今日は弟夫婦の還暦祝いを、義弟(妹の夫)が自宅の庭に作った石窯の完成披露を兼ねて、ピザパーティーをやろうということで、玉名まで出かけた。とてもコンパクトな作りだが、家庭用としては十分過ぎるくらいだ。パーティーを始める前に早速焼いて試食。なかなか美味である。まだ11時前で、おなかもまだすいていないはずなのに皆、食べる食べる。肝心のパーティーでは、それとは別にバーベキューやちゃんちゃん焼きも用意されていたが、今日ばかりはピザの味にはかなわなかった。
ワールドシリーズ第2戦の録画放送を見ながら、いろいろ考えた。松井には活躍してほしいし、今日もホームランを打ったのでよかったが、もともと“くたばれ!ヤンキース”派なので、勝敗はどうでもよい。あと最大で5試合残っているが、松井が活躍すると彼の去就がますます微妙になるなぁ。ヤンキース首脳も悩ましかろう。それにしても今日のホームラン、簡単に打てそうな球を二つも見逃しておいて、その後のクソボールを打つという曲芸的なバッティング。不思議な男だ。見ていてどうもフィリーズの方が魅力的な選手が多い。特に、昨日、サバシアから2本ホームランを打ったアトリー、そしてヴィクトリーノ、イバニエス。イバニエスなんか、マリナーズの時にもっと活躍しといてくれよ!と言いたくもなる。そう言えば、カルロス・ギーエンなんかもマリナーズからタイガースに移籍してからエライ打つようになった。イチローさんもあまり仲間に恵まれない人なのかな。今日のフィリーズの先取点のタイムリーを打ったのは、なんと昔、中日にいたステアーズじゃないか。DHで出てきた時、誰だ、この50がらみのオッサンは、と思った。いったい今いくつなんだろう。誰も言わないが、ヤンキースのジーターは、現役時代の長嶋茂雄さんにとてもよく似ている瞬間がある。僕の気のせいだろうか。
最近の日本映画を見ていると、ファンとしてとても不満なことがある。それは映画を作る姿勢が、とても安易に見えるのだ。芸人やタレント(しかも二流の)を、いとも簡単に監督にして映画を作ったりしている。彼らが全て才能がないとは言わないが、それほど彼らのテレビ人気を利用したいのだろうか。ちょうど昨年の今頃、僕は映画「BALLAD」のボランティア・スタッフの仕事で、ある助監督さんと2週間をともにした。彼らは日々の撮影に追われ、渡り鳥のような生活を続けながら、自ら監督を務める日を夢見て、先輩たちから学びながら企画を練り続けている。そんな彼らをさしおいて、安直にタレントを監督に起用することは、決して日本映画の将来にためにならない、と強く思う。それとも、映画監督って誰にでもすぐにできるもんなの?
以前読んだ、名女優、高峰秀子の本の一節を載せてみた。
■高峰秀子著「わたしの渡世日記」より
昭和26年から30年までの5年間は、戦後の映画の優れた収穫期だった。映画人の情熱と誇りが噴火のように噴き出し、ほとばしり、きらめいて、演出家はもちろんのこと、映画にたずさわるすべての人間が、自分たちの仕事を競い合い、勉強し合い、優れた作品を生み出すために、過去の経験になお創意工夫をこらして働いていた。
昭和27年、黒澤明は「生きる」を発表し、溝口健二は、これも彼の生涯の傑作といわれた「西鶴一代女」を発表している。今井正は「山びこ学校」を、小津安二郎は「お茶漬の味」を、山本薩夫は「真空地帯」を、渋谷実は「本日休診」を発表した。
どの作品を見ても、優劣をつけがたい、はっきりとした個性に溢れた立派な作品ばかりだった。前の年、黒澤明の「羅生門」がヴェニス映画祭でグランプリを獲得し、映画人の眼がはじめて、「国外」に向けられると同時に、「ナニクソ、俺もやったろか!」という気概にあふれて、撮影所は活気に満ちていた。
昭和28年には、今井正が「にごりえ」、成瀬巳喜男が「あにいもうと」、溝口健二が「雨月物語」、小津安二郎が「東京物語」、豊田四郎が「雁」、五所平之助が「煙突の見える場所」、そして木下恵介が「日本の悲劇」を発表している。「雨月物語」はヴェニスで銀賞を獲得した。
昭和29年には、木下恵介が「二十四の瞳」と「女の園」、黒澤明が「七人の侍」、溝口健二が「山椒大夫」。そして30年には成瀬巳喜男の「浮雲」、今井正の「ここに泉あり」、黒澤明の「生きものの記録」などが発表されている。なんという優れた作品群の生まれた時代だろう。
私はこのような、作家と作家が自らの生命をぶつけ合うようにして作品を創りあげた時代に、俳優として生きたことを誇りと思い、また幸せだった、と思う。
以前読んだ、名女優、高峰秀子の本の一節を載せてみた。
■高峰秀子著「わたしの渡世日記」より
昭和26年から30年までの5年間は、戦後の映画の優れた収穫期だった。映画人の情熱と誇りが噴火のように噴き出し、ほとばしり、きらめいて、演出家はもちろんのこと、映画にたずさわるすべての人間が、自分たちの仕事を競い合い、勉強し合い、優れた作品を生み出すために、過去の経験になお創意工夫をこらして働いていた。
昭和27年、黒澤明は「生きる」を発表し、溝口健二は、これも彼の生涯の傑作といわれた「西鶴一代女」を発表している。今井正は「山びこ学校」を、小津安二郎は「お茶漬の味」を、山本薩夫は「真空地帯」を、渋谷実は「本日休診」を発表した。
どの作品を見ても、優劣をつけがたい、はっきりとした個性に溢れた立派な作品ばかりだった。前の年、黒澤明の「羅生門」がヴェニス映画祭でグランプリを獲得し、映画人の眼がはじめて、「国外」に向けられると同時に、「ナニクソ、俺もやったろか!」という気概にあふれて、撮影所は活気に満ちていた。
昭和28年には、今井正が「にごりえ」、成瀬巳喜男が「あにいもうと」、溝口健二が「雨月物語」、小津安二郎が「東京物語」、豊田四郎が「雁」、五所平之助が「煙突の見える場所」、そして木下恵介が「日本の悲劇」を発表している。「雨月物語」はヴェニスで銀賞を獲得した。
昭和29年には、木下恵介が「二十四の瞳」と「女の園」、黒澤明が「七人の侍」、溝口健二が「山椒大夫」。そして30年には成瀬巳喜男の「浮雲」、今井正の「ここに泉あり」、黒澤明の「生きものの記録」などが発表されている。なんという優れた作品群の生まれた時代だろう。
私はこのような、作家と作家が自らの生命をぶつけ合うようにして作品を創りあげた時代に、俳優として生きたことを誇りと思い、また幸せだった、と思う。
熊本市は今年、市制施行120周年。植木町、城南町との合併も決まり、平成24年4月には晴れて政令指定都市となる。熊本市の市政だより11月号には、120年の歩みを振り返る写真と年表が掲載された。その中から特に僕の記憶に残るものをピックアップしてみた。
■水前寺動物園
幼稚園から小学校時代にかけて、何度となく行った動物園。水前寺公園の中にあり、熊本の代表的な娯楽施設だったが、昭和44年、江津湖湖畔に熊本水辺動物園が開園したことにより、その歴史的役割を終えた。
■六・二六水害
昭和28年6月26日に白川などの河川が氾濫。大きな被害をもたらした。手取本町の市電通りも写真のような有様。右側の手前の建物が、洋画封切館の新世界(現在パルコ)、奥の建物が鶴屋デパート。
■熊本駅の昔の駅舎
昭和33年、濟々黌が春の選抜高校野球で優勝し、凱旋した時は、僕も出迎えに行ったが、この駅前広場が数万人の市民で埋め尽くされた。
■水前寺陸上競技場
現在もまだ現役として、陸上競技やサッカーの試合などに使われている。昭和35年の熊本国体ではメーン会場となった。隣接する水前寺球場は、僕は小学校時代、高校野球のシーズンになると弁当を持って通いつめたものだが、この国体に合わせて藤崎台に新球場が完成し、硬式野球の球場としての役割を終えた。
■熊本城再建
昭和35年、熊本城天守閣が再建された。それまで熊本城内は自由に出入りできたので、僕は幼稚園からの帰り道のルートにしていた。再建により入場料を取られるようになった。
■水前寺動物園
幼稚園から小学校時代にかけて、何度となく行った動物園。水前寺公園の中にあり、熊本の代表的な娯楽施設だったが、昭和44年、江津湖湖畔に熊本水辺動物園が開園したことにより、その歴史的役割を終えた。
■六・二六水害
昭和28年6月26日に白川などの河川が氾濫。大きな被害をもたらした。手取本町の市電通りも写真のような有様。右側の手前の建物が、洋画封切館の新世界(現在パルコ)、奥の建物が鶴屋デパート。
■熊本駅の昔の駅舎
昭和33年、濟々黌が春の選抜高校野球で優勝し、凱旋した時は、僕も出迎えに行ったが、この駅前広場が数万人の市民で埋め尽くされた。
■水前寺陸上競技場
現在もまだ現役として、陸上競技やサッカーの試合などに使われている。昭和35年の熊本国体ではメーン会場となった。隣接する水前寺球場は、僕は小学校時代、高校野球のシーズンになると弁当を持って通いつめたものだが、この国体に合わせて藤崎台に新球場が完成し、硬式野球の球場としての役割を終えた。
■熊本城再建
昭和35年、熊本城天守閣が再建された。それまで熊本城内は自由に出入りできたので、僕は幼稚園からの帰り道のルートにしていた。再建により入場料を取られるようになった。
オードリー・ヘプバーンの代表作の一つ「マイ・フェア・レディ(1964)」がリメイクされることになり、オードリーが演じたイライザ役には、なんとキーラ・ナイトレイが決まったらしい。彼女の映画は「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズや「プライドと偏見」「シルク」など、まだ数えるほどしか見ていないが、ちょっと60年代チックな顔立ちなので、若手女優の中では注目している。演技の実力のほどは、正直まだよくわからない。ただ、イライザ役に関しては、前半の、育ちの悪い娘を演じるのはオードリーよりも適役かもしれない。問題は、オードリーが声を吹きかえられて忸怩たる思いをしたであろう「歌」だ。この役のために歌のレッスンに励んでいるらしいが、はたして使ってもらえるかどうか。一方、前作で名優レックス・ハリソンが演じたヒギンズ教授の候補には、これまたなんと、現ジェームズ・ボンドのダニエル・クレイグが挙がっているらしい。まだ、これから紆余曲折があると思われるが、はたしてどんな作品に仕上がるやら、楽しみでもある。
日銀高知支店の試算によると、来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の、高知県への経済効果は234億円だそうだ。この経済効果ゆえに各地の大河ドラマ誘致合戦が激しいらしい。わが熊本も例外ではなく、加藤清正を大河ドラマにという運動を始めた団体もある。別に反対する理由もないので僕も署名した。熊本にはもう一つ、細川ガラシャをという人もいる。ただ、いずれも難点がある。加藤清正の問題点はいうまでもなく文禄・慶長の役である。韓国ではいまだに秀吉や清正に対する恨みが根強いとも言われ、再び日韓関係のトゲになることを懸念する向きもある。事実、NHKはその点で難色を示すらしい。先日の幸山市長の話では、それは杞憂に過ぎないという。たしかにそう言われてみれば、熊本城への韓国からの観光客は多い。為替レートの関係で一時ほどではないが、それでも多いらしい。細川ガラシャについては、最期があまりに悲劇的なので大河にはちょっと厳しいかもしれない。いずれにしろ、「龍馬伝」のニュースは、熊本の大河ドラマ誘致活動に大きな刺激を与えるに違いない。
高速道路無料化が実現した場合、多くのフェリーが運航停止もしくは廃業に追い込まれるのではないかといわれている。これまでそんなに何回も利用したわけではないが、フェリーを使った旅はとても良い想い出として残っている。また、歳をとると長距離の車の旅はきつい。今後も、長距離の車の旅をすることがあれば、フェリーが使えるところなら、できるだけフェリーを使いたいとも思う。まぁ、その程度の僕の希望はたいした問題ではないが、フェリーを運航する会社や、それを利用している運送会社などにとっては死活問題だ。しかし、このまま何も手を打たなければ間違いなく、日本の沿岸からフェリーの姿は消えていくだろう。なんとも味気ない国になってしまうなぁ。はたして民主党政権はどういう妙案を出してくるだろうか。それともほったらかしてしまうだろうか。見ものだ。
気付かなかったが、緒形拳さんが亡くなって、もう1年が過ぎていた。NHK-BS2では没後1年を記念して、来週月曜日から「緒形拳の渾身満力」と題して、三夜連続で彼の特集を放送する。中でも僕の一番の注目は第一夜(26日)に放送されるドラマ「破獄」だ。1985年に初めて放送された時に見て以来、再放送の都度見ているが、見るたびに緒形拳という役者の凄さを感じる。このドラマは戦前、戦中に服役し、脱獄を4回も繰り返した実在の人物をモデルにした吉村昭の小説が原作だが、この役は緒形拳以外には考えられない。凄まじい執念と生命力を体現する彼の演技は鬼気迫るものがある。また、津川雅彦演じる看守との奇妙な人間関係も見どころのひとつだ。僕は、良い役者かどうかは、「惨めな役」や「みっともない役」がやれるかどうかで決まると思っている。「カッコいい役」や「単純な悪役」は誰でもやれる。その意味において、緒形拳と三國連太郎が双璧だとずっと思ってきた。その緒形拳さんがいなくなり、三國連太郎さんもだいぶお歳を召した。今のところ後に続く役者が見当たらない。若手の奮起が望まれる。
熊本市のホームページに、市内のラーメン店が紹介されることになったそうだ。他府県はどうなのかよく知らないが、熊本県内の自治体のホームページに、個別の店の名前が紹介されるのは非常に珍しいのではないだろうか。ひょっとしたら初めてのケースかも知れない。ご当地ラーメンとしては、全国的にも歴史のある熊本ラーメンを、どうしてもっと自信を持ってPRしないのだろうかと、歯がゆい思いをしていたので喜ばしい。熊本市内でラーメン店が出来始めたのは、小学校の4、5年生の頃だったと記憶しているので、多分、昭和29年か30年だと思う。たしか一番最初に入った店は、上通りの「こむらさき」だったと思う。それまではどうだったかというと、屋台が夜中に市内をまわって「支那そば」を売っていた。おなじみのチャルメラの音を聞くと、親父がよく買って食べさせてくれた。夜来るので「夜鳴きそば」とも言っていた。しかし、ラーメン店が出来始めると、屋台の支那そば屋は来なくなった。
熊本ラーメンの歴史は、知り合いの、ある業界人にかなり詳しく聞いたことがある。最近ではかなり知られているが、昭和20年代、久留米でとんこつラーメン店をやっていた人が、玉名の駅前で店を開いた。そこにラーメンで一旗あげようと考えていた熊本市の若者たちが習いに行き、それぞれが独自のアレンジを加えながら店を開いた。それが今の熊本市内のいくつかの老舗ラーメン店である。つまり、熊本ラーメンのルーツは、久留米であり、玉名でもある。同じとんこつ系でも博多ラーメンとは系列が違う。熊本の人間は、博多ラーメンより熊本ラーメンの方が、完成度が高いと思っている。それはさておき、このところ、熊本名物というと、歴史の浅い馬刺や太平燕に押され気味だった熊本ラーメンに、復権の機会が訪れたことは喜ばしい限りだ。ちなみに僕の好きな店は「黒亭」である。
熊本ラーメンの歴史は、知り合いの、ある業界人にかなり詳しく聞いたことがある。最近ではかなり知られているが、昭和20年代、久留米でとんこつラーメン店をやっていた人が、玉名の駅前で店を開いた。そこにラーメンで一旗あげようと考えていた熊本市の若者たちが習いに行き、それぞれが独自のアレンジを加えながら店を開いた。それが今の熊本市内のいくつかの老舗ラーメン店である。つまり、熊本ラーメンのルーツは、久留米であり、玉名でもある。同じとんこつ系でも博多ラーメンとは系列が違う。熊本の人間は、博多ラーメンより熊本ラーメンの方が、完成度が高いと思っている。それはさておき、このところ、熊本名物というと、歴史の浅い馬刺や太平燕に押され気味だった熊本ラーメンに、復権の機会が訪れたことは喜ばしい限りだ。ちなみに僕の好きな店は「黒亭」である。
今夜のNHK総合のクローズアップ現代は「農業は再生できるか?~検証・戸別所得補償~」と題して、民主党政権が打ち出した農家に対する戸別所得補償への期待と懸念について、赤松農林大臣を招いて検証していた。農業とりわけ主食である米の問題は、日本の将来にとって、極めて重要な問題であると、重大な関心を持っている。番組では、この戸別所得補償制度が、小規模農家にとって起死回生の妙策になることを期待しながらも、減反政策を維持しながらの制度導入は、生産効率の阻害要因になりはしないかという懸念を、同じような制度を既に導入しているフランスの例を引きながら、赤松大臣に質していた。僕自身が持っている疑念が払拭されたわけではないが、これからもこの問題は注視して行きたい。過去、農業問題を何回かこのブログで取り上げたが、主なものを下に再掲してみた。
昨夜、BS2で放送された中国映画「追憶の切符」。現在NHKアジア・フィルム・フェスティバルが開催中だというが、これは昨年の同フェスティバルに出品されて好評を博した作品だそうだ。中国映画ファンとしては見逃せない。良くも悪くも、ある意味、現代中国をよく表わしている作品だと思った。物語は、
テレビレポーターとして成功しているユートン。彼女は生まれて間もなく、教会の前に捨てられ、孤児としてシスターに育てられた生い立ちを持つ。育ての親であるシスターが死の間際、手渡してくれたのは、ユートンが捨てられていた時、包まれていた布切れと切符。これを手がかりに、幼なじみのボーイフレンドに促されて、実の両親探しの旅に出るユートン。そして探し当てた母親は意外なところにいたという事実を知るとともに、親の深い愛を知り、恨んでいた気持が氷解していく、といった内容。
ヒロイン、ユートンを演じるズオ・シャオチンの、ちょっとチャン・ツイーを思わせる憂いを含んだ表情と、雲南省チベット自治区の圧倒的な景観、これを見ているだけでも十分楽しめた。悠久の大地に対するノスタルジー、しかし、近代化の進む中国社会からもけっして落ちこぼれたくない、制作者たちのそんな想いがひしひしと伝わってくる映画だった。背景に流れる日本でもお馴染みの「星の界(ほしのよ)」が印象的だ。
いつくしみ深き(星の界) パティ・ペイジ
テレビレポーターとして成功しているユートン。彼女は生まれて間もなく、教会の前に捨てられ、孤児としてシスターに育てられた生い立ちを持つ。育ての親であるシスターが死の間際、手渡してくれたのは、ユートンが捨てられていた時、包まれていた布切れと切符。これを手がかりに、幼なじみのボーイフレンドに促されて、実の両親探しの旅に出るユートン。そして探し当てた母親は意外なところにいたという事実を知るとともに、親の深い愛を知り、恨んでいた気持が氷解していく、といった内容。
ヒロイン、ユートンを演じるズオ・シャオチンの、ちょっとチャン・ツイーを思わせる憂いを含んだ表情と、雲南省チベット自治区の圧倒的な景観、これを見ているだけでも十分楽しめた。悠久の大地に対するノスタルジー、しかし、近代化の進む中国社会からもけっして落ちこぼれたくない、制作者たちのそんな想いがひしひしと伝わってくる映画だった。背景に流れる日本でもお馴染みの「星の界(ほしのよ)」が印象的だ。
いつくしみ深き(星の界) パティ・ペイジ
これは、明治29年4月、五高教授として熊本に赴任した夏目漱石が、初めて熊本市内を眺めて、「森の都だなあ」と言ったというポイント、さしずめ「夏目漱石ポイント」である。それから113年後の今日、森の都はどこへやら、ご覧のとおりの有様だ。
先日聞いた姜尚中さんの話の中で、熊本は特長である「水と緑」を大切にして、観光や農業の振興に努めるべきだとの話があった。それを聞きながら、「水」はまだしも、「緑」については、ついこの風景を思い出し、せつない気持ちになった。僕らが子どもだった昭和30年頃、まだ民家も少なく、坪井川の流れが見え、その両岸には田畑も残っていた。そしていたるところに木々の緑が生い茂っていた。そんな地方都市、熊本の風景も遠い日の幻となった。
新坂
明治二十九年(1896)四月、第五高等中学校(五高)の教授として着任した夏目漱石は、池田駅(現上熊本駅)で下車し、人力車でこの坂を越えた。そのとき、今の京町柳川から下るあたりで熊本の町並を眺望し、その緑の多いのに驚いて「森の都だな」と言ったことから、熊本を森の都と称するようになったという。
この新坂は、明治二十四年(1891)に九州鉄道が熊本まで開通したとき、池田駅から坪井方面へ馬車を通すために新設された道路である。昭和のはじめまで、この坂はうっそうとした木々や竹笹のトンネルであった。
TBS系列で放送されているドラマ「JIN -仁-」。原作はコミックだそうだが読んだことはない。現代の医者が幕末の江戸にタイムスリップして、歴史上の人物や出来事に出会い、はたして歴史を変えられるかという、いわゆるタイムスリップものだ。すぐに思い出すのは60年代のアメリカのテレビ映画「タイムトンネル」だ。原作者の村上もとか氏は、あれを見て育った年代なのだろうか。最近公開された映画「BALLAD 名もなき恋のうた」もタイムスリップものだが、タイムスリップものの面白さは、なんといっても「カルチャーギャップ」だ。第1話でも主人公の南方仁が、逗留先の榊家で出される食事に驚くシーンがあった。山盛りの米飯に味噌汁、大根と茄子の漬物、それに梅干である。朝食と思われるが、榊家は家禄150石と言っているから、けっして下級武士ではない。それでも当時はあんな感じの朝食をとっていたのだろう。というより、当時は米飯が最大のご馳走だったのだろう。
このドラマ、出演者には人気俳優を大勢使っているし、VFXを多用することなどを考えると、相当金がかかったと思われるが、いっそのこと一本映画を作ったほうが良かったようにも思われるのだが。肝心のドラマは、第1話は結構面白くて引き込まれたが、昨夜の第2話は「あれ!」てな感じになった。主人公が現代の倫理観にこだわるものだから共感できなかったことが原因だろう。荒唐無稽は承知の上だから、次回以降の盛り返しを期待しよう。
このドラマ、出演者には人気俳優を大勢使っているし、VFXを多用することなどを考えると、相当金がかかったと思われるが、いっそのこと一本映画を作ったほうが良かったようにも思われるのだが。肝心のドラマは、第1話は結構面白くて引き込まれたが、昨夜の第2話は「あれ!」てな感じになった。主人公が現代の倫理観にこだわるものだから共感できなかったことが原因だろう。荒唐無稽は承知の上だから、次回以降の盛り返しを期待しよう。
日本の児童文学界に偉大な足跡を残した與田準一の記念館が、彼の故郷である福岡県みやま市の市立図書館内にオープンし、今日開館式典が行なわれた。現在、僕が取り組んでいる「海達公子伝」のシナリオにも、キーマンとして登場するため、ぜひ見ておかねばと思い、朝早くから出かけた。式典には與田準一ゆかりの方々や、顕彰活動を進めてきた市民の方々、県や市の議会関係者など多くの人々が集まり、開館を祝った。記念館の中には、海達公子との関係を示す資料も展示され、僕自身もさらにシナリオづくりの意欲が湧いてきた。
■ことりのうた
作詞 與田準一
作曲 芥川也寸志
ことりはとっても
うたがすき
かあさんよぶのも
うたでよぶ
ぴぴぴぴ ぴ
ちちちち ち
ぴちくり ぴ
ことりはとっても
うたがすき
とうさんよぶのも
うたでよぶ
ぴぴぴぴ ぴ
ちちちち ち
ぴちくり ぴ
■ことりのうた
作詞 與田準一
作曲 芥川也寸志
ことりはとっても
うたがすき
かあさんよぶのも
うたでよぶ
ぴぴぴぴ ぴ
ちちちち ち
ぴちくり ぴ
ことりはとっても
うたがすき
とうさんよぶのも
うたでよぶ
ぴぴぴぴ ぴ
ちちちち ち
ぴちくり ぴ
今日は夕方から、熊本大学へ、姜尚中(かんさんじゅん)東大教授と幸山政史熊本市長の対談を聞きに行った。二人は15歳ほど年が離れているが、同じ高校の先輩後輩。僕も同じなのだが、それはさておき、幸山さんは野球部だったことはよく知られているが、実は姜さんも野球部に在籍したことがあるという。今のイメージからはちょっと想像しにくい。最初に幸山さんからマニフェストの進捗状況についてプレゼンがあった後、対談に入った。まず、今回の政権交代について意見を交わした後、「政治家のあるべき姿」論や熊本市の進むべき方向などについて熱心な意見交換が行なわれた。また、姜さんが熊本の観光政策について、いくつかの具体的な提案をされたのは意外だった。会場となった工学部百周年記念館のホールは300名ほどを収容するが、満席の状態で、二人の熱いトークに聴き入っていた。