徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

今日、熊本城で思ったこと

2023-08-31 23:20:32 | 熊本
 今日は午前10時ごろには雨も止んだのでしばらく控えていた散歩をしようと熊本城へ出かけた。平日なので土日祝日に比べれば観光客ははるかに少なかったが、二の丸広場や加藤神社を回る間に何組もの観光客とすれ違った。日本人、外国人半々といった印象だった。
 熊本城を見に来てくださる観光客の皆さんはありがたいのだが、何だか申しわけないような気がしてならなかった。天守閣の遠望は下の写真のとおりだし、お金を払って特別公開コースに入場しても限られたコースしか通れない。大天守には上れるけれど本丸御殿には入れない。熊本地震前「行ってよかったお城」のナンバーワンに評価された頃と比較すると・・・。観光客の皆さんに自信をもって案内できる日が来るのはいつのことだろう。


今日の一・二・三天守の遠望(二の丸広場より)


熊本地震の半年前の一・二・三天守の遠望(二の丸広場より)


本丸御殿で最も格式の高い「昭君之間」※現在入場不可

シーズンごとに開催されていた本丸御殿大広間での宴

When I'm Seventy-Seven

2023-08-30 22:10:26 | 音楽芸能
 先日、熊日新聞に「熊日金婚夫婦表彰」の記事が載った。県内で2500組に近い夫婦の名が掲載されていた。そういえばウチも今年50年だったなと思い出し、掲載された夫婦の名はどうやって調べたんだろうと思って、熊日に問い合わせてみた。なんでも7月ごろ募集記事を載せていたらしいが全然記憶にないので見落としたのだろう。
 それはさておき、毎年、結婚記念日になると思い出すのが、ビートルズの「When I'm Sixty-Four」という歌。僕がまだ学生時代に好きだった歌で、若者が「僕が64になっても愛していてくれるかい」と恋人に問いかけるラブソングだ。僕も妻もとっくに64を過ぎてしまったが、この歌に込められた若々しい感性をいつまでも失いたくないものだ。
 一方では最近「When I Grow Too Old To Dream」の心境である。「夢を見るにはトシをとりすぎた」とでも訳したらいいだろうか。リタイアした時、あんなことをやってみたい、こんなこともやってみたいという夢があったはずなのだが、結局まだ何も実現していない。でも生きている限り夢を追い続けることが大事なんだろうな。

   When I'm Sixty-Four

   When I Grow Too Old To Dream

「高島節」異聞

2023-08-29 17:28:45 | 音楽芸能
 水野詩都子&﨑秀五郎コンビによる「しずごろう民謡わがままチャンネル」に新たにアップされた曲は長崎県民謡「高島節」。かつて長崎の離島炭鉱として栄えた島の民謡です。明治2年、佐賀藩とスコットランド人のグラバーとの共同出資で採掘が始まり、昭和61年に閉山するまで118年の長きにわたり日本の近代化に貢献し続けました。開業当初から炭鉱就労者の間で歌われていたといわれるのがこの「高島節」です。

 この「高島節」は民謡番組で紹介されることもありましたが、じっくり聴いたのはこの「しずごろうチャンネル」が初めてです。聴きながら、どこかで聴いたことがあるなぁという思いが湧いてきました。記憶の糸を手繰り寄せていくと「アッ!これは火の国育ちだッ!」と気が付きました。「火の国育ち」というのは昭和9年に作詞:野口雨情、作曲:大村能章という「五十四万石」の名コンビで作られた新民謡です。この年に伊藤久男の歌唱でレコードが発売されています。伊藤久男は「イヨマンテの夜」で知られた昭和時代の名歌手ですが、3年前のNHK朝ドラ「エール」で山崎育三郎が演じた「佐藤久志」なる人物のモデルが伊藤久男だったことが記憶に新しいと思います。
 「火の国育ち」はそれほどヒットしませんでしたが、元唄が「高島節」であった可能性は高いと思います。今の時代ならすぐに「パクリ」とか言ってSNSで話題になったかもしれませんが、大らかな時代だったのでしょうね。



頭がクラクラするような猛暑のバス停で

2023-08-28 20:19:04 | 音楽芸能
 今日は熊本市役所に母のマイナカードを代理受取りに行った。昨日から提出書類を揃えていたので登録はすぐに済んだが、しばらく待たされた後、受け渡しの窓口での年配の係員の説明が気に食わない。カードを保険証として使いたければスマホで何かのQRコードを読み取って認証手続きしてくださいと。しかもそれは本人しかできませんという。母はスマホなんか使えませんよと言うと、それじゃ誰かにやってもらってください、だと。いやしくも国の制度ですよ!そんないい加減なものなのかと段々腹が立ってきた。いずれカードが保険証と一本化するまで保険証として使う気などさらさらないがまだいろいろ問題が発生しそうだ。

 モヤモヤしたので市役所の14階に上って久しぶりに熊本城を眺めた。帰りにバス停に向かうとこれが日陰もなく尋常じゃない暑さ。予定時刻になってもバスは来ず、頭がクラクラしてきた。そんな時決まって思い浮かぶメロディは二つ。レイ・チャールズの「In the Heat of the Night」とラヴィン・スプーンフルの「Summer in the City」である。






マイ ミックスリスト

2023-08-26 22:21:32 | 音楽芸能
 YouTubeで動画を見ていると右側の列に関連する動画のサムネイルがズラッと表示される。その中に「マイ ミックスリスト」というのが混じっている。自分がこれまでどんな動画を見たのかをまとめたものだろうが、今までこれをクリックして確認してみようとは一度も思わなかった。たまたま今日、何の気なしにクリックしてみた。するとリストの頭から再生が始まると同時にその右側にリストが表示される。そのリストを上から順に見て行くと、ふだん自分がどんな動画を見ているか傾向がわかって面白い。上から15曲を下に表示してみた。
 そして今日の「マイ ミックスリスト」の中から再生してみたのがニューオリンズ・ストンパーズの「On The Sunny Side Of The Street 」。




On The Sunny Side Of The Street - New Orleans Stompers

京町濱田屋はどこ?(3)

2023-08-25 21:51:54 | 歴史
 2年ほど前、ブログ「津々堂のたわごと日録」さんが、旧熊本藩士吉田如雪が書き残した「明治十年日記」の中の、熊本城天守閣が炎上した明治10年2月19日の日記に「朝飯後四時過京町濱田屋ノ湯ニ行ク」と記された「京町濱田屋」とはいったいどこにあったのかが不明というブログ記事を投稿された。京町で生まれ育った僕としては明らかにしておきたいと思い、以来、古くからの京町住人で僕らよりも年長の方々に尋ねたり、史料がどこかに残っていないか探してみたりした。しかし、年長者でも僕らよりひと回り上くらいになるとご存命の方は限られており、史料もいまだ見出せず、京町濱田屋の位置を特定するまでには至っていない。
 これまでにわかったことを整理してみると、
  • 「濱田屋ノ湯」とあるが必ずしも風呂屋とは限らないこと。
  • 吉田如雪が天守閣炎上を目撃したのは濱田屋の三階と書かれており、濱田屋は宿屋、料亭もしくは妓楼ではないかと想像されること。
  • 京町遊郭が兵火で焼失した後、二本木に新たに遊郭が設置されるに当り、真っ先に建設に着手したのが濱田屋という記録があり、これが京町濱田屋と同一経営者である可能性があり、京町濱田屋は妓楼だったのではないかと思われること。
  • 吉田如雪は京町濱田屋亭主と懇意であり、足繁く通っていたと思われ、濱田屋は吉田邸からそう遠くない距離にあったと思われること。
  • 京町本通りはかつて「二階町」と呼ばれて両側に二階建ての古い大きな町屋が並んでいたので、京町濱田屋は裏京町筋か京町遊郭の外れ辺りにあった可能性が高い。


    二階町の名残り「池田屋醸造」


     ここは、宇土小路から東に上る牛縊坂(うしくびりざか)と呼ばれた坂道で、旧国道3号線(豊前街道)と交差するクランク状の道の少し手前の地点。右方向が裏京町筋。前方の白いビルの辺りにかつて「菊乃湯」という風呂屋があり、道を挟んだ左側に竹屋旅館があった。
     下の地図は吉田如雪の「明治十年日記」に添えられた地図だが、右下の点線の〇印で囲った辺りに京町濱田屋があったのではないかと、現時点では推測している。今後も気長に調べて行きたい。

愉しみな「新日本風土記」2本

2023-08-23 23:00:20 | テレビ
 大好きなBSプレミアムの「新日本風土記」で近々愉しみな番組が2本放送される。
 1本目は8月29日(火)午後9:00放送の「越中八尾 風の盆」。これは2014年10月に初回放送のものをセレクションとして再放送するもの。
 「風の盆」は「新日本風土記」の前身である「新日本紀行」で1976年9月に放送された「おわら風の盆」の強い印象が残っている。この祭の存在もその番組で知った。
【NHK解説】
 人口2千人あまりの山間の町、富山市八尾町。立春から数えて二百十日にあたる9月1日、「風の盆」が始まると、町は3日間にわたり、民謡「越中おわら節」一色に染まる。人々はそのかなしげな調べに、人生の機微を映しながら生きてきた。今年最後のおわらに挑む踊り子。三味線に魅せられて70年の達人。長年連れ添った伴侶を失い、おわらの唄を聴いて思いをはせる女性。おわらとともに生きる人々を見つめる。


哀切に満ちた「越中おわら節」の音色に乗って踊り手の町流し


 2本目は9月12日(火)午後9:00放送の「うたう九州 長崎、佐賀、熊本の旅」。当初は7月18日に放送される予定だったが、九州北部豪雨災害のため延期されていたもの。やっと見ることができる。
【NHK解説】
 民謡、わらべ歌、歌謡曲、Jポップまで九州は「うた」の宝庫。異国情緒漂う長崎では「長崎は今日も雨だった」など数々のご当地ソングが生まれ、地元さだまさしの名曲に熱い思いを寄せる人々も。佐賀県からは、玄界灘でのクジラ漁黄金時代を伝える「鯨骨切り唄」。「五木の子守唄」や「おてもやん」など民謡が有名な熊本では、西南戦争の激戦を歌う「田原坂」が今も小中学校で歌い継がれる。風土と人が紡いできた歌をめぐる物語。

熊本民謡「田原坂」

盆踊り やがて寂しき・・・

2023-08-22 22:14:24 | 季節
 残暑と言うにはあまりにも猛烈な暑さが続く。それでも朝晩には秋を感じる瞬間がある。夏まつりのシーズンも終わりに近づき、わが町内の校区夏まつりも今週末に行われるが、それがシーズン最後になるのではないだろうか。他府県では「おわら風の盆」など9月のまつりもあるにはあるが。

 今年の夏はまつりやイベントには一切行かなかった。それでもゆく夏のメランコリックな気持には変わりがない。やっぱりユーミンの「晩夏」を聴きたくなった。

(竹中邦彦氏撮影)

幻の「海達公子物語」

2023-08-21 22:52:52 | 文芸
 明後日は大正から昭和初期にかけて天才少女詩人と謳われた海達公子の生誕107年に当たる日。わが母の高瀬高女の6年先輩になる。2017年に他界された規工川佑輔先生の「評伝 海達公子」に感動し、先生がたまたま僕が熊大附中を卒業する時、入れ替わりに赴任された先生だったこともあり、お願いして初めてお会いしたのは15年ほど前だった。以来、先生の玉名のご自宅を訪問したり、海達公子関連の行事にご一緒したりして先生の研究成果を聞くのが楽しみだった。そんなある日「評伝 海達公子」のテレビドラマ化に挑戦してみませんかと僕が持ちかけ、先生も過去に実際ラジオドラマ化の話があったそうで乗り気になられた。手始めに静止画を使ったショートムービーを試作し、松田真美さんのナマのナレーションで試写会をやったりした。そして脚本づくりに当っては玉名、荒尾そして徳島までロケハンに出かけ、いよいよ本格的な脚本づくりに取り掛かったのだが、頼りにしていた公子の高女時代の親友でもあった規工川先生の伯母さまが亡くなられ、そして規工川先生ご自身も帰らぬ人となられ、この計画は断念せざるを得なかった。
 下記は、未完成の脚本の一部で、児童文芸誌「赤い鳥」誌上で北原白秋の指導を受けていた公子が初めて白秋と対面する場面である。
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昭和三年七月 大牟田駅
駅舎の中に十人ほどの人が列車の到着を待っている。白い背広姿の与田(準一)と海達父娘が改札口のまん前に立っている。濛々と黒煙を吐き出しながら列車が入って来る。改札口にほど近いデッキから、男の子が小さな女の子の手を引いて降りてくる。北原白秋の長男隆太郎と長女篁子である。すぐ後ろから鞄を提げた白秋と妻菊子が続いて降りてくる。白秋はカンカン帽の下に涼しげな笑みを浮かべている。カメラのフラッシュが炊かれる。改札口に近付いた白秋が先乗りしていた書生の与田に気づく。白秋一家が改札口を出た時、与田がすっと近付き、白秋の鞄を受け取る。

与 田「お疲れ様でございました。奥様もお疲れになったでしょう!」
白 秋「おぅ、ご苦労!」
   与田は、横にいる海達父娘を紹介しようとする。すると新聞記者らしい男たちが三人、
   ずかずかと白秋の前に進む。
記 者「北原先生!お帰りなさいませ!今回のご滞在はいつまで・・・」
白 秋「どうもどうも、ちょっと待ってくれたまえ。」
   と軽く手を上げて記者を制した後、すぐに視線を海達父娘の方に向ける。
白 秋「やあ、やっと会えたね!」
松 一「お初にお目にかかります!いつもご指導を賜り感謝いたし・・・」
   白秋が言葉をさえぎるように
白 秋「堅苦しいことは・・・。」
   と言いながら、再び記者たちの方に視線を向け
白 秋「この子、私の弟子なんだよ!」
記 者「あゝ、そうでしたか。」
   白秋を中心とした集団がぞろぞろと駅舎の外に向かって歩き出す。
   駅舎の前には二台のセダンが待っている。


左から北原白秋、与田準一、海達公子

細川藤孝公

2023-08-20 19:47:51 | 歴史
 今日の津々堂のたわごと日録さんのブログに、今日は肥後細川家初代藤孝(幽斎)公の御命日であることが書かれていた。
 今日は清水の方に行く用事があったので帰りに立田自然公園(泰勝寺跡)に立ち寄って四つ御廟にお参りした。帰ろうとしたとき大勢の人たちが四つ御廟に入って来た。聞けば、今日が藤孝公のご命日ということで御廟の清掃に集まったボランティアの皆さんだという。蒸すような暑熱の中、奇特な方たちだなぁと思いながら、「ご苦労様!」と声を掛けて失礼した。
※写真は水前寺成趣園の藤孝公像



今日の四つ御廟。正面が細川藤孝公御廟


藤孝公ご命日ということで参集した御廟清掃のボランティアの皆さん


▼細川藤孝公 鞠生(まりふ)の浦で連歌の会を催す。 天正十五年(1587)七月

 この年7月、藤孝公は九州平定のために出陣した関白秀吉を福岡・筥崎宮に陣中見舞いした後、瀬戸内を船で帰る途中、西京と呼ばれた山口を見物し、萩往還を通って周防国府(現在の防府)に入った。この旅の様子は「九州道の記」に次のように記されている。

――十日、山口を出で、国府天神へ著きて、鞠生の浦近き田島迄、船のまはるを待ちて休み居たるに、當社の供僧圓楽坊、発句所望ありて、一面なりとも連ぬべしとて興業あり。入相の時分より初まりて、夜半過ぐるほどに百韻満じける。其時船著きたる由注進あり。天神の御計らひとて、衆徒喜ばれける。

 色わけよまつこそ風の手向け草

田島の港にて、鞠生の浦を見るに、網の多く掛け干してあれば、

 真砂地にあみ張り渡しもて遊ぶまりふの浦の風もたえつゝ ――

 乗船する船が田島の港に着くまで鞠生の浦で待機することになったが、国府天神(防府天満宮)の供僧の申し出で連歌の会を催し、せめて連歌懐紙の一面くらいは埋めたいと日暮から夜半過ぎまで続き、百句を連ねた頃、船がやって来た。藤孝公は相当名高い歌人だったため、旅の各地で歌を所望された。

現在の鞠生松原(かつての海岸線)

 今から45年前、僕が2年半暮らした山口県防府市。自宅のすぐそばに鞠生松原があった。この鞠生は昔の海岸線。干拓による新田開発が進められて今では海岸線はずっと南の方に移動したが、その名残りとして松原が残っている。田島の港も埋め立てられて今では宅地となっている。その一角にブリヂストン防府工場の青年会館が建てられた。

「みずあかり」から始まった

2023-08-19 23:35:43 | 熊本
 一昨日の熊日新聞の連載コラム「一筆」に古町案内人の瑠璃さんが、12年前の上村元三さん(上村元三商店店主)との出逢いとその後の交流をユーモラスに書いておられた。
 読みながら、僕もその頃から上村さんご夫妻に懇意にさせていただくようになったことを思い出した。そのきっかけは、2009年10月、熊本城周辺のイベント「みずあかり」を見に行った時、NTTビル前庭の特設舞台で見た少女舞踊団「ザ・わらべ」の不思議な世界に魅了されたことだった。どこのグループだろうと心あたりに問い合わせたりして調べまくったが全然わからない。そのうち彼女たちのことはすっかり忘れていた。翌年、夏も近づいてきた頃、急に思い出してインターネットで情報検索していたら、偶然、上村元三さんのブログに行き当たった。いきなり電話をかけておたずねしてみると、なんと「ザ・わらべ」の一員、あやのさんのお父様だった。どこの馬の骨かもわからない僕に親切に対応していただき、8月に古町の普賢寺で「城華まつり」というイベントが行われ、「ザ・わらべ」も出演するのでどうぞいらっしゃいとご案内をいただいた。その当日、2010年8月8日に初めて元三さんにお会いした。2017年暮れに他界されたお父上の新様にもその時初めてご挨拶したことを憶えている。その時から僕の「ザ・わらべ」サポーター歴が始まったが、上村さんご夫妻にはご懇切なおこころ配りをいただくことになった。


かつての上村元三商店(2013年5月の改装時)

2010年8月8日の「城華まつり」(古桶屋町・普賢寺)

今年の山鹿灯籠まつり

2023-08-18 21:53:06 | イベント
 4年ぶりの通常開催となった山鹿灯籠まつり。久しぶりに見られると思っていたのだが8月初めの義兄の他界。服喪中なので今年も断念した。するとFB友の竹中邦彦さんが動画を撮影して送ってくださった。ありがたい。映像はおまつり広場や山鹿温泉さくら湯の前で行われた「流し踊り」の風景。「千人灯籠踊り」もいいが僕は「流し踊り」の方が地方の音色とともに風情を感じて好きだ。
 このまつりは古墳時代、景行天皇の筑紫(九州)巡幸に由来を持つ。天皇一行が有明海から玉名に上陸し山鹿方面を目指したものの濃霧が立ち込めて立ち往生していたところ、里人が松明を掲げて一行を迎え、山鹿の地へ導いたという。その松明が灯籠に形を変えて今日に伝わったという説がある。つまりそもそも道中踊りこそこのまつりにふさわしいともいえる。
 竹中さんは現在四国にお住まいだが大学の4年間を熊本で過ごされた方で、彼の大学時代の教授をたまたま僕が存じ上げていた縁で交流が始まった。


漱石俳句あれこれ

2023-08-17 18:20:02 | 文芸
 昨日も夕食後散歩へ。京陵中学校前の漱石記念緑道のベンチでひと休み。
 漱石句碑「すみれ程の小さき人に生れたし」を見るといつの間にかコスモスに覆われ、上半分しか読めない。もう季節は秋を感じる。
 この句と似たような自らを卑下するような句があったことを思い出し、家に帰ってから調べた。
それは
 「能もなき教師とならんあら涼し」という句だった。
 この句は漱石の熊本時代、漱石を主宰に寺田寅彦らが中心となっておこした俳句結社「紫溟吟社」が発行した俳誌「銀杏(いちょう)」に盛んに投句した井上微笑という俳人に宛てた漱石の手紙の中に書かれたものという。日付が明治36年6月17日というから、漱石がロンドン留学から帰国して半年足らず、東京帝大講師としての適性に疑問を感じていた頃と思われる。漱石の覚えめでたかった井上微笑という人は筑前秋月の生まれでこの手紙の当時は熊本県湯前村に住んでいたらしい。漱石の手紙にはこんな句も書かれていたという。
 「蝙蝠(かわほり)に近し小鍛冶が槌の音
 これは謡曲をお題とした漱石の句の一つで、「蝙蝠」は夏の季語で、こうもりが飛んでくるような夏の夕暮れに、鍛冶屋の槌音が響き渡っているという夏の風情を詠んだのだろう。
 今年の正月、Eテレで放送された喜多流の「能 小鍛冶」を録画していたことを思い出し、再見してみようと思った。 


京陵中学校前。漱石句碑



喜多流「能 小鍛冶」より。後シテ稲荷明神の香川靖嗣さんとワキ宗近の飯冨雅介さん

盆の終わり

2023-08-15 07:12:56 | 鎮魂
 昨日までと打って変わって今日は風がありだいぶ過ごしやすかった。しばらく散歩をしていなかったので、夕方食事を済ませてから歩いて二の丸公園へと向かった。新堀橋近くに差し掛かると西の空が開け、あかね空に金峰山が見えた。明日でお盆も終わり。父や祖母や弟、そして先日他界した義兄たちも西方浄土へと帰って行くのだろう。思わず西の空へ向かって手を合わせ「また来年・・・」とつぶやいた。

 
 陽がすっかり沈んだ薄暮の中を歩いていると路傍のオシロイバナが開き始め芳香を放っていた。


 散歩から帰ると長崎の「精霊流し」風景を唄った「流れ灯」を聞きたくなった。


神楽坂まつり

2023-08-14 21:44:44 | イベント
 台風7号は徳島の阿波踊りに影響を及ぼしそうで心配だ。
 最近では日本各地のまつりがライブ配信されたり、すぐにYouTubeに投稿されたりでパソコンで見ることができるようになってありがたい。
 そんな中、今日、YouTubeで視聴したのは東京神楽坂で7月に行われた「神楽坂まつり・阿波踊り」の映像。学生時代、4年間通った市ヶ谷キャンパスから外堀を渡れば神楽坂で、よく名画座の映画を見に行ったものだ。当時から神楽坂料亭街は有名だったが、僕ら貧乏学生には縁がなかった。映画を見た後、風情のある石畳の小路や黒塀に囲まれた料亭の辺りをよく散策した。そんな思い出がある神楽坂のまつりなのだが、始まったのは僕が卒業してから数年後らしいので見たことはない。東京勤務の頃、高円寺の阿波踊りを一度見に行ったことがあり、予想を覆す本格的なまつりに驚いたことがある。今日、YouTubeで見た神楽坂の阿波踊りも負けず劣らず素晴らしいまつりだった。特に大人も子供も実に楽しそうに踊る姿に感動した。考えてみれば江戸芸の本場。まさに芸どころであり、東京の底力を如実に感じた。余談だが熊本の「火の国まつり」なども在り方を考え直したほうがいいのではないだろうか。




神楽坂 かくれんぼ横丁