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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

肥後花しょうぶの歴史

2025-06-10 20:42:16 | 日本文化
 熊本城竹の丸にある肥後名花園で栽培された肥後花菖蒲(はなしょうぶ)が見ごろを迎え、天守閣前広場、城彩苑、二の丸お休み処などで展示されています。「肥後六花」と呼ばれる花々のひとつである「肥後花しょうぶ」の歴史について、昭和56年(1981)に放送されたNHK「新日本紀行 肥後秘花」という番組で紹介され、その後、何度か再放送されました。
 その番組のナレーション(一部)を文字起こししたものを下記しました。

 杜の都、肥後細川藩五十四万石の城下町熊本。江戸時代、この熊本を治めた細川家は、江戸や上方とも違った文化の薫り高い政治を敷きました。そして今も、かつて細川藩の侍たちが武家屋敷の中で育て門外不出としてきた花が、子孫の人たちによって守られています。
 かつて細川公のお側用人を務めてきた杉山家の庭。阿蘇の湧水がせせらぎとなって流れています。当主の杉山さんは門外不出の肥後花しょうぶを守り育てている熊本花しょうぶ満月会の幹事長です。満月会には江戸時代から守られてきた30ヶ条にもおよぶ厳しい規則があります。花は必ず鉢で栽培すること。花は一代限りのもので、本人が死んだらただちに会に返却すること。たとえ親兄弟といえども譲り渡してはならないこと。数々の掟によって肥後花しょうぶは会員の庭だけにひっそりと江戸時代の文化の薫りを伝えてきたのです。一つ一つに能や和歌などからとった名が付けられています。満月会にこれまで登録された花の数は1200余り、350種類余りが今実際に栽培されています。かつてはそれぞれの家が秘伝を持ち、己の死に際に初めてわが子にだけ伝えたと言います。
 武士が育てた肥後の名花は六月梅雨が近づくと花を開きます。細川藩では何事も武士道と結びつけて剛直な侍の気風を育てました。武士たちが花づくりに心を尽くしたのも、けっして遊びではなく、厳しい精神修養の道の一つでした。こうして細川藩では肥後さざんか、肥後つばき、肥後しゃくやく、肥後しょうぶ、肥後菊、肥後朝顔の六つの花、「肥後六花」と呼ばれる華麗な花々が武家屋敷の中で育ちました。

「新日本紀行 肥後秘花」のオープニング画面


肥後花しょうぶ

 2022年3月〜5月に熊本市で開催された「第38回全国都市緑化くまもとフェア」(くまもと花博)にちなみ制作された舞踊団花童の創作舞踊「花七変化 肥後六花」。「くまもと花博」歓迎アトラクションとして公式記録に記載されています。
 全編、邦楽の第一線で活躍しておられる先生方によるオリジナルの楽曲と演奏、はつ喜流月蘇女振付、はつ喜流月太郎作調による花童たちの華麗な踊りで見どころ聴きどころ満載です。

六月朔日 ~心豊かに~

2025-06-01 22:39:23 | 日本文化
 五月があっという間に過ぎ去り、今日から六月。毎月恒例の朔日詣りに藤崎八旛宮へ。まだ楼門修復工事が行われていて何となくせわしない。参拝を済ませたあと、先月、明午橋のたもとに完成したという夏目漱石の熊本四番目の井川淵の家跡の記念碑を見に行った。実際に家があった辺りを探してみたが見つからない。ウロウロ探し回った挙句、明午橋の下流側の土手にあった。旧居跡からはだいぶ離れている。何だかなぁと思いながら記念碑を眺める。漱石がこの家に住んでいた時に詠んだという句
   春の夜のしば笛を吹く書生哉
が彫られていた。

記念碑


明午橋下流の白川

 その後、案内を受けていた展覧会を二つ見に行った。一つは華道草心流の「野の花いけばな展」。上通大宝堂の地下アートスペースで行われていた。写真撮影可だったのだが、ブログ掲載は控えた。

 二つ目は、熊本県立美術館分館で行われている「熊本県日本画協会展」。息子の姑が2点出品していた。1点は南阿蘇村の観音桜を描いた「山里の春」。ここには行ったこともあるが、満開の桜の巨木の背景に雄大な阿蘇を配した絶好のロケーションを描いている。もう1点は場所は不明だが、山あいを流れる沢の遠景「沢の調べ」。まさに沢のせせらぎが聞こえてきそうな風景を丹念に描く。いずれもなかなかの力作である。

山里の春


沢の調べ

玄宅寺とからし蓮根と日本舞踊

2025-05-16 23:03:25 | 日本文化
 長男が大分県の中津に転勤した。中津は通過したことはあるが立ち寄ったことはない。今度は目的が出来たのでぜひ行ってみたい。
 中津といえば思い出すのは玄宅寺(水前寺)。開山の玄宅禅師は中津の羅漢寺からやってきた禅師。寛永9年(1632)に肥後細川藩初代藩主、細川忠利公が肥後に入府された時、前任地の豊後から伴って来られたのが中津の古刹・羅漢寺の住職だった玄宅禅師。忠利公はこの水郷の地に「水前寺禅寺」を創建し、玄宅禅師を初代住持とされた水前寺発祥のお寺である。また、玄宅禅師は今日、熊本名物の一つとなっている「からし蓮根」の考案者でもある。病弱だった忠利公の滋養強壮に心を配り、考案したのが「からし蓮根」。そしてそれを忠利公の食事に供したのが細川家の賄方だった森平五郎。森家は現在も新町に老舗の「森からし蓮根」として続いている。「からし蓮根」は、蓮根の穴に辛子味噌を詰めて揚げた料理。シャキシャキとした蓮根の食感と、ピリッとした辛さが特徴で、お酒のおつまみや惣菜として人気がある。
 その玄宅寺ではコロナ禍の前まで、舞踊団花童が毎月、舞踊会を催していた。コロナのせいで途切れたままになっているがぜひ復活してほしいと願っている。舞踊団花童には玄宅寺のお嬢さん、真唯(まい)さんも所属しており、先般、中村花誠師匠から名取りを許され、熊本市民会館ホールでの公演でお披露目された。

   ▼名取名「はつ喜流月桂華」として「藤娘」を舞う真唯さん
※画像をクリックすると動画を再生します。

柳川抒情

2025-05-15 22:49:17 | 日本文化
 フォローさせていただいているブログ「田園都市の風景から」さんの直近記事に、福岡県柳川市の「沖端水天宮・春の大祭」をリポートされていました。
 柳川にはもう数えきれないほど訪れていますが、この祭りはまだ見たことがありません。一度は見ておきたいと思っています。記事中の写真の転載をご承諾いただきましたので、そのうちの2枚を掲載してみました。


堀に浮かべた舫い船の上に乗せた舟舞台で演じられる様々な芸能。


邦楽演奏や地歌舞伎などが披露される。

 沖端水天宮のすぐ近くに生家がある北原白秋は、少年時代を過ごしたふるさとを描いた随筆「水郷柳河」の中でわが町を、廃市(廃れた町)と言い、街を掘り巡らした水路やたった一つ残った遊女屋懐月楼や古い白壁など、故郷の水郷の町の廃れゆく姿とそこで暮らす人々の哀感を、愛を込めた眼差しで描き出しています。しかし、今日では柳川は白秋の時代とは全く様相を異にする観光都市として賑わっています。


川下りを楽しむ観光客を乗せて進むどんこ舟

 かつての柳川の情景を描いた長唄舞踊を2曲ご紹介します。

   ▼水郷柳河の風情を唄った長唄舞踊「水の上」

   ▼北原白秋の詩集「思ひ出」の中の「柳河」「立秋」「水路」などをモチーフとして、
    白秋の詩の世界を長唄にした「水辺立秋」。


 わが家の辺りは江戸時代「柳川小路」と呼ばれていました。明治時代になってから柳川丁となり、終戦後の町名変更で京町本丁や京町2丁目へと変わりましたが、わが祖母はずっと柳川丁と言っていました。その経緯について熊本県大百科事典(昭和57年出版)には次のように書かれています。

「柳川小路(やながわこうじ)」
――熊本市京町本丁の東側と京町2丁目の旧称で、京町柳川というバス停にその名残をとどめている。「やながわしょうじ」とも言われる。慶長五年(1600)関ヶ原の戦で、城地を没収された柳川城主立花宗茂は、加藤清正に家臣たちの扶養を依頼した。清正は即座に200人にも上る柳川衆を快く引き受け京町に住まわせたので、以来この一帯を柳川小路と称した。元和六年(1620)宗茂は柳川城主に復帰し、柳川衆は全員帰参したが、地名はそのまま明治に至るまで柳川小路と呼ばれてきた。――
<鈴木 喬>

 そんなわけで筑後の柳川についても幼い頃から親しみを感じていました。柳川には今まで何度も訪れていますが、これからも度々訪れることでしょう。

 わが町に「柳川小路」の痕跡を探してみました。


江戸時代の絵図に残る「柳川小路」


東の柳川小路の風景(上の絵図の一番右(東)側の上半分


民家の壁に貼られた柳川丁の案内板

左から「瀬戸坂」の標柱には「東柳川の坂」という説明が見える。
瀬戸坂に沿ったNTTの電信柱には「東柳川支線」と書かれたプレートが貼られている。
熊本都市バス第1環状線のバス停には「京町柳川」の名称が残る。

カキツバタ色の唐衣

2025-04-25 19:24:00 | 日本文化
 そろそろ立田山湿性植物苑のカキツバタが咲く頃だなぁと思い行ってみた。今年も綺麗な紫色の花を咲かせ始めていた。思わず、「伊勢物語」の在原業平の歌が浮かぶ。

 らころも  つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ
 (唐衣着つつ馴れにし妻しあれば遥々来ぬる旅をしぞ思ふ)

「伊勢物語」九段「東下り」に語られるエピソードだが、「ウィキブックス」によれば次のように解説されている。

――昔、京に住んでいた男が、いろいろあって、京から出て行く気になったので、東国に移り住もうと旅をした。古くからの友人の一人か二人とともに旅に出た。 三河の国の八橋で、かきつばたの花が咲いていたので、折句(おりく、技法の一つ)で「か・き・つ・ば・た」を句頭に読み込んだ和歌を主人公の男が詠んだ。和歌の内容は、都に残してきた妻を恋しく思う和歌である。一行は感動し、涙を流すほどであり、ちょうどそのとき食べていた乾飯が、涙でふやけてしまうほどの素晴らしい出来の和歌だったという。――

 立田山湿性植物苑から北東に1.5㌔ほど離れたところに代継宮がある。毎年5月4日にこの神社で行われる「曲水の宴」では男女数名の貴人が平安装束を身に纏って歌を詠むが、その中にはカキツバタ色の唐衣を纏った女性の歌人もいる。


立田山湿性植物苑のカキツバタ(2025.4.25 の様子)


代継宮「曲水の宴」でカキツバタ色の唐衣を纏った歌人

やつしろ舟出浮き

2025-04-19 17:34:55 | 日本文化
 先日、ローカルニュースで今年の「やつしろ舟出浮き(ふなでうき)」が始まったというニュースが流れていた。これは八代伝統の海のレジャーで、漁船に10人前後の客が乗り込み、漁師の伝統漁法を目の前で見物するとともに、獲れた季節ごとの海の幸を、八代海に浮かぶ無人島に上陸して漁師さんがさばいて料理してくれるというもの。江戸時代、八代城主だった松井家が球磨川河口で楽しんでいた船遊びに由来するという。
 僕が小学2年生の時、父が八代の太田郷小学校に勤務していて、教職員慰安行事の「舟出浮き」に僕も連れて行ってもらった。その日の舟は八代海でのイカ釣り舟だった。海に沈めてあった籠を次々に引き上げると中にイカが入っていて、船上へ上がる瞬間に真っ黒いスミを吐く。みんなでキャーキャー言いながらスミをよけた。漁が一段落すると無人島に上陸して弁当を開いた。その無人島の浜で小さなタコを手づかみで捕まえたことを鮮明に憶えている。釣ったイカをそこで食べたかどうか憶えていないが、お土産に持って帰ったことは憶えている。あれが「舟出浮き」だったのだと認識したのはそれから50年以上も経ってからだった。


太田郷小の先生と無人島の浜で記念撮影。


松井家の御用絵師が描いたという「舟出浮き」の様子(無人島での貝掘り?)

   ◇八代の民謡といえばまず思い浮かぶのはこの「おざや節」

藤娘と近江八景

2025-04-17 20:49:14 | 日本文化
 早くも藤の季節。一昨日行われた藤崎八旛宮の藤祭には所用のため参拝できませんでしたが、日を改めて藤棚の甘い香りを嗅ぎに行きたいと思っています。


藤崎八旛宮の藤棚

 藤といえば「藤娘」。昨年11月に放送された「ブラタモリ 東海道五十七次の旅」編でも紹介された大津絵の代表的な画題の一つです。この大津絵をモチーフにした長唄であり歌舞伎舞踊の演目でもある「藤娘」。先日の「中村花誠六十周年記念公演」における「藤娘」の中から、「近江八景」を織り込んだ聴かせどころをダイジェストにしてみました。彦根在勤の頃、現地を訪れたことのある地名が歌われていて懐かしくなりました。
◇近江八景
  • 粟津晴嵐 (あわづのせいらん)
  • 三井晩鐘 (みいのばんしょう)
  • 石山秋月 (いしやまのしゅうげつ)
  • 唐崎夜雨 (からさきのやう)
  • 比良暮雪 (ひらのぼせつ)
  • 瀬田夕照 (せたのせきしょう)
  • 堅田落雁 (かたたのらくがん)
  • 矢橋帰帆 (やばせのきはん)

桜花散るを惜しまぬ人しなければ

2025-03-22 20:50:04 | 日本文化
 昨年より2週間以上遅れて咲いた坪井川遊水地の河津桜は今週いっぱいで見ごろは終り、今年の役割を終える。
 替わってやがてソメイヨシノの開花が始まるだろう。だが、葉桜になりつつある河津桜を眺めていると愛おしさで離れがたい想いが募る。なぜか平安時代の歌人・大伴黒主が詠んだ歌
   春雨の降るは涙か桜花散るを惜しまぬ人しなければ
が思い出される。






 漱石の「吾輩は猫である」の中で、「平の宗盛にて候」と謡曲「熊野」の一節を後架先生が度々呻るように、漱石自身が好んだという「熊野」は、前述の大伴黒主の歌がモチーフとなっている。
 この「熊野」をもとに創られた長唄「桜月夜」は、平宗盛のもとを去る熊野が別れの舞を舞う場面である。

自力本願・他力本願

2025-01-30 17:02:00 | 日本文化
 毎月、父の月命日にはわが家の檀那寺からご住職にお経をあげに来ていただいています。
 わが家は先祖代々、浄土真宗ですが、ある時、ご住職に前から抱いていた疑問を質したことがあります。それは「浄土真宗ではなぜ、般若心経を唱えられないのか」ということです。それに対しご住職は「大乗仏教」から説明を始められましたが、正直よくわかりませんでした。
 その後、各種文献などで調べたところ、どうやら「自力本願」、「他力本願」がキーワードらしいということが分かりました。一般的に使われる「自力本願」、「他力本願」の意味とは異なり、次のような意味があるようです。

● 自力本願
 自ら修行によって悟りを開くことを求める宗派、真言宗や曹洞宗などでは「般若心経」を唱えます。
これに対し
● 他力本願
 浄土真宗などでは他力すなわち、仏の力、阿弥陀仏の本願によって救済され、極楽往生を得ることを
 求めるという考え方で「南無阿弥陀仏」を唱えます。

 今日はそれぞれの宗教観がベースとなった曲を聞いてみました。

▼琵琶経 ~3.11後の供養曲~
 次の曲は薩摩琵琶奏者・北原香菜子さんが演奏する「琵琶経 ~3.11後の供養曲~」で「般若心経」をモチーフとした曲です。
 なお、北原さんは「第12回くまもと全国邦楽コンクール」(平成18年)において最優秀賞に選ばれた演奏家です。


▼平泉讃歌
 平成29年3月、仙台市で行われた「東日本大震災七回忌追善公演」において舞踊団花童が披露した「平泉讃歌」は、奥州平泉で非業の最期を遂げた源義経の魂が高館の杜を彷徨っていると、どこからか迦陵頻伽の妙なる歌声が聞こえて来て、やがてひとすじの希望の光が差し、阿弥陀如来が来迎、義経の魂はお浄土へと導かれるという、義経の物語に仮託しながら東日本大震災のすべての犠牲者を供養する想いが込められています。作詞者のおのりくさんは平成26年に38歳の若さで夭逝されました。


どんどや

2025-01-13 22:38:30 | 日本文化
 今日は、わが町の正月恒例行事「第52回壺川校区どんどや」が京陵中学校のグラウンドで行われた。消防団の皆さんが伐り取り組み上げた青竹の櫓の前で、加藤神社宮司による神事の後、櫓に火が入れられた。たちまち櫓は燃え上がり、松飾りや注連飾りが燃える炎とともにお迎えした歳神様が天空へと昇って行く。毎年のことながら感動を覚える一瞬だ。


加藤神社宮司により神事がとり行われる。


壺川小学校の生徒による玉串奉奠


組まれた櫓に火入れが始まる


あっという間に櫓が燃え上がる

初詣と松囃子

2025-01-05 19:15:59 | 日本文化
 今日5日は例年どおり、藤崎八旛宮に初詣に行った。毎年5日と決めているのはこの日「松囃子」が行われるから。参拝と「松囃子」を合わせて初詣と自分で決めている。拝殿に詣でた後、武内社を始め摂社・末社すべてをお詣りした。
 「松囃子」では金春流と喜多流によって舞囃子などが演じられたが、喜多流の狩野了一さんによる「東北(とうぼく)」が一番印象深かった。昨年の松囃子でもたしか狩野祐一さんが「東北」を舞われたが、藤崎八旛宮での松囃子では喜多流は「東北」を舞うことになっているのだそうな。「東北」は昨年の大河ドラマ「光る君へ」にも登場した和泉式部の霊が登場する能。


わが家の氏神 藤崎八旛宮への初詣


例年三が日を過ぎると参拝客は少なくなったが、今日は日曜日とあって賑わっていた。


松囃子「舞囃子 東北」喜多流能楽師 狩野了一さん

今年忘れられない話(2) ~農兵節~

2024-12-14 13:47:47 | 日本文化
 7月24日に他界された民謡歌手の水野詩都子さんは、日々の出来事や思いなどを「詩暦(うたごよみ)」というタイトルのブログで語っておられました。
 そのブログの最後の記事が静岡県の民謡「農兵節」についてでした。YouTubeの東海風流チャンネルvol.68にアップされている「農兵節」を聞きながら、民謡歌手としての心構えを述べておられるブログを読み直しました。水野さんの表現者としての姿勢や人となりがしみじみと伝わってきます。
 あらためて民謡を通じて私たちに音楽の愉しみを届けていただいたことに心から感謝を申し上げます。

▼水野詩都子さんのブログ「詩暦(うたごよみ)」(2024.7.11)より
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 今月の「東海風流チャンネル」は静岡県の「農兵節」ですm(__)m
 実演家の私達は曲の成り立ちについてよく考えなくてはなりませんし、それに見合った表現が必要になることが必須ではあります。
 ただ、成り立ちに囚われるあまり、自分の凝り固まった表現やカラーに縛られ、伸びやかな民の唄の魅力を伝えることを忘れてしまうことがあります。何事も頃合いが大切。お勉強ではなく、伝えていくことの楽しさと喜びを忘れずにいたいと思いますm(__)m

 今回の「東海風流チャンネル」は静岡県の民謡「農兵節」をお届け致します。
 一説に、幕末頃、横浜野毛山下で行われた軍事訓練の様子を唄った「野毛山節」の替歌で、明治になってから三島の花柳界で流行り、全国に宣伝した曲と言われています。
 演奏開始は03分25秒頃からとなります。

東海風流チャンネルvol.68「農兵節」編
動画へのリンク:https://www.youtube.com/watch?v=tzOXBKiTh4I
からご覧頂けます。御覧頂けたら幸いです。
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今年忘れられない話(1) ~受け念仏~

2024-12-13 20:13:55 | 日本文化
 今年聞いた話の中で最も印象深かった話はなんだろうと考えたとき、まず頭に浮かんだのは「受け念仏」の話だった。
 今年、父の二十五回忌を迎えた。命日の5月19日にはわが家に近親者のみ集まってささやかな法要を営んだ。最後に菩提寺ご住職から次のような法話があった。

――私の恩師がアメリカのシアトルに招かれて広島県出身の信徒に法話をされたことがあります。その時、今日、日本ではほとんど行われなくなった「受け念仏」が300人以上の信徒によって行われ、感動的だったそうです。「受け念仏」とは、説教者のお話の中で、聴き手が「いいお話をいただいた」と感じた時はその都度手を合わせ「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と唱えることです。その信徒たちは広島県からアメリカに移民として渡った人たちの三世・四世の人たちで、父母や祖父母などからそうするように教わって育ったそうです。日本では既に廃れてしまった宗教的風習が、遠く離れたアメリカの地に残っていたことに恩師は感銘を受けたそうです。――

 故郷から遠く離れたアメリカの地に渡り、おそらく筆舌に尽くしがたい苦労を重ねて今日を築いて来られた広島県出身の方々に、昔の日本人の風習が脈々と息づいていることに感動を覚える。
 ちなみに、今日、お笑いなどで「受けた」とか「受けない」などという「受け」の語源は「受け念仏」から来ているという。

明日は正月事始め

2024-12-12 20:22:31 | 日本文化
 明日12月13日は早くも正月事始め。毎年正月を迎えるための準備を始める日です。すす払い、松迎え(まつむかえ)、餅つきなどの準備を行い、年神様をお迎えする準備をします。松迎えとは縁起ものである正月用の飾松や門松を切りに行くことをいいます。松は常緑樹で樹齢も長いことから、古くから 「不老長寿」の象徴として縁起の良い木といわれており、また年神様の依代(よりしろ)とも考えられています。正月の門松・松飾りを立てておく期間のことを 「松の内」ともいいます。
 京都ではこの日、芸舞妓が芸事の師匠やなじみの店を回って、この1年のお礼や新年を迎える挨拶をする「事始め」の行事が年末の風物詩となっています。
 さまざまな松を謡い込んだ端唄「松づくし」で舞妓さんの舞はいかが。


サツマイモ & いも焼酎

2024-12-03 19:41:14 | 日本文化
 長嶺でパソコン教室を開いていた頃、習いに来ていたMさんにはいまだにお歳暮として阿蘇西原村産のサツマイモをいただく。ありがたいことだ。今では多くの自治体などで品種改良を重ねたブランドサツマイモが生産されているが、かつてはサツマイモが日本人の命を支えてきた。
 サツマイモとそれを原料とするいも焼酎のエピソードを二つ。

 父が天草の大矢野島(現在の上天草市)の上村小学校に赴任した昭和10年頃の様子を記した備忘録によれば、父が受け持ったクラスには40名ほどの生徒がいたが、その4分の3が、弁当に「かんちょ(上天草の言葉でさつま芋のこと)」を持ってきていたと記されている。当時の天草は貧しい地域で、「口減らし」として子守奉公に出されたり、「からゆきさん」として売られていく少女たちもいたという。「かんちょ」は貧しく哀しい当時の人々の生活の象徴だったのである。

 今でもサツマイモの生産量は鹿児島県が1位だそうである。その生産量の30%ほどが焼酎の原料になっているという。
 今から56年ほども前のこと、僕は仕事で南九州を車で巡る旅をした。水俣・出水を経て霧島の方へ進むと、大口を過ぎたあたりで日が暮れた。川内川沿いに菱刈温泉という小さな温泉場があったので、一軒の古い旅館に泊まることにした。夕食も終わり、温泉で疲れを癒した後、さて就寝しようとしたのだが、別の部屋で行われている宴会の歌声や手拍子、そして小さな旅館内に、燗したいも焼酎の匂いが充満してとても眠れる状態ではなかった。当時は僕は焼酎は一切口にしたことがなく、いも焼酎の匂いがキツかった。やがて「鹿児島おはら節」を唄い始め、宴会はますます盛り上がった。そのうち酔っぱらった人が僕の部屋に転がり込んできたりして、とても寝ていられる状態ではなくなった。やむなく何度も風呂に退避するしかなかった。とんだ菱刈温泉の夜の思い出である。