徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

舞踊団花童 特別公演 絶賛上演中!

2015-07-31 22:30:25 | イベント
 舞踊団花童が出演する城彩苑湧々座の特別公演が行われています。スケジュールは下表のとおり、来年3月まで毎週行われます。
 この機会に彼女たちの弛まぬ稽古の成果をぜひご覧ください。
 なお、入館料の他、観覧料大人1000円、子供500円が必要です。全館自由席。
 毎回、17:15開場17:30開演(約40分の舞台です)

▼いずれもクリック拡大してご覧ください












インターハイ陸上を見ながら

2015-07-30 20:00:12 | スポーツ一般
 昨日から始まったインターハイ陸上の2日目。今日は注目の男女100mが行われた。男子は熊本勢の出場はなく、女子は宮崎亜美香(必由館高)ただ一人の出場。熊本では実力ナンバーワンの彼女が全国レベルの大会でどこまで進めるか注目した。予選は通過したものの準決勝で敗退した。彼女は明後日の200mはもっとチャンスがあると思うし、まだ2年生。来年のためにも良い経験を積んでほしい。結局、エドバー・イヨバ(東京高)が11秒72の自己ベストでインターハイ2連覇を果たした。しかし、野林祐実さん(立命館大)は中学3年で国体100mに優勝した時のタイムが11秒73、高校2年の時には、インターハイの100m・200mの二冠に輝いたことを考えると、野林さんって強かったんだなぁとあらためて思う。


女子100m準決勝3組。左端が宮崎亜美香(必由館高)


 さらに思いはこのレースに出られなかった選手たちのことへ。短距離選手は瞬間的に最大限のパワーを発揮しなければならず、足に想像以上の負荷がかかり、怪我が多い。男子の桐生祥秀も右大腿後部肉離れで8月の世界陸上を辞退したが、前述の野林さんもずっと足の故障に悩まされ伸び悩んでいる。また、熊本では北川愛菜(熊本学園大付)や深川恵充(八代東)など、他に抜きんでる素質がありながら、足の怪我のため、不本意な高校時代を過ごしている。短距離選手にとって足の怪我は厄介で、完治しても不安感から全力で走れなくなることも多々あるそうで、しかも再発の危険性も常に孕んでいるわけだ。

 
北川愛菜さん(左)と深川恵充さん

国立劇場で・・・

2015-07-29 21:10:21 | 音楽芸能
 舞踊団花童が念願の東京・国立劇場デビューを果たす舞台のプログラムを、ザ・わらべの一人文乃ちゃんのお母さんから見せていただいた。花童の出番は5回。そのうち唯一熊本関連の演目が「とうろう~山鹿よへほ節によせて~」。これは、彼女たちのレパートリーの一つでもある「山鹿湯籠踊り」の特別バージョンのようだ。この曲は、もともと本條流家元の本條秀太郎さんが、山鹿の古謡を集め、自らが提唱する俚奏楽として編曲したもの。今回はどういうアレンジになっているのか注目だ。
 というわけで、2年前、ザ・わらべが山鹿さくら湯の池の間で踊った映像をリマスターして再度アップしてみた。

■第50回 本條流三味線東京公演 本條會
     ~やさしい国に凄んで候~
 
   と き:9月5日(土)
   ところ:国立劇場大劇場 



夏休みの想い出 ~ 菊池川の風景 ~

2015-07-28 20:04:34 | 
 子どもたちは今、夏休みの真っ盛り。僕の子どもの頃の夏休みといえば、真っ先に思い出すのは、母の実家、玉名市大浜町の菊池川で過ごした日々のことである。午前中から熱く灼けた川砂の道を裸足で走って行ったものだ。川風に乗って渡ってくる潮の香りがなんともかぐわしかった。河口に近く、いわゆる「汽水域」で淡水と海水が混ざり合っていた。潮が引くと大きな砂浜が姿を現し、僕らはカニや小魚と戯れ、日がな一日そこで過ごした。結局、僕が泳ぎを覚えたのも菊池川だった。
 下の写真は3年前に他界されたわが家の家庭医、河野龍巳先生からいただいたもので、昭和30年頃の大浜橋付近・菊池川左岸の風景だが、当時は写真のような洗い場がいくつもあった。今では砂利採取や護岸工事によって、菊池川の姿は一変し、写真のような風景を見ることはできない。さびしいかぎりだ。


初公開! 「 檜垣水汲みをどり 」

2015-07-27 19:30:27 | 音楽芸能
 この映像は2年前の4月6日、熊本城本丸御殿で行われた中村花誠さん演出による「くまもとをどり2013」の中の一曲「檜垣水汲み踊り」である。立方は城北高校ダンス部、地方は錚々たる顔ぶれの在熊邦楽家の皆さんである。本来であれば二の丸広場の特設ステージで演じられるはずだったが、あいにくの雨のため、急遽、本丸御殿に会場を移して行われたもの。広い特設ステージを想定した振付は、立方の城北高校の皆さんがやや窮屈そうなのもやむをえない。しかし、これまで行われた「くまもとをどり」の数々の演目の中でも、舞踊・演奏を含め、完成度の高い屈指の名舞台であったことは間違いない。
 実は、この映像は事情があってこれまで公開していなかった。従って今回初めて公開するもの。

 この歌を作られた杵屋六花登さんとは何度かお目にかかったが、詩の意味についてお伺いしたことはない。そこで、浅学な僕が不遜にも解説を加えてみた。まるでヨルタモリの国文学者・李澤京平教授よろしく珍妙な解説はご容赦を。

 まず、この歌は平安時代中期の女流歌人・檜垣嫗(ひがきのおうな)が零落し、肥後の国白川の辺に草庵を結んでいた頃を歌ったものであるということ。
 前段は、信仰篤い金峰山西麓の岩戸観音に閼伽の水を供えるため、四里の山道を日参した姿を歌っている。
 「くむとも」の「くむ」には水を汲むという意味と物事の趣を味わうという二つの意味が込められている。水も、和歌(三十一文字)に託した趣も尽きることはなく、来る日も来る日も岩戸観音様へお供えしている。しかし、道は遠く、まだまだ最難関のこぼし坂に差し掛かったところ。岩戸観音に日参する檜垣のひたむきさと健気さはまるで少女のように可愛らしい。
 後段の「白川の底の水ひて塵立たむ 時にぞ君を思い忘れん」。
 これは、肥後国司を務めた清原元輔が帰京する時、檜垣が惜別の歌として詠んだとされる歌で「白川の水が涸れてしまっても、けっしてあなたを忘れることはありません」という意味で、檜垣の深い愛が歌われている。
 お帰りになる都はきっと今ごろは桜の季節。桜も、朝露も、ゆく雲も、みな儚いもので、すぐに消え去ってしまうものですが、あなたとの深い縁はいついつまでも消えることはありません。

 てなもんでいかがでしょうか?
※上の写真は檜垣のこぼし坂から望む有明海



“ ほめく ” 一日

2015-07-25 20:48:30 | 熊本
 今日は今年一番(?)の猛烈に暑い一日だった。孫のてっぺいの8歳の誕生日なので、例年だと久留米までお祝いをしに出かけるのだが、今年はなんと昨日から家族で大阪のUSJに出かけたというのでお祝いを送ることにした。
 午後から、先日熊大病院で手術を受けた従弟を見舞いに、姉と妹と三人で出かけた。まぁ外の暑いこと暑いこと!思わず「ほめく」という言葉が口をついて出た。以前にもこのブログで話題にしたことがあるが、この「ほめく」という言葉、祖母がよく使っていた。祖母は高血圧だったから、人並み以上に暑さはつらかったのだろう。この「ほめく」という言葉は今ではほとんど聞くことがない。僕は子供の頃、この「ほめく」という言葉は熊本弁だと思っていた。ところが、国語辞典にもちゃんと載っていて「ほてる」とか「熱くなる」という意味だとある。ちなみに「江戸東京下町文化研究会」のサイトに江戸言葉が紹介されているが、その中に「ほめきざかり(熱盛)…思春期、色気盛り」とあった。粋な表現だ。


熊大病院東病棟の8階から眺めた今日の“ほめく”熊本の街

頓写会 ~本妙寺が最も繁盛する日~

2015-07-24 07:31:25 | イベント

出店が並ぶ門前町の人混みを抜け仁王門へ登る


塔頭が並ぶ参道も出店が並び、混雑はさらにひどくなる


やっとの思いで辿り着いた万灯が並ぶ大本堂で参拝


さらに胸突雁木を登って浄池廟へ向かう


加藤清正公の法要が営まれる浄池廟拝殿はすでに長蛇の列


拝殿の回りで法要を見守る人々


浄池廟本殿で参拝を済ませる


御宿廣嶋屋は大盛況

小泉八雲 「青柳のはなし」

2015-07-22 17:01:50 | 文芸
 NHK-Eテレの「100分de名著」は現在、小泉八雲の「日本の面影」を取り上げていて、今夜がいよいよ最終回の4回目となる。
 八雲が日本へやって来たのは明治23年(1890)、39歳の時だった。横浜港に降り立ち、咲き乱れる日本の桜を初めて目の当たりにした時の思い出を次のように書いている。

――この神々の国では樹木は人間から大切に育てられかわいがられてきたので、木にも魂が宿り愛される女のように、樹木はさらに美しさを増して人間への感謝を示そうとするのであろうか――

 この番組の指南役である早稲田大学教授、池田雅之氏は、八雲はアイルランド人の父とギリシャ人の母という血筋から、アニミズム(生物・無機物を問わず万物に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方)の感性が備わっていたのではないかという。
 
 八雲が来日早々感じとった、木々にも魂が宿るという考え方は古より日本にあり、能や歌舞伎舞踊など古典芸能の格好の題材となっている。
 八雲の代表作となる短編集「怪談」に収録されている「青柳のはなし」もまさにそんな一編である。






海達公子が育った街 荒尾市万田

2015-07-21 16:23:02 | 文芸
 昨日、「評伝 海達公子」の著者で、海達公子研究の第一人者、規工川祐輔先生をご自宅にお見舞いした。先生は奥様の介護が欠かせない状態のため、お会いすることもほとんどなくなったが、来年予定されている荒尾市海達公子顕彰会の海達公子生誕百年祭にはなんとか出席していただきたいと願っている。
 規工川先生の永年のフィールドワークにより、今日では海達公子のルーツや生い立ち、そして彼女の作品群が発掘され、われわれがその恩恵に浴しているわけだが、彼女にまつわる三つの地点の謎を解き明かしたのも規工川先生である。「評伝 海達公子」の中で、この一見何のかかわりもなさそうな出生地、本籍地、生活地が見事につながっていくところは、まるで松本清張の小説を読んでいるかのような面白さがある。
 現在、荒尾市は万田坑の世界文化遺産登録で沸き立っているが、万田坑の従業員の子として幼い頃を過ごした海達公子についても、併せて記念館建設が実現し、規工川先生の膨大な研究資料も一般公開されることを願ってやまない。

▼公子が生まれた長野県飯田市の風景(門脇俊照様撮影)


▼公子の両親のふるさと、旧阿部村(現徳島県美波町)の浜(海司広幸様撮影)


▼小学校時代を過ごした荒尾市万田の家近くにある厳島神社

セイショコさんの遺徳

2015-07-20 15:02:42 | 歴史
 今週木曜23日は加藤清正公の御逮夜、菩提寺本妙寺では頓写会が行われる。また、この日およびその前後には生誕地の名古屋や肥後飛び地の大分市の鶴崎、嗣子忠廣公配流地の山形県鶴岡など、全国の清正公ゆかりの地で追悼行事が行われる。
 3年前、知人が鶴岡を旅して帰ってからの第一声が「鶴岡の人々の清正公に対する尊崇の念の篤さに忸怩たる思いだった」ということだった。それと前後して鶴岡を訪問した加藤神社氏子会のメンバーの人も全く同じことを口にした。また、日頃、大分から舞踊団花童の舞台を見に来ていただいている栗田さんによれば、頓写会と同じ日に行われる鶴崎の「清正公二十三夜祭」もなかなか盛大に行われるそうである。
 日頃「セイショコさんのさしたこつ」などと言って口では称えているが、はたして自分はどれだけ深い敬虔の念があるのだろうか。大いに反省である。

▼知人が持ち帰った山形県鶴岡市のパンフレット(クリック拡大してご覧ください)





▼長唄「加藤清正公」



▼創作舞踊「熊本城清正の春 肥後春想」

ウナギにまつわるトラウマ

2015-07-19 21:25:26 | 
 今週金曜日の7月24日は「土用の丑(うし)の日」。先日もある番組で「土用の丑の日」は江戸時代中期に、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋が、平賀源内に頼んで作ってもらったキャッチコピーに過ぎず、ウナギ自体は秋が旬だという話題を取り上げていた。
 そのニホンウナギは今や絶滅危惧種。ウナギの稚魚(シラス)は近年、日本近海での漁獲高が激減、半数以上が中国や台湾など海外からの輸入ものだ。いずれシラスの取引も禁止されれば、天然ものは口に入らなくなるという。
 それも困ったことだが、僕はシラスにまつわる苦い想い出がある。僕がまだ会社員になったばかりの1971年、玉名に建設していた工場がまもなく操業を開始するという3月下旬、集中豪雨に見舞われた。その豪雨は完成間近の新工場にとんでもない事故をもたらした。重油タンクの送油機構がダメージを受け、重油を大量に菊池川に流出させたのだった。事故発生が夕方だったのですぐに暗くなり、被害の実態を確認できなかったが、川にオイルフェンスを張るなどの応急処置が行われた。翌朝になって唖然。流出口から河口付近まで、両岸とも真っ黒い重油でベッタリと覆い尽くされていた。それからは操業開始を延期し、従業員総出で中和剤を使っての河岸清掃の日々が始まった。一方では直接の被害者である漁業関係団体との補償交渉が始まった。中でも深刻だったのは養鰻組合。シラスが壊滅的な被害を受けていた。養鰻組合からの要求は金銭的な補償に加え、シラスの現物補償。総務部門にいた僕は上司とともにシラスの買い付けに仲買業者を走り回る羽目となったのである。車を運転しながら「いったい僕は何をしてるんだろう…」と思ったものだ。あれから44年、今でもシラスという言葉を聞くと敏感に反応する僕なのである。

菊池川

水練場めぐり(1) ~白川天神淵~

2015-07-18 16:43:16 | 歴史
 熊本で水泳に関わった一人として、熊本の水練の歴史くらいは知っておかなくてはと、かつての水練場をめぐってみることにした。旧藩時代、白川だけでも10ヶ所以上の水練場があったといわれるが、今日はその1回目として「白川天神淵」を見に行く。「天神淵」の名のとおり、渡鹿の菅原神社に近いのでこの名がついた。ここは、土木治水の神様といわれた加藤清正が、出水、画図、春竹、田迎、世安方面に水田の農業用水を引くため、慶長11~13年(1606~08年)にかけて築造した渡鹿堰(とろくぜき)のすぐそば。ただ、河川改修等により、往時の水練場の正確な位置はわからなくなっているようだ。熊本藩における小堀流踏水術の歴史の初期から使われた由緒ある水練場であったことは間違いない。熊本市のホームページには次のように記載されている。

▼県指定無形文化財・小堀流踏水術(熊本市HPより)
 熊本で発祥し今日まで伝習されている游泳術である。宝永年間(1700年頃)村岡伊太夫は一流をたて白川天神淵で上士の游の指導にあたった。その子小堀長順は游の師範となり、父から受け継いだ游が後世に正しく伝えられるようにと宝暦6年(1756年)「踏水訣」を著わし「水馬千金篇」とともに宝暦8年に出版した。これらは我国の水泳書籍としては最初の刊行物である。後に「水練早合点」も出版された。5代師範小堀水翁は游の名称を確立して、游の心がけと心の修養を「水学行動10ヶ条」に著わした。熊本県下や各地に稽古場を置き門弟は1万人にも達した。明治維新後東京学習院、京都、長崎にも伝えられ現在も行われている。手繰游を基本とし、立游を特徴とする。足撃、手繰游、早抜游、立游、潜游、浮身、御前游、抜手游、浮游、水書、甲冑御前游、水剣、水銃、水弓などがある。


菅原神社参道


菅原神社境内


由緒書


菅原神社裏の淵



ガラシャ忌

2015-07-17 10:19:58 | 歴史
▼細川ガラシャ夫人御廟(泰勝寺跡)


 関ヶ原の戦い前夜の慶長5年7月17日、大坂玉造の細川屋敷で38年の生涯を終えてから415年。今日はガラシャ夫人の415回忌である。
 先日、数年ぶりに吉川英治の「名婦伝・細川ガラシャ夫人」を読んで、ひとつ気付いたことがあった。それは下記のエピローグの一節。これはまるで、昨年、舞踊団花童の中村花誠さんがプロデュースされた舞踊「細川ガラシャ」のイントロなのではないかと。花誠さんご自身もおっしゃっているように舞踊「細川ガラシャ」は夢幻能を強く意識した演出になっている。つまり、忠興の追憶の中の美しいガラシャを描いているのである。そう思って再び読み直してみると、能管のヒシギにも似た吉川万里さんの鋭いケーナの響きで始まるオープニングに見事につながるのである。

 関ヶ原の戦後、功によって細川忠興は、豊前小倉の太守に封ぜられたが、家康が基督教に対して弾圧政治を布いた後も、その小倉では、なお幾つもの礼拝堂が黙認されていた。
 そこの小さい教会の一つでは、毎年、七月十六日の夕方から、美しい花と灯とを聖壇に飾って、ガラシヤ祭を催した。
 美剣を吊るし、胸に十字架をかけた太守が、その夕方にはきっと、祭壇の前に現われた。そして附近の汚い老媼や、潮臭い漁師の子らが、菓子をもらうため、太守のまわりに蠅のようにたかって来ても、太守はうるさいとも無礼だとも咎めなかった。そして祈祷がすむと、黙々と、供の列や塗駕籠の待っている海辺の松並木まで、在りし日の人を胸に思いながら歩いて帰ることも極っていた。
 ――何ともいえない淋しさと、追憶の美しさに耽りながら。

▼舞踊「細川ガラシャ」



▼作曲・演奏のビエント(Viento)