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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

祇王寺祇女桜

2025-03-30 21:57:18 | 古典芸能
 昨年春、復旧工事閉鎖中で見ることができなかった監物台樹木園の「祇王寺祇女桜」の開花を今日見ることができた。実は、昨年10月、異常な暑さが続いたので季節を勘違いしたのか、3輪の花を開いているところを偶然目撃していた。そして今回は春本番、満開の花を咲かせてくれた。





 日本花の会の「桜図鑑」によれば、「桜守として名高い佐野藤右衛門が京都市右京区・嵯峨の中院に自生していたものを発見し、祇王寺の庭に移植したもので祇王の妹・祇女に因み佐野が名付けた。」とある。平清盛の寵愛を受けた姉の祇王がその後、暇を出され、母娘三人草庵で悲哀をかこつたという伝説がもとになっている。白拍子だったという祇王・祇女の姉妹がその名の由来である。白拍子の起源について「平家物語」には次のように書かれている。

―― そもそもわが朝に白拍子の始まりける事は、昔、鳥羽の院の御宇に、島の千歳、和歌の前、これら二人が舞ひ出だしたりけるなり。はじめは水干に立烏帽子、白鞘巻をさいて舞ひければ、男舞とぞ申しける。しかるを中頃より烏帽子刀をのけられて、水干ばかり用ゐたり。さてこそ白拍子とは名付けけれ。――

 祇王の物語のあらすじは「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」をご覧ください。

 下の舞踊は、島の千歳と和歌の前による白拍子舞を長唄舞踊化したもので、祇王・祇女の姉妹に見立てると一層味わい深いものがある。
花童あやの(左)と花童くるみ

吉原俄(よしわらにわか)

2025-03-25 21:35:52 | 古典芸能
 大河ドラマ「べらぼう」第12回では「俄なる『明月余情』」と題して、吉原の三景物といわれた「夜桜」「灯籠」「俄」のうちの「吉原俄」が繰り広げられた。蔦重が出版したガイドブック「明月余情」に勝川春章が描いた「すずめ踊り」などが再現されていた。


歌川広重「新吉原仁和歌之図」 ※右側に「俄獅子」が見える。


すずめ踊り

 俄のゲスト出演として浄瑠璃語りの富本節・富本豊前太夫が登場する。豊前太夫に扮しているのは寛一郎という役者さん。父・祖父とも名優のサラブレッドではあるが、ここは劇中でも女性に人気の艶っぽい声と紹介されるので、浄瑠璃語りのホンモノを起用してほしかった。例えば歌舞伎の尾上右近さんなどは清元節の清元栄寿太夫との二刀流だからピッタリだったような。富本と清元は当時は一緒だったはず。

 蔦重の時代から少し後、4代目杵屋六三郎が「吉原俄」の様子を描いた「俄獅子」という長唄を発表し人気を博した。
 来月6日に熊本で行われる中村花誠さんの還暦記念公演で「長唄 俄獅子」が演じられることになっている。楽しみだ。
▼舞踊【長唄 俄獅子】
「俄」とは、秋の吉原の(仁和賀)という年中行事のひとつ。廓の賑やかで派手な行事の様子や、遊女と客の男達との恋模様の様子が艶やかな描写で表現される。撮手が登場する所作ダテもみどころ。


勝川春章「明月余情」より獅子

能の「クセ」って いったい?

2025-03-24 21:36:43 | 古典芸能
 2週間ほど前、YouTubeのマイチャンネルに興味深いコメントをいただいた。J様という方からだったが、7年前にYouTubeにアップした「能 羽衣(クセ)」についてのコメントだった。

J様 >>> 私
 クセというのがどのようなことを指すのか、素人には具体的に知りたいと思いました。
囃しに混じって天女が歌うのが物語のセリフのように感じたのですが、舞の中に芝居の要素が入っているということなのでしょうか。

私 >>> J様
 私も専門家ではありませんが、通の方に教えていただいた範囲でお答えしますと、
そもそも「クセ」というのは「曲舞(クセマイ)」から来ています。「曲舞」というのは、中世に始まった節と伴奏をともなう歌舞のことです。能を大成させた観阿弥はこの「曲舞」を見どころ、聴きどころとして能の中に取り入れました。「羽衣」で言いますと、詞章の「春霞 たなびきにけり久かたの~白雲の袖ぞ 妙なる」の部分になります。「曲舞」自体は現在ではほとんど廃れてしまいましたが、福岡県みやま市大江の「幸若舞」が唯一残る「曲舞」だといわれています。

J様 >>> 私
 ありがとうございます。曲舞の解説はこれまでもよく目にするのですが、そもそも曲舞のイメージがつかめていないので、それが発祥と言われてもわからないままでした。能の解説って起源や語源の説明は詳しいけれど、具体的な舞や歌と結びつかないので苦労しています。

私 >>> J様
 >そもそも曲舞のイメージがつかめていない・・・
そうなんですよね~ ホンモノを見た人は誰もいないわけで、古文書や絵などから想像するしかありませんからね~(;_;)
「幸若舞」も「武」に偏ったものですから、曲舞が全部あんな感じかといわれると、ちょっと違うような気がします。
白拍子舞がもとになったといわれていますが、私は今、見ることができる芸能の中では巫女舞が一番近いような気がします。
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 僕の浅い知識でいい加減なことを申し上げたかなと反省し、今まで読んだ文献などをもう一度読み直してみた。
 大筋ではそんなに間違ったことは言っていないようだ。なかでも「曲舞のイメージ」という点については、いくつかの文献に「曲舞は白拍子舞がもとになった」と書かれている。その白拍子舞も神事から発展したもので、巫女舞と共通する面もあるという記述もあった。考えてみれば、どんどん遡って行けば日本の芸能は天岩戸伝説のアメノウズメに行き着くわけで、そのアメノウズメの神憑りした舞を直接受け継いで来たのが巫女舞(巫女神楽)なわけだから当たらずとも遠からずと言えるだろう。アメノウズメの舞から現代の巫女舞は大きく変革を遂げているが、そんな視点で巫女舞をあらためて見直してみたい。


能「船弁慶」を観ながら

2025-03-20 21:57:58 | 古典芸能
 今夜は「春のくまもとお城まつり」のプログラムの一つ「熊本城薪能」を観に行った。今回のメインは金春流による能「船弁慶」。この演目をナマの舞台で観るのは6年前に久留米座能で喜多流の「船弁慶」を観て以来。Eテレの「古典芸能への招待」でも観たことがあるし、映画やドラマでもよく「船弁慶」の義経と静御前の別れの場面が登場する。今回「おや?」と思ったのは子方のはずの義経を成人(?)の役者さんが演じておられたこと。そもそも、静御前は義経の妾なので義経を子方が演じることには若干違和感があった。久留米座能の時の喜多流の大島輝久さんの解説では、前シテは静御前なので、義経が大人だとシテの存在感が薄れるからだという。今まで観た「船弁慶」では義経はいつも小学生くらいの少年が演じていたので、観ながらはたしてどっちがいいのだろうと考え込んでしまった。


静御前と義経の別れの場面

 「船弁慶」は能の演目の中でも古い演目の一つで、金春流肥後中村家の記録によると、寛文5年(1665)10月28日に行われた、金春流肥後中村家の二代目・中村伊織の舞い納めの演能では、喜多流の志水一学による「船弁慶」が演じられたという記録が残っています。場所は「御花畑」と呼ばれた、江戸時代の熊本藩藩主の屋敷があったところです。その広大な敷地には白川から引いた泉水と築山で構成された庭園が整備されていて、泉水の北側には能舞台がありました。この演能には、肥後の能役者に加え、上方や江戸などからそうそうたる名手が揃ったことが記載されています。


「御花畑」の能舞台

君が代松竹梅 ~梅のパート~

2025-01-24 18:29:36 | 古典芸能
 今から17年前、平成20年4月30日(水)の夜。熊本城二の丸広場特設ステージでは、「熊本城築城400年祭」のエピローグとして「坂東玉三郎 特別舞踊公演」が行われた。昼過ぎには1時間ほど並んで入場整理券を確保し、舞台から10列目ほどの席に母と家内と僕と三人並んで座っていた。何気なく後ろを振り返ると圧倒されそうな大観衆。翌日の新聞記事に観衆12,000人と書いてあった。舞台の向こうにはライトアップされた熊本城天守閣が浮かび上がっている。やがて舞台が暗転、地方の演奏が始まる。そしていよいよ坂東玉三郎さんの登場だ。場内の空気が一変する。あちこちで「ほ~ッ」というため息が漏れる。1曲目の「君が代松竹梅」を踊り始める。それから2曲目の「藤娘」が終り、玉三郎さんが退場するまでの間、僕は異次元空間にいるような気がした。

 先日、国際交流会館で行われた「第58回熊本県邦楽協会演奏会」の最終演目「君が代松竹梅」の演奏を聴きながら、僕は17年前の玉三郎さんの舞台を思い出していた。
 今日は先日の演奏会における「君が代松竹梅」の中から、最後の「梅のパート」を視聴した。


第58回熊本県邦楽協会演奏会

2025-01-19 20:28:33 | 古典芸能
 今日、国際交流会館で行われた「第58回熊本県邦楽協会演奏会」では毎回出演の蓑里会で立三味線を務められる杵屋五司郎さんが、初めて自らの出自や経歴について話をされ、杵屋をリードして行く立場となった現在の心境を語られた。また、寛永年間に杵屋勘五郎が兄の初代中村勘三郎とともに江戸に下り、杵屋宗家の始祖として江戸歌舞伎の発展に尽くした話など、とても興味深い話をされた。


【今日の演目】
  • 三曲「越後獅子」・・・・・・・・・琴古流尺八楽若菜会
  • 俚奏楽「蛍茶屋」・・・・・・・・・秀美会
  • 筝曲「千鳥の曲」・・・・・・・・・都山流尺八楽会
  • 長唄「連獅子」・・・・・・・・・・蓑里会
  • 琴古流尺八本曲「下り葉の曲」・・・琴古流尺八楽若菜会
  • 肥後琵琶「餅酒合戦」・・・・・・・肥後琵琶の会
  • 端唄「松づくし・春雨・寄りを戻して・品川甚句」・・・椿会
  • 都山流尺八本曲「平和の山河」・・・都山流尺八楽会
  • 長唄「君が代松竹梅」・・・・・・・花と誠の会・蓑里会

幸若舞

2025-01-14 21:06:02 | 古典芸能
 1月20日は福岡県みやま市の国指定重要無形民俗文化財「大江幸若舞」が行われる日。現地に見に行ってから早くも10年が過ぎた。毎年行きたいと思いながら所用があったり、自身の体調が悪かったりで結局その後行けないでいる。
 室町時代初期に始まり、中世から近世にかけて、能と並んで武家に愛好された芸能といわれるが、今では、みやま市瀬高町の大江でしか見ることができない。10年前に行った時も、僕も含め、みやま市外から見に来た観客が多かった。おそらく今ではもっと多くの観客が市外から来られているだろう。
 幸若舞というものの、この古典芸能は語り物で、小鼓方の鼓と独特な囃子に合わせ、前傾姿勢で両手を広げ、反閇と禹歩を繰り返しながら朗吟する。おなじみ「敦盛」で言えば「人間五十年 げてんのうちをくらぶれば」という詞章を聞くと観客は待ってましたとばかりの表情を浮かべる。映画やドラマで見た織田信長の舞を思い浮かべるのだろう。今年のプログラムにはこの「敦盛」が入っていないのは残念なことだ。


大江幸若舞が行われる大江天満神社


小学生の舞手たち

2015.1.20 福岡県みやま市瀬高町大江 大江天満神社 「敦盛」

伏見 橦木町・笹屋

2024-11-06 20:52:53 | 古典芸能
 ブラタモリで「京街道」を見た後、あらためてルートを地図で確認してみた。すると京都伏見橦木町を通っていることに気が付いた。さらに「京街道」を紹介するサイトを見てみると街道沿いに橦木町遊郭入口の記念碑が立っているという。
 そこで大河ドラマ「元禄繚乱」を思い出した。あれは十八代中村勘三郎さん(当時は勘九郎)扮する大石内蔵助が伏見橦木町の笹屋で遊興する場面だった。そしてその場面では数人の芸妓が音曲を演奏していた。このドラマの邦楽指導を担当したのは本條秀太郎さんだったので一門の方が何人か出演されていて本條秀美さんもその一人だった。何を演奏されていたのか知りたくて秀美さんにおたずねしたことがある。秀美さんによれば、演奏したのは既成の曲ではなく、本條秀太郎先生が番組のために創られた曲だったという。そして、その時の音源は「元禄繚乱第32回 更けて廓」というタイトルでテープ媒体で保存されているという。機会があれば一度聴かせていただきたいものだ。


「元禄繚乱第32回 伏見橦木町・笹屋の場面」左から3人目が本條秀美さん

 大石内蔵助が伏見橦木町の笹屋で遊興した元禄時代の華やかな風俗を表現する「元禄花見踊」。


「光る君へ」と能「葵上(あおいのうえ)」

2024-10-11 19:52:10 | 古典芸能
 大河ドラマ「光る君へ」に登場する中宮彰子(見上愛)が「源氏物語」の「葵上」にあたる役柄らしい。となると「六条御息所(ろくじょうみやすどころ)」は誰?と思うのだが、これは今後、「六条御息所」にあたる人が出てくるのか来ないのかドラマの展開次第といったところか。
 それはさておき、能「葵上」には葵上本人は出て来ないが、「六条御息所」の生霊がシテとして登場する。「能楽研究の開拓者」とも呼ばれる野上豊一郎は、東京帝大時代の明治41年、高浜虚子に誘われて靖国神社の能楽堂で行われた能を鑑賞した。その時、能「葵上」のシテを演じた、肥後の能役者で、明治の三名人の一人、金春流・桜間伴馬の芸に魅せられ、能楽にのめり込むことになった。下の動画は、昭和10年、野上豊一郎監修による能楽映画「葵上」。鉄道省観光客局が日本の文化を海外に宣伝するための国策映画で、初めての能のトーキー映画。英語・ドイツ語・フランス語版が作られた。シテを務めたのは櫻間伴馬の次男、櫻間金太郎(後の弓川)。ワキは下掛寶生流の寶生新。夏目漱石に謡の指導をしたことでも知られる。他にもアイ狂言や小鼓など、後の人間国宝が5人もいる。
 野上豊一郎は大分県臼杵の出身で、東京帝大時代に夏目漱石に師事した。後年、法政大学総長を務め、今日の「野上記念法政大学能楽研究所」の母体を作った。妻は小説家の野上弥生子。もともと英文学者だった野上豊一郎は英国文学の翻訳もやっていて、大正15年には、ジェーン・オースティンの「高慢と偏見」を翻訳している。2005年に公開された映画「プライドと偏見」の原作だ。


舞踊「与一の段」余談

2024-08-25 21:31:33 | 古典芸能
 昨夜のEテレ「古典芸能への招待」は「古典芸能を未来へ」と題して、講談をメインに華やかな日本舞踊が繰り広げられた。
 中でも平家物語「扇の的」をモチーフとした舞踊「与一の段」はいろんな意味で興味深く、楽しんだ20分だった。出演は尾上菊之丞、市川染五郎、藤間紫、長須与佳(琵琶)ほかの皆さん。
 まず僕の興味の1点目は、かつて那須に在勤していた頃、度々訪れた那須温泉神社(なすゆぜんじんじゃ)は、那須与一ゆかりの神社であり、与一と源義経が初めて出会った場所でもあること。屋島の戦いにおいて勇名を馳せた弓の名手与一は、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た源義経に出会い、父の資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説が残されている。また与一が扇の的を射る際唱えた「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ」という祈念詞は舞踊の中でも歌われた。舞踊では那須与一を尾上菊之丞さん、源義経を市川染五郎さんが演じた。


那須与一ゆかりの那須温泉神社(栃木県那須郡那須町大字湯本)※写真は那須町観光協会様のご提供

 2点目は、与一が屋島の合戦で射落とした扇を掲げた平家の官女が玉虫御前(たまむしごぜん)。玉虫御前の故郷は肥後国は御船の玉虫といわれ、玉虫御前が源平合戦後、故郷に帰って寺を建て、平家の菩提を弔った玉虫寺の跡が残っていること。僕は若い頃、仕事でこの付近をよく車で通っていた。
 この玉虫御前を演じたのが朝ドラ「ブギウギ」にも出演した人気舞踊家・藤間紫さんというのも親しみを感じた。


楊洲周延 作「那須与一」(船上の女性が玉虫御前)


玉虫御前を演じた藤間紫さんの舞


玉虫御前の故郷・玉虫寺の跡(熊本県上益城郡御船町滝尾玉虫)

 そして最後に、この舞踊を盛り上げたのは叙情性ゆたかな長須与佳(ながすともか)さんの琵琶と歌。
 彼女は平成15年度の第9回くまもと全国邦楽コンクールで最優秀に選ばれており、令和元年に行われた「邦楽新鋭展Vol.5」で初めて彼女の演奏を観た。この時も彼女が演奏した「扇の的」に感動した思い出がある。そして昨夜その感動が甦った。
 彼女は薩摩琵琶奏者であるとともに琴古流尺八の奏者でもある。


今年の出水神社薪能

2024-08-03 22:11:38 | 古典芸能
 今日は楽しみにしていた「出水神社薪能」が水前寺成趣園能楽殿で行われるので夕方から見に出かけた。日は暮れたものの能楽殿の芝生席は昼間の熱気が滞留している感じで蒸し暑さには閉口した。野天だから過去には土砂降りの雨に見舞われたこともあり、自然環境の中で行われるのが本来の能。気候も舞台の設定と思えば我慢できないことはない。(つよがりか)
 しかし、今日の演目「田村」は亡父の思い出の曲。8年前に同じ「出水神社薪能」で見た「田村」の印象が強く残っていたので、それと比べると明らかに不出来。何のアナウンスもなかったが予定のシテ役者が替わったのではないだろうか。楽しみにしていただけに残念だった。


日が暮れても夕凪の状態で能楽殿の芝生席はとにかく暑かった。


火入れの式が行われる頃になってやっと微風が。


能「田村」は期待していただけにちょっと残念。

蝙蝠と小鍛冶

2024-07-29 21:18:17 | 古典芸能
 連日の猛暑でしばらく散歩もしていなかったので今日は日が暮れてからわが家の近くを歩いてみた。新坂を下り、中坂を上っていると薄闇の中に鳥のような物体が音も立てずに飛んできた。頭上2㍍くらいを通過する瞬間に「蝙蝠(こうもり)」だとわかった。飛び去る姿を目で追いながら、ふと漱石の句を思い出した。



 「蝙蝠(かわほり)に近し小鍛冶が槌の音」

 これは謡曲をお題とした漱石の句の一つで、謡曲「小鍛冶」も習っていたのだろう。「蝙蝠」は「かわほり」とも読み、夏の季語で、こうもりが飛んでくるような夏の夕暮れに、鍛冶屋の槌音が響き渡っているという夏の風情を詠んだものだろう。
 昨年の正月、Eテレで喜多流の「能 小鍛冶」が放送された。録画して2回見たのでまだ印象深い。

 今日は謡曲「小鍛冶」をもとに作られた長唄「小鍛冶」を聴いてみた。曲中何度か大鼓と小鼓が息を合わせながら打つところがまさに「能 小鍛冶」の小鍛冶と稲荷明神が互いに槌を打つ場面を思い出させて面白かった。今日、一般的な用語となっている「相槌(あいづち)」と言う言葉の始まりらしい。ちなみに相槌の音がそろわない様子から「とんちんかん」という言葉が生まれたらしい。


久々の「能 田村」

2024-07-10 18:41:54 | 古典芸能
 8月の第一土曜日(8/3)は毎年恒例、水前寺成趣園の夏の風物詩「出水神社薪能」が開かれる。
 そして今年のメイン演目は「能 田村」だそうだ。この「田村」は先々月、二十五回忌を行なった亡父が幼い頃、立田山麓の長岡邸(現細川家立田別邸)の謡のお稽古で聴き覚えた思い出の謡曲でもある。二十五回忌の供養にはちょうどよかった。
 今から100年も前、謡のお稽古の末席に侍し、門前の小僧よろしく「ひとたび放せば千の矢先・・・」という一節を聞いていた幼い父の追体験をするつもりである。
「出水神社薪能」ではこれまで何度も「田村」が演じられてきたそうだが、僕は8年ぶりに見ることになる。






2016.8.6 水前寺成趣園能楽殿 第57回出水神社薪能における金春流能「田村」


観能記 ~檜垣~

2024-02-26 20:14:53 | 古典芸能
 昨夜はEテレの「古典芸能への招待」で能「檜垣」を見た。熊本ゆかりの能なのだが、これまでナマの舞台はもちろんのこと、テレビ放送で見る機会も無かったので全くの初見である。しかし、謡本「謡曲集」で繰り返し読んで展開は分かっていたし、檜垣ゆかりの地めぐりもしていたので現地を思い浮かべながら見ていた。
 今回は金剛流だったからか、一部文言が違っていたり、最後に付加されたくだりがあったようだ。


この能のモチーフとなっているのは「年経ればわが黒髪も白川のみづはくむまで老いにけるかな」という後撰集の檜垣媼の歌

 また、鹿子木寂心の作という説のある次の一節が誰の作なのか、世阿弥が典拠としたものは何だったのかについても新たな疑問が湧いて来た。


さてもこの岩戸の観世音は霊験殊勝の御事なれば」とワキの修行僧が謡う霊巌洞の岩戸観音。


南西は海雲漫々として 万古心の内なり」とワキの修行僧が謡う岩戸山から南西の致景。


ここは所も白川の 水さえ深きその罪を」と檜垣媼が謡う白川のほとり。(右岸に蓮台寺)


値遇を運ぶ足曳の 山下庵に着きにけり」と檜垣媼が謡う山下庵の跡。(前方に岩戸の里と雲厳禅寺)



いったい “能” って?

2024-02-10 23:10:38 | 古典芸能
 ブログをフォローさせていただいているcakeさんが、鶴岡市黒川の春日神社に500年に渡って継承されてきた「黒川能・王祇祭」における神事能をリポートされていた。記事を拝見しながら、演能が行われた公民館はお世辞にも立派な舞台とは言い難いが、本来、能というのはこういうものだったのではないかという思いを強くした。
 ちなみに鶴岡市は加藤清正公・忠広公の終焉の地という熊本市とゆかりの深い町。平成23年の清正公生誕450年・没後400年行事の際には、黒川能(国指定重要無形民俗文化財)が熊本に招かれるなど、これまでも人の往来や文化の交流があった。
 熊本の能楽関係者にとって公立の能楽堂建設が悲願だと何人もの関係者からお聞きした。現在、熊本市内の常設能舞台はすべて神社の所有。しかも客席は野天。たしかに使いづらいこともあると思う。福岡の大濠公園能楽堂のような施設があればと願っておられるのだと思う。公立能楽堂を能楽振興の拠点とし、天候も心配しないで開催できるので喜ばしいことだとは思う。
 能を観るようになって15年が過ぎた。大濠公園能楽堂のような立派な舞台でも観たし、出水神社薪能で土砂降りに見舞われたりもした。正直、屋根付きの能楽堂がほしいと思ったこともある。しかし3年前「翁プロジェクト熊本公演」を観たあたりから、能って立派なホールで観るものなんだろうかと疑問を抱くようになってきた。神仏をお迎えする影向の松。赤々と燃える薪の灯り。月や星の煌めき。鳥のさえずり、虫の鳴声等々。それらが混然一体となって初めて能という芸能は成立するのではないかと思うようになった。時には雨風に曝されることもあるだろう。しかし、それも含めて能なのではないかと思う。「草木国土悉皆成仏」


出水神社薪能(舞囃子)


出水神社薪能(火入れ)


かつて水前寺成趣園にあった土壇の能舞台


土壇の能舞台で行われていた薪能


令和3年3月9日 水前寺成趣園能楽殿 翁プロジェクト熊本公演