には多くの女性日本画家が活躍した。その中心にあった「女四人の会」。左から岡本更園、木谷千種、島成園、松本華羊


漱石と羊羹

2015-11-17 19:51:59 | 文芸
 先日行われた「“SOSEKI”トークス2015」で講演会の前に、熊本県立大学教授の半藤英明氏による「熊本の漱石」クイズというのが行われた。そのクイズの何問目かに「草枕の主人公である画工の好物は羊羹か饅頭か?」という問題が出た。那古井の宿で青磁の皿に盛られた青い煉羊羹を見て「余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好きだ」というくだりがある。また、馬子の源兵衛が城下から買ってきたものだという那美さんの説明もある。半藤先生は、これは漱石自身が羊羹が好きだったのだろうが、熊本のどこの店で買ったのだろう、というような話をされた。
 その話を聞いて、父の幼い頃の話を思い出した。泰勝寺の長岡家のお坊っちゃまの遊び相手として毎日伺候した父は、毎日おやつとしてふるまわれたお菓子が楽しみだったという。そして、その当時、名店といわれた菓子舗として福栄堂や米屋の名前を上げている。二つの店とも現在は存在しないが、文献を調べてみると、明治から大正にかけて古町界隈にも菓子の名店がいくつもあったようだ。父の幼い頃というのは大正初期なので、漱石が熊本にいた頃から20年ほど経っているが、ひょっとしたら、父も漱石と同じ羊羹を食べたことがあるのかもしれない。
 漱石の羊羹好きの話はもう一つあって、漱石を師と仰ぐ寺田寅彦の随筆「夏目漱石先生の追憶」の中に「(先生は)草色の羊羹が好きであり、レストーランへいっしょに行くと、青豆のスープはあるかと聞くのが常であった。」というくだりがある。ここでいう羊羹とは熱々の吸い物のことらしく、羊羹の語源である中国伝来の羊の肉を煮込んだ料理のようなものだという。


草枕の道(石畳の道)

“SOSEKI”トークス2015 ~21世紀の漱石~

2015-11-15 19:05:02 | イベント
 来年は、夏目漱石が誕生して150年、熊本に来て120年という記念すべき年。熊本県で行われている「プロジェクト“SOSEKI”」の一環として、今日、「“SOSEKI”トークス2015 漱石講演会」が開催された。
 作家の高橋源一郎さんが「21世紀の漱石」と題して、文芸評論家としての幅広い知識を織り交ぜながら、漱石の作品がなぜ、今もなお多くの人々に愛され、読まれているのかについて大胆な仮説を交えて講演した。
 時代の移り変わりとともに、読まれる作家も変わっていくが、日本の近代文学史上、最も読まれている小説が漱石「こころ」太宰治「人間失格」
 漱石の作品が読者の心をとらえてはなさないのは、その多くの作品の中に埋め込まれた「謎」にあるのではないかという。たとえば、「こころ」の冒頭で、主人公である「私」が出逢った先生のことを「どうもどこかで見たことのある顔」と思うくだりがある。これは、普通は後の展開のための伏線なのだが、この小説にはそれを説明するような事柄は何も出てこない。この点について、高橋さんは、実は「私」とは先生の若い頃の姿、つまり、先生と「私」は同一人物ではないかと言う「松元寛説」をとる。さらに、先生の遺書に書かれたなる人物のモデルについて、の条件に合う人物は「石川啄木」ではないかという仮説を展開した。