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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

ほーらんえんや

2025-08-26 17:58:55 | 日本文化
 20年続けた「gooブログ」じまいに当たり、これまでブログネタの中で未発表のものなどの棚卸しをしておきたい。
 まず今日は、今年5月に初めて観た玉名市の「大浜外嶋住吉神社年紀祭」の船渡御に関する話題。何しろ10年おきの式年にしか行われないので、これまで観のがしていたこの祭りを最晩年に観ることができたことは幸せである。



 日本各地で船神事(船渡御)は行われているが、日本三大船神事といわれる大阪天満宮の「天神祭」、広島厳島神社の「管絃祭」、そして島根県松江の城山稲荷神社式年神幸祭「ホーランエンヤ」は有名だ。大阪天満宮の「天神祭」は平安時代中期から、広島厳島神社の「管絃祭」は平安時代後期から、松江の城山稲荷神社式年神幸祭は江戸時代前期から始まったといわれている。
 これに対し、玉名の大浜外嶋住吉神社は、始まった時代はハッキリしないものの、肥後米(高瀬米)を大坂へ運ぶ船運が盛んになった江戸中期頃から始まったと推定される。

 各地の船渡御に共通するのが「ほーらんえんや」という唄囃子。歌詞は地域によって異なっているが、もともと厳島の「管絃祭」で唄われていた舟唄がもとになり、各地へ伝わって行ったという説がある。
 そして、それは鳥取県民謡「貝殻節」や山口県民謡「ヨイショコショ節」などのもとになったとも考えられる。

▼熊本県玉名市「大浜外嶋住吉神社年紀祭」の船渡御
 櫂伝馬船の漕手たちが唄う「ほーらんえんや」

▼山口県民謡「ヨイショコショ」
 山口県周防大島に伝わる民謡とされているが、元治元年(1864)の第二次長州征伐(四境戦争)において大村益次郎率いる長州軍が 「石州口の戦い」で幕府軍を破った時、奇兵隊の一員として参戦していた人が陣営で唄われていたこの唄を持ち帰ったものという説がある。
 大正6年、喜劇役者・志賀廼家淡海は熊本の大和座での公演で初めて、劇中「ヨイショコショ節」を唄った。それが評判を呼び、昭和に入った頃「淡海節」と呼ばれるようになった。今では「淡海節」は志賀廼家淡海のふるさと滋賀県堅田の民謡ともなっている。


▼鳥取県民謡「貝殻節」
  「貝殻節」といえば、NHKのドラマ「夢千代日記」で、置屋はる屋の芸者たちが唄い踊ったことで全国的に知られることとなった。ドラマの舞台となった兵庫県の湯村温泉辺りの民謡かと思いきや、実は「貝殻節」は湯村温泉とは遠く離れた鳥取県沿岸の漁夫の作業歌として歌われ始めた民謡だという。


本丸御殿と伝統芸能

2025-08-21 11:04:18 | 日本文化
 熊本地震から9年が過ぎ、熊本城の復旧も進んではいるが、地震前の目玉スポットだった本丸御殿はいまだ閉鎖されたまま。熊本市は被害を受けた御殿のうち、茶会などを行っていたとされる「数寄屋棟」では下の石垣の一部が外に飛び出て建物が傾くなどしたことから、石垣を積み直すため建物をいったん解体することになったという。最も格式が高いとされ、地震で床が沈む被害が出た「昭君之間」は、石垣の被害が軽微なことから建物は解体せずに床の下に鉄骨の基礎をつくって補強を行うという。修復工事は2027年度からとりかかり、2032年度までに復旧完了を目指すという。
 熊本地震前まで本丸御殿大広間で盛んに行われた伝統芸能も遠い昔の物語のような気がしてきた。僕が最後に本丸御殿に登ったのは2016年1月2日に行われた「熊本城迎春行事」の時、熊本地震の3ヶ月前のことである。修復工事が完了する予定の7年後、再び大広間での夢舞台は復活するだろうか。それまで僕自身が健在であればの話だが。


 大広間というのは、桐之間・桜之間・梅之間・鶴之間をぶち抜いたスペースのこと。下の映像の地方が演奏する位置が桐之間、立方が舞う位置が桜之間である。地方の背景には若松之間の障壁画が鏡板のように見える。


 解体工事が行われる数寄屋棟は本丸御殿につながっている。


▼数寄屋の内部
 織部好みの茶室。加藤清正は茶の湯を千利休に学び、古田織部の高弟であった服部道巴を200石で召し抱え、家臣の茶の湯の稽古に当たらせたといわれている。長六畳という特異な形態となっているのが特徴。


 本丸御殿で最も格式の高い「昭君之間」。加藤清正が、豊臣秀頼に不測の事態が起きた時、密かに匿うために造られた部屋と伝えられる。


「昭君之間」の次に格式の高い藩主が座した「若松之間」。右奥が「昭君之間」


精霊流し

2025-08-16 19:12:51 | 日本文化
 今日16日は、一般的には「送り盆」の日。「迎え盆」でお迎えしたご先祖様や故人の精霊をあの世へ見送ります。日本各地に古より続けられてきた習俗「精霊流し」が残っています。
 熊本では、今春、熊本博物館において精霊流しをテーマにした春季企画展「送る-熊本県下の精霊流し-」展が行われました。観せていただきましたが、山鹿市鹿本町分田、菊池市隈府、荒尾市宮内出目、御船町、熊本市南区川尻、芦北町佐敷、天草市天草町大江などに残る「精霊流し」が展示紹介されていました。
 こういったお盆の行事も今や廃れつつあります。古より日本人が「精霊流し」に込めた先祖や故人に対する敬意や想いをこれからも大事にしたいものです。
 熊本城長塀前の坪井川でも、7月盆の終わりに「精霊流し」が行われていましたが、熊本地震やコロナ禍などで中断したままになっているのを寂しく思っています。


御船町の「精霊流し」(キロクマさんより)

▼長崎の「精霊流し」の様子を描いた「流れ灯」

消えた街の風物

2025-08-15 19:49:16 | 日本文化
 僕らが子供の頃よく見かけた「街の風物」とでも呼ぶべきものが姿を消して久しい。遠いあの頃を時々思い出してはノスタルジックな気分に浸ることがある。

芝居
 夕方近くになると街の片隅に必ずやって来た紙芝居。子供たちはめいめい10円玉を握りしめてやって来て、紙芝居のおじさんから水飴を買い、紙芝居を楽しんでいた。だが、わが家は祖母が「不衛生!」とうるさく、けっして行かせてもらえなかった。それでもどうしても紙芝居が見たくて少し離れたところから盗み見していた。「タダ見はダメだよ!」とおじさんによく言われたものだ。


売り
 僕が子供の頃は、天秤棒を担いだり、リヤカーを引っ張った物売りのおじさんやおばさんたちがよくやってきた。野菜、アサリ、ナマコ、シャコ、たまご、金魚、納豆等々、実に様々な物を売りに来た。特に海産物は有明海沿岸で獲れたもので、鮮度が命、上熊本駅で降りた後、スピード勝負で大変だっただろう。
 五高時代、夏目漱石を師と仰いだ寺田寅彦は、昭和10年に著した随筆「物売りの声」の中で、
―― 今のうちにこれらの滅び行く物売りの声を音譜にとるなり蓄音機のレコードにとるなりなんらかの方法で記録し保存しておいて百年後の民俗学者や好事家に聞かせてやるのは、天然物や史跡などの保存と同様にかなり有意義な仕事ではないかという気がする。――
と書いている。昭和10年当時、物売りが滅び行く運命にあることを既に認識していたようだ。


絽(ろ)のはなし。

2025-07-28 21:36:34 | 日本文化
 父が書き遺した備忘録によると、祖母(父の母)は十六歳の時、大江村(現中央区大江4丁目)にあった絹織物工場に通って機織りを身に付けたという。この工場は、徳富蘇峰先生が自ら開いた大江義塾を閉鎖して上京された後、先生の姉婿河田氏がその屋敷を譲り受けて開設した工場だそうである。
 若くして夫と死別した祖母は、この工場で身に付けた機織り仕事で、父と叔父の幼い兄弟を育て上げたのである。娘時代、機織り工場に行ったわけについて、縮緬、羽二重、絽などの特殊な織りの技術を身に付けるためであって、けっして労賃目当てではないと言い張った。たしかに祖母の娘時代は曽祖父は大江村の村長をしており羽振りはよかったらしいので、祖母の言葉は額面通り受け取ってよさそうである。
 さてその織りの技術である縮緬、羽二重、絽のことだが、縮緬と聞けば「越後の縮緬問屋のご隠居」を思い出すし、羽二重はどっかに同じような艶やかな質感の和菓子があったような覚えがある。それに対し、絽ってナニ?という疑問がずっとあった。調べてみると、いわゆる薄物と呼ばれる生地の一つで、ちょうど今頃の夏の暑さ厳しい季節に適した生地だそうである。経糸2本をねじって緯糸と織りこむ織り方が特徴だという。祖母ははたしてそんな織りの技術を駆使していたのだろうか。僕が幼稚園に入る頃、祖母は70歳に近かったが、永年の機織り仕事で膝がダメになっていた。

肥後花しょうぶの歴史

2025-06-10 20:42:16 | 日本文化
 熊本城竹の丸にある肥後名花園で栽培された肥後花菖蒲(はなしょうぶ)が見ごろを迎え、天守閣前広場、城彩苑、二の丸お休み処などで展示されています。「肥後六花」と呼ばれる花々のひとつである「肥後花しょうぶ」の歴史について、昭和56年(1981)に放送されたNHK「新日本紀行 肥後秘花」という番組で紹介され、その後、何度か再放送されました。
 その番組のナレーション(一部)を文字起こししたものを下記しました。

 杜の都、肥後細川藩五十四万石の城下町熊本。江戸時代、この熊本を治めた細川家は、江戸や上方とも違った文化の薫り高い政治を敷きました。そして今も、かつて細川藩の侍たちが武家屋敷の中で育て門外不出としてきた花が、子孫の人たちによって守られています。
 かつて細川公のお側用人を務めてきた杉山家の庭。阿蘇の湧水がせせらぎとなって流れています。当主の杉山さんは門外不出の肥後花しょうぶを守り育てている熊本花しょうぶ満月会の幹事長です。満月会には江戸時代から守られてきた30ヶ条にもおよぶ厳しい規則があります。花は必ず鉢で栽培すること。花は一代限りのもので、本人が死んだらただちに会に返却すること。たとえ親兄弟といえども譲り渡してはならないこと。数々の掟によって肥後花しょうぶは会員の庭だけにひっそりと江戸時代の文化の薫りを伝えてきたのです。一つ一つに能や和歌などからとった名が付けられています。満月会にこれまで登録された花の数は1200余り、350種類余りが今実際に栽培されています。かつてはそれぞれの家が秘伝を持ち、己の死に際に初めてわが子にだけ伝えたと言います。
 武士が育てた肥後の名花は六月梅雨が近づくと花を開きます。細川藩では何事も武士道と結びつけて剛直な侍の気風を育てました。武士たちが花づくりに心を尽くしたのも、けっして遊びではなく、厳しい精神修養の道の一つでした。こうして細川藩では肥後さざんか、肥後つばき、肥後しゃくやく、肥後しょうぶ、肥後菊、肥後朝顔の六つの花、「肥後六花」と呼ばれる華麗な花々が武家屋敷の中で育ちました。

「新日本紀行 肥後秘花」のオープニング画面


肥後花しょうぶ

 2022年3月〜5月に熊本市で開催された「第38回全国都市緑化くまもとフェア」(くまもと花博)にちなみ制作された舞踊団花童の創作舞踊「花七変化 肥後六花」。「くまもと花博」歓迎アトラクションとして公式記録に記載されています。
 全編、邦楽の第一線で活躍しておられる先生方によるオリジナルの楽曲と演奏、はつ喜流月蘇女振付、はつ喜流月太郎作調による花童たちの華麗な踊りで見どころ聴きどころ満載です。

六月朔日 ~心豊かに~

2025-06-01 22:39:23 | 日本文化
 五月があっという間に過ぎ去り、今日から六月。毎月恒例の朔日詣りに藤崎八旛宮へ。まだ楼門修復工事が行われていて何となくせわしない。参拝を済ませたあと、先月、明午橋のたもとに完成したという夏目漱石の熊本四番目の井川淵の家跡の記念碑を見に行った。実際に家があった辺りを探してみたが見つからない。ウロウロ探し回った挙句、明午橋の下流側の土手にあった。旧居跡からはだいぶ離れている。何だかなぁと思いながら記念碑を眺める。漱石がこの家に住んでいた時に詠んだという句
   春の夜のしば笛を吹く書生哉
が彫られていた。

記念碑


明午橋下流の白川

 その後、案内を受けていた展覧会を二つ見に行った。一つは華道草心流の「野の花いけばな展」。上通大宝堂の地下アートスペースで行われていた。写真撮影可だったのだが、ブログ掲載は控えた。

 二つ目は、熊本県立美術館分館で行われている「熊本県日本画協会展」。息子の姑が2点出品していた。1点は南阿蘇村の観音桜を描いた「山里の春」。ここには行ったこともあるが、満開の桜の巨木の背景に雄大な阿蘇を配した絶好のロケーションを描いている。もう1点は場所は不明だが、山あいを流れる沢の遠景「沢の調べ」。まさに沢のせせらぎが聞こえてきそうな風景を丹念に描く。いずれもなかなかの力作である。

山里の春


沢の調べ

玄宅寺とからし蓮根と日本舞踊

2025-05-16 23:03:25 | 日本文化
 長男が大分県の中津に転勤した。中津は通過したことはあるが立ち寄ったことはない。今度は目的が出来たのでぜひ行ってみたい。
 中津といえば思い出すのは玄宅寺(水前寺)。開山の玄宅禅師は中津の羅漢寺からやってきた禅師。寛永9年(1632)に肥後細川藩初代藩主、細川忠利公が肥後に入府された時、前任地の豊後から伴って来られたのが中津の古刹・羅漢寺の住職だった玄宅禅師。忠利公はこの水郷の地に「水前寺禅寺」を創建し、玄宅禅師を初代住持とされた水前寺発祥のお寺である。また、玄宅禅師は今日、熊本名物の一つとなっている「からし蓮根」の考案者でもある。病弱だった忠利公の滋養強壮に心を配り、考案したのが「からし蓮根」。そしてそれを忠利公の食事に供したのが細川家の賄方だった森平五郎。森家は現在も新町に老舗の「森からし蓮根」として続いている。「からし蓮根」は、蓮根の穴に辛子味噌を詰めて揚げた料理。シャキシャキとした蓮根の食感と、ピリッとした辛さが特徴で、お酒のおつまみや惣菜として人気がある。
 その玄宅寺ではコロナ禍の前まで、舞踊団花童が毎月、舞踊会を催していた。コロナのせいで途切れたままになっているがぜひ復活してほしいと願っている。舞踊団花童には玄宅寺のお嬢さん、真唯(まい)さんも所属しており、先般、中村花誠師匠から名取りを許され、熊本市民会館ホールでの公演でお披露目された。

   ▼名取名「はつ喜流月桂華」として「藤娘」を舞う真唯さん
※画像をクリックすると動画を再生します。

柳川抒情

2025-05-15 22:49:17 | 日本文化
 フォローさせていただいているブログ「田園都市の風景から」さんの直近記事に、福岡県柳川市の「沖端水天宮・春の大祭」をリポートされていました。
 柳川にはもう数えきれないほど訪れていますが、この祭りはまだ見たことがありません。一度は見ておきたいと思っています。記事中の写真の転載をご承諾いただきましたので、そのうちの2枚を掲載してみました。


堀に浮かべた舫い船の上に乗せた舟舞台で演じられる様々な芸能。


邦楽演奏や地歌舞伎などが披露される。

 沖端水天宮のすぐ近くに生家がある北原白秋は、少年時代を過ごしたふるさとを描いた随筆「水郷柳河」の中でわが町を、廃市(廃れた町)と言い、街を掘り巡らした水路やたった一つ残った遊女屋懐月楼や古い白壁など、故郷の水郷の町の廃れゆく姿とそこで暮らす人々の哀感を、愛を込めた眼差しで描き出しています。しかし、今日では柳川は白秋の時代とは全く様相を異にする観光都市として賑わっています。


川下りを楽しむ観光客を乗せて進むどんこ舟

 かつての柳川の情景を描いた長唄舞踊を2曲ご紹介します。

   ▼水郷柳河の風情を唄った長唄舞踊「水の上」

   ▼北原白秋の詩集「思ひ出」の中の「柳河」「立秋」「水路」などをモチーフとして、
    白秋の詩の世界を長唄にした「水辺立秋」。


 わが家の辺りは江戸時代「柳川小路」と呼ばれていました。明治時代になってから柳川丁となり、終戦後の町名変更で京町本丁や京町2丁目へと変わりましたが、わが祖母はずっと柳川丁と言っていました。その経緯について熊本県大百科事典(昭和57年出版)には次のように書かれています。

「柳川小路(やながわこうじ)」
――熊本市京町本丁の東側と京町2丁目の旧称で、京町柳川というバス停にその名残をとどめている。「やながわしょうじ」とも言われる。慶長五年(1600)関ヶ原の戦で、城地を没収された柳川城主立花宗茂は、加藤清正に家臣たちの扶養を依頼した。清正は即座に200人にも上る柳川衆を快く引き受け京町に住まわせたので、以来この一帯を柳川小路と称した。元和六年(1620)宗茂は柳川城主に復帰し、柳川衆は全員帰参したが、地名はそのまま明治に至るまで柳川小路と呼ばれてきた。――
<鈴木 喬>

 そんなわけで筑後の柳川についても幼い頃から親しみを感じていました。柳川には今まで何度も訪れていますが、これからも度々訪れることでしょう。

 わが町に「柳川小路」の痕跡を探してみました。


江戸時代の絵図に残る「柳川小路」


東の柳川小路の風景(上の絵図の一番右(東)側の上半分


民家の壁に貼られた柳川丁の案内板

左から「瀬戸坂」の標柱には「東柳川の坂」という説明が見える。
瀬戸坂に沿ったNTTの電信柱には「東柳川支線」と書かれたプレートが貼られている。
熊本都市バス第1環状線のバス停には「京町柳川」の名称が残る。

カキツバタ色の唐衣

2025-04-25 19:24:00 | 日本文化
 そろそろ立田山湿性植物苑のカキツバタが咲く頃だなぁと思い行ってみた。今年も綺麗な紫色の花を咲かせ始めていた。思わず、「伊勢物語」の在原業平の歌が浮かぶ。

 らころも  つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ
 (唐衣着つつ馴れにし妻しあれば遥々来ぬる旅をしぞ思ふ)

「伊勢物語」九段「東下り」に語られるエピソードだが、「ウィキブックス」によれば次のように解説されている。

――昔、京に住んでいた男が、いろいろあって、京から出て行く気になったので、東国に移り住もうと旅をした。古くからの友人の一人か二人とともに旅に出た。 三河の国の八橋で、かきつばたの花が咲いていたので、折句(おりく、技法の一つ)で「か・き・つ・ば・た」を句頭に読み込んだ和歌を主人公の男が詠んだ。和歌の内容は、都に残してきた妻を恋しく思う和歌である。一行は感動し、涙を流すほどであり、ちょうどそのとき食べていた乾飯が、涙でふやけてしまうほどの素晴らしい出来の和歌だったという。――

 立田山湿性植物苑から北東に1.5㌔ほど離れたところに代継宮がある。毎年5月4日にこの神社で行われる「曲水の宴」では男女数名の貴人が平安装束を身に纏って歌を詠むが、その中にはカキツバタ色の唐衣を纏った女性の歌人もいる。


立田山湿性植物苑のカキツバタ(2025.4.25 の様子)


代継宮「曲水の宴」でカキツバタ色の唐衣を纏った歌人

やつしろ舟出浮き

2025-04-19 17:34:55 | 日本文化
 先日、ローカルニュースで今年の「やつしろ舟出浮き(ふなでうき)」が始まったというニュースが流れていた。これは八代伝統の海のレジャーで、漁船に10人前後の客が乗り込み、漁師の伝統漁法を目の前で見物するとともに、獲れた季節ごとの海の幸を、八代海に浮かぶ無人島に上陸して漁師さんがさばいて料理してくれるというもの。江戸時代、八代城主だった松井家が球磨川河口で楽しんでいた船遊びに由来するという。
 僕が小学2年生の時、父が八代の太田郷小学校に勤務していて、教職員慰安行事の「舟出浮き」に僕も連れて行ってもらった。その日の舟は八代海でのイカ釣り舟だった。海に沈めてあった籠を次々に引き上げると中にイカが入っていて、船上へ上がる瞬間に真っ黒いスミを吐く。みんなでキャーキャー言いながらスミをよけた。漁が一段落すると無人島に上陸して弁当を開いた。その無人島の浜で小さなタコを手づかみで捕まえたことを鮮明に憶えている。釣ったイカをそこで食べたかどうか憶えていないが、お土産に持って帰ったことは憶えている。あれが「舟出浮き」だったのだと認識したのはそれから50年以上も経ってからだった。


太田郷小の先生と無人島の浜で記念撮影。


松井家の御用絵師が描いたという「舟出浮き」の様子(無人島での貝掘り?)

   ◇八代の民謡といえばまず思い浮かぶのはこの「おざや節」

藤娘と近江八景

2025-04-17 20:49:14 | 日本文化
 早くも藤の季節。一昨日行われた藤崎八旛宮の藤祭には所用のため参拝できませんでしたが、日を改めて藤棚の甘い香りを嗅ぎに行きたいと思っています。


藤崎八旛宮の藤棚

 藤といえば「藤娘」。昨年11月に放送された「ブラタモリ 東海道五十七次の旅」編でも紹介された大津絵の代表的な画題の一つです。この大津絵をモチーフにした長唄であり歌舞伎舞踊の演目でもある「藤娘」。先日の「中村花誠六十周年記念公演」における「藤娘」の中から、「近江八景」を織り込んだ聴かせどころをダイジェストにしてみました。彦根在勤の頃、現地を訪れたことのある地名が歌われていて懐かしくなりました。
◇近江八景
  • 粟津晴嵐 (あわづのせいらん)
  • 三井晩鐘 (みいのばんしょう)
  • 石山秋月 (いしやまのしゅうげつ)
  • 唐崎夜雨 (からさきのやう)
  • 比良暮雪 (ひらのぼせつ)
  • 瀬田夕照 (せたのせきしょう)
  • 堅田落雁 (かたたのらくがん)
  • 矢橋帰帆 (やばせのきはん)

桜花散るを惜しまぬ人しなければ

2025-03-22 20:50:04 | 日本文化
 昨年より2週間以上遅れて咲いた坪井川遊水地の河津桜は今週いっぱいで見ごろは終り、今年の役割を終える。
 替わってやがてソメイヨシノの開花が始まるだろう。だが、葉桜になりつつある河津桜を眺めていると愛おしさで離れがたい想いが募る。なぜか平安時代の歌人・大伴黒主が詠んだ歌
   春雨の降るは涙か桜花散るを惜しまぬ人しなければ
が思い出される。






 漱石の「吾輩は猫である」の中で、「平の宗盛にて候」と謡曲「熊野」の一節を後架先生が度々呻るように、漱石自身が好んだという「熊野」は、前述の大伴黒主の歌がモチーフとなっている。
 この「熊野」をもとに創られた長唄「桜月夜」は、平宗盛のもとを去る熊野が別れの舞を舞う場面である。

自力本願・他力本願

2025-01-30 17:02:00 | 日本文化
 毎月、父の月命日にはわが家の檀那寺からご住職にお経をあげに来ていただいています。
 わが家は先祖代々、浄土真宗ですが、ある時、ご住職に前から抱いていた疑問を質したことがあります。それは「浄土真宗ではなぜ、般若心経を唱えられないのか」ということです。それに対しご住職は「大乗仏教」から説明を始められましたが、正直よくわかりませんでした。
 その後、各種文献などで調べたところ、どうやら「自力本願」、「他力本願」がキーワードらしいということが分かりました。一般的に使われる「自力本願」、「他力本願」の意味とは異なり、次のような意味があるようです。

● 自力本願
 自ら修行によって悟りを開くことを求める宗派、真言宗や曹洞宗などでは「般若心経」を唱えます。
これに対し
● 他力本願
 浄土真宗などでは他力すなわち、仏の力、阿弥陀仏の本願によって救済され、極楽往生を得ることを
 求めるという考え方で「南無阿弥陀仏」を唱えます。

 今日はそれぞれの宗教観がベースとなった曲を聞いてみました。

▼琵琶経 ~3.11後の供養曲~
 次の曲は薩摩琵琶奏者・北原香菜子さんが演奏する「琵琶経 ~3.11後の供養曲~」で「般若心経」をモチーフとした曲です。
 なお、北原さんは「第12回くまもと全国邦楽コンクール」(平成18年)において最優秀賞に選ばれた演奏家です。


▼平泉讃歌
 平成29年3月、仙台市で行われた「東日本大震災七回忌追善公演」において舞踊団花童が披露した「平泉讃歌」は、奥州平泉で非業の最期を遂げた源義経の魂が高館の杜を彷徨っていると、どこからか迦陵頻伽の妙なる歌声が聞こえて来て、やがてひとすじの希望の光が差し、阿弥陀如来が来迎、義経の魂はお浄土へと導かれるという、義経の物語に仮託しながら東日本大震災のすべての犠牲者を供養する想いが込められています。作詞者のおのりくさんは平成26年に38歳の若さで夭逝されました。


どんどや

2025-01-13 22:38:30 | 日本文化
 今日は、わが町の正月恒例行事「第52回壺川校区どんどや」が京陵中学校のグラウンドで行われた。消防団の皆さんが伐り取り組み上げた青竹の櫓の前で、加藤神社宮司による神事の後、櫓に火が入れられた。たちまち櫓は燃え上がり、松飾りや注連飾りが燃える炎とともにお迎えした歳神様が天空へと昇って行く。毎年のことながら感動を覚える一瞬だ。


加藤神社宮司により神事がとり行われる。


壺川小学校の生徒による玉串奉奠


組まれた櫓に火入れが始まる


あっという間に櫓が燃え上がる