徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

九州まつり唄 (歌:ばってん荒川)

2012-10-31 19:01:09 | 音楽芸能
 「肥後にわか」の代名詞的存在だった“ばってん荒川”さんは映画やレコード歌手、TVタレントなどでも活躍した。代表曲としては「火の国一代」、「火の国旅情」、「九州まつり唄」、「帰らんちゃよか」などがよく知られているが、そのうちNHKの「サラリーマンNEO」の中でも使われた「九州まつり唄」を“ザ・わらべ&こわらべ”の踊りとともにご紹介したい。



歌:ばってん荒川  作詞:小金井一正  作曲:弦哲也



熊本弁ノスタルジー

2012-10-30 18:51:44 | 熊本
 先日行われた「ばってん荒川七回忌追悼公演」における「肥後にわか」について、個人的には期待外れだったというような話をブログに書いた。少し補足すると僕は「肥後にわか」の面白さのポイントは三つあると思う。1番目は熊本弁の面白さ。特にその語感の可笑しさだ。2番目はキャラクターの面白さ。お米ばあさんがまさに代表的だ。3番目はギリギリセーフの下品さだ。先日の公演はこの三つの中でも特に1番目の熊本弁が僕には物足りなかった。もっと熊本弁そのもので笑わせてほしかった。
 ばってん荒川さん演じるお米ばあさんのお得意のセリフにこんなのがあった。登場人物の一人が大金持で家には大きな蔵があるという“振り”のセリフがある。するとそれに反応したお米ばあさんが「クラならアタシも持っとる。ホトクラ(懐)もありゃマタクラ(!)もある!」。まさに熊本弁の語感の面白さとギリギリセーフの下品さで客を笑わせるのだ。人生の達人のように含蓄に富んだ話もするお米ばあさんがたまに発するこんなセリフが「肥後にわか」の醍醐味だと思うのである。
 一方、これも先日、熊本城奉行丸で行われた「秋夜の宴スペシャル」で披露された「とっとっと」。これはまた粋でユーモラスな熊本弁の唄で、当日の観客にも大いに受けていたが、また違った意味で熊本弁の面白さが表現されていると思う。
※歌詞は耳コピーなので誤りがあるかもしれない。ご勘弁を。

  ▼とっとっと(踊り:ザ・わらべ 中村くるみ)



変わりゆく子飼の街・・・

2012-10-29 17:27:56 | 熊本
 熊本市内でも最も昭和の風情を残す街、子飼商店街周辺が大きく変貌しつつある。子飼橋の架け替え工事が進められているのだ。新しい橋は現在の子飼橋の下流側に隣接して建設されているが、国道57号線(豊後街道)との接点はほぼ直角になるという。レトロな雰囲気を残す子飼商店街にどの程度影響があるのか詳細は不明だが、細川刑部邸や細川家ゆかりの松雲院など歴史の跡、それに何よりもわが家の菩提寺・浄照寺がある。この一角はぜひとも残してほしい。
 僕にとって子飼の想い出といえばまず子飼東映。小中学生の頃、親には内緒で東映時代劇をよく観に行ったものだ。美空ひばり主演の時代劇の数々が一番想い出深い。


建設工事が進む新子飼橋


完成予想図(2015年完成予定)


レトロな雰囲気の商店街


日本最古のスクランブル交差点。正面にはかつて子飼東映があった。


HIROさんの写真

2012-10-28 19:36:48 | 美術
 ザ・わらべの舞台をよく観るようになってしばらく経った頃、どこの会場に行っても必ず最前列でカメラを構える一人の男性に気付いた。黒っぽいパナマ帽(?)がトレードマークだった。何度か顔を合わせるうち会釈を交わすようになり、言葉を交わすようになった。それがHIROさんだった。聞けばプロのフォトグラファーながら、ザ・わらべの写真撮影については全くのボランティアで、後で本人たちにプレゼントするのだと言う。何しろ撮影枚数がハンパないから、わらべは幸せだなぁなんて思いながら、今ではHIROさんのブログに掲載される写真を見るのが楽しみになった。僕も以前は静止画も撮っていたのだが、HIROさんの写真の圧倒的なクォーリティに、今は動画に専念することにしている。
 これまでHIROさんが撮った写真の中から、僕が気に入った写真を少しずつ紹介していきたい。
 まずは先日、熊本城奉行丸で行われた「秋夜の宴スペシャル」から、特別ゲストとして出演し超一流の芸を披露した高濱流光華々さんと花柳寿太一郎さんの息の合った踊りから2枚とザ・わらべの中村くるみちゃんと上村文乃ちゃんを各1枚ずつ。
 ■HIRO☆Blog (HIROさんのブログ)

※いずれも写真をクリックすると大きなサイズを別ウィンドウに表示します。
 

 

「秋夜の宴」 華やかに千秋楽!

2012-10-27 22:32:59 | 音楽芸能
 9月1日から2か月間にわたり、毎週土曜日に行われてきた「熊本城本丸御殿・秋夜の宴」は今夜が千秋楽。秋のイベントシーズンのさなか、“ザ・わらべ&こわらべ”は1日6本もの出演が重なった日もあったという。
 中村花誠さんを始め花と誠の会の皆様、ザ・わらべ&こわらべの皆様、本條秀美さんと本條秀美社中の皆様、そしてその他すべての出演者の皆様、出演者をサポートされたご家族の皆様、すべてのスタッフの皆さま、本当にご苦労様でした。2か月間本当に楽しませていただきありがとうございました。また本丸御殿で行われる次回の催しを楽しみにしています。

▼秋夜の宴・千秋楽口上(木遣唄)


▼万歳くずし(佐賀県民謡)


♪御代も栄える 千代に八千代に 万々歳のご繁盛
  エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ
♪めでためでたの若松様よ 枝もマタ 栄えて葉も繁る
  エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ
♪門に門松 背戸には背戸松 明け行く空に鳥の声
  エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ


▼奴さん

悩み多きセールスマン時代

2012-10-27 13:20:10 | ビジネス
 僕が大学を卒業して最初に就いた仕事はカーディーラーのセールスマンだった。父の知人の紹介で入った会社はメーカーM社のトラックやバスを販売していた。実はここには1年余りしかいなかった。入社以来ずっと抱いていた漠然とした将来への不安みたいなものが払しょくできず辞めたのだが、このわずか1年余りの経験が、後にいろんな意味で生きることになった。
 販売するのがトラックなので対象となる顧客は運送業や土木建設業などに限られ、新入社員が新規顧客を開拓することは難しかった。先輩たちが開拓した顧客に定期的に挨拶とご用聞きをして回ることが主な仕事だったが、それらの顧客の中に運よく買い替え時期の顧客がいると自分の販売実績となった。もちろん、新規開拓のために他メーカーのユーザーも回るのだが、メーカーを乗り換えることはほとんどなかった。
 この1年余に多くの人々に出会い、いろんな出来事があったのだが、中でも特に忘れられない想い出がいくつかある。

▼前途多難を予感させた映画「卒業」
 入社後まもなくM社の水島工場でのメーカー研修に参加した。2週間の研修の中にはエンジンの組立て実習などもあった。中日に休日があったので一緒に参加した同期生を連れ立って岡山市内へ映画を観に行った。ちょうど「卒業」が公開されたばかりだった。ダスティン・ホフマン演じる主人公の青年の、大学を卒業して故郷へ帰って来たという設定が自分と同じで、彼が抱く虚無感や鬱屈した気持がものすごく共感できた。映画のトンデモない展開を見ながら、自分自身の人生にも前途多難を予感したものだ。

▼日常茶飯事だった飲酒運転
 販売契約が成立して新車を納車ということになると自分でトラックを運転し同僚が乗用車で同行した。また同僚が納車する時は乗用車で付いて行ったものだ。僕の担当テリトリーは阿蘇・上益城地区だったが、その頃はまだ舗装された道は少なく、車幅ギリギリの狭い山道を登ることも度々だった。怖さよりも新車を傷つけないかとそれだけが心配だった。新車しかも商売道具なので顧客にとって納車は祝事だった。必ず祝い酒が振る舞われた。当時はまだ「運転が・・・」などと断る時代ではなかった。付いてきた同僚とともにしこたま酒を飲まされた。帰りはいったいどんな運転だったのか想い出すだにおぞましい。

▼ルーズな相乗り
 1960年代後半はまだマイカーはそれほど普及しておらず、特に阿蘇などの山間部にカローラなどに乗って行くと羨ましがられたものだ。顧客回りをしていると顧客の娘さんなどから「ついでに○○まで乗っけてくれ」などと頼まれることも多かった。山道では下校途中の小中学校の女の子が普通に手をあげて車を停め、乗り込んできた。その当時の小中学生の間では一つの流行みたいなものだったようだ。今ではとても考えられない。道をたずねようと車を停めて声をかけようもんなら、不審者に対する目つきで睨まれ、足早に立ち去られるのがオチである。
(次回に続く)


左端後ろから二人目が僕

愛される女になるために ~ 江戸時代の美容法 ~

2012-10-26 20:22:45 | 歴史
 江戸時代前期の1682年(天和2年)に井原西鶴が発刊した「好色一代男」巻三の「恋のすて銀」という章に、京の遊女の美容法について次のような記述がある。
「顔はゆげに。むしたて。手に指かねを。さゝせ足にハ。革踏はかせながら。寝させて。髪ハさねかづらの雫に。すきなし。身ハあらひ粉絶さす。二度の喰物。」
 要約すると
「顔は湯気で蒸し、手には指かね(金)を差し、足には革足袋をはいて寝る。また、髪の毛はサネカズラの汁を使って梳き、体は米ぬかの洗粉で洗うことを絶やさず。また食事は日に二度。」
 遊女も、売れっ子になるためにはやっぱりルックスが大事。今風に言えば、これがモテ女になるためのエステ法であり、ダイエット法でもあったわけだ。今日の常識からいうと首をかしげたくなるものもあるが、時代は変わっても女性の、美を追究する心は変わらない。


「好色一代男」巻三 赤い傍線の部分が美容法のくだり

「集団行動」ブーム!?に想う

2012-10-25 19:45:53 | スポーツ一般
 日体大の集団行動がテレビで紹介されて話題を呼び、中学校や高校のコンテストも行われるようになり、一つのブームになっているようだ。
 なぜ今、集団行動なのか。まぁ、今のブームは集団行動の本質的なことよりも、交差歩行などの高難度のパフォーマンスをやってみたいという、いわば集団ストリートダンス的なとらえ方だと思われる。けっしてそれが悪いというのではなく、そういう入り方もありかなと思う。
 僕が30年近くいたブリヂストンという会社は面白い会社で、今から40数年前、ちょうど東京オリンピックが終わった直後から、社員教育の一環として「企業内体育」を導入した。まず東京オリンピックの近代五種監督を務めた古賀信男さんという体育の専門家を招いた。この方は元・帝国陸軍軍人で初期の自衛隊体育学校教官を務めていた気合の入った方。この頃の日本は高度成長期の真っ只中で、ブリヂストンも国内各地に新しい工場が次々と建設されていた時期だった。いきおい大量の若者が入社してくる。それを生産現場で統制のとれた集団とするためには体育を使うのが一番、と経営トップが考えたと聞いている。そして久留米工場に「体育研修所」なるものが作られた。この「体育研修所」がまず手始めにやったのは、各工場各工程にリーダーを育てることだった。その記念すべき第1回目の研修に僕も参加した。科目の中で最も重点が置かれたのが集団行動の指揮。基本的には旧陸軍方式だった。約2週間ほどの研修を終えて工場へ戻ると「エライ気合が入ったな!」と冷やかされたものである。しかし、当初は「戦時中じゃあるまいし、今時そんなことをして何になる」とよく陰口をたたかれたものだ。それでも研修を受けたリーダーが1人、2人、3人と増え、朝夕に各工程で集団行動の訓練を始めると工場の雰囲気は徐々に変わって行った。今になって考えると、今日までのブリヂストンの発展を最も力強く支えていたのはこの「体育」そして「集団行動」だったのではないかと思うことがある。


昨年12月11日、熊本県立体育館で行われた日体大の「体育研究発表実演会」の模様

加藤清正の家紋論争!?

2012-10-24 18:17:33 | 歴史
 津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」で繰り広げられている加藤清正の「桔梗紋」についてのやりとりが実に興味深い。加藤家の家紋は「蛇の目紋」、「桔梗紋」、「折墨紋」の三つを用途に応じて使い分けていたことが知られているが、そのうち「桔梗紋」を使い始めた由来について、熊本城の公式ホームページなどでは
 「清正が肥後に赴くにあたり、秀吉は前年に改易した讃岐の尾藤知定の武具・調度一切を清正に与え、その尾藤家の紋が「桔梗」。清正は桔梗紋の入った武具・調度をそのまま使い自分の家紋にした」と説明している。
 たしかに僕らも今までそう聞いてきたし、加藤神社の湯田宮司が書かれた「仰清正公」の中にもそう書かれている。
 これに対し“mino阿弥”さんという方が「津々堂のたわごと日録」にコメントを寄せられて、実はそうではなく、加藤清正の出自を遡ると、加藤家は美濃国の土岐明智氏流であり、その一族が家紋としていた「桔梗紋」が由来ではないかというのである。何の史料も知識ももたない僕はどういう帰結になるか見守るしかないが、わが京町はかつて加藤神社が鎮座していたゆかりの深い町であり、とても興味深い話である。
 ちなみに京町の商店主で構成される京町繁栄会のキャッチフレーズは
 「京町はせいしょこさんのおひざもと!!」である。


わが京町では普通に見かける加藤家の「桔梗紋」


加藤神社の幟旗には「蛇の目紋」と「桔梗紋」が併用されている


熊本城での催事には加藤家の「蛇の目紋」と細川家の「九曜紋」の陣幕が併用される

もしも横島山に熊本城があったなら・・・

2012-10-23 15:57:34 | 歴史
 先日、久しぶりに玉名市大浜町の母の生家へ母を連れて行った。雲一つ無いような秋晴れだったので、帰りは横島町を通り抜け、県道熊本玉名線で山越えして帰ることにした。河内町の老人ホーム「みかんの丘」あたりまで登ると絶好の景観ポイントがある。この道を通る時は必ずここで車を停め、雄大な景色を眺めることにしている。有明海の向こうに雲仙が霞んで見えた。横島干拓地を右の方に目を転じて行くと、唐人川の先に小高い横島山が見えた。加藤清正公は熊本城を築城するに当たり、その候補地としてこの横島山も考えたらしい。もしここに熊本城が築かれていたなら熊本の歴史は随分変わっていたかもしれない。この地を検討した理由はおそらく対外貿易や大陸進出を睨んでのことだったろうから本格的な築港が行われたに違いない。そうなると国内外からいろんな文化が入って来て全く異なる雰囲気の港町が出来上がっていたかもしれない。そう言えば熊本城は西を向いている。熊本市は西側に金峯山を始めとする山々があるからあまり考えたことがないが、西を向いた城を築いたのはやはり同じ理由なのだろうか。そんなことを考えながら秋の日のひと時を過ごした。

▼左半分の景色 (クリックすると大きなサイズを別ウィンドウに表示します)

横島干拓地と有明海の向こうの雲仙

▼右半分の景色 (クリックすると大きなサイズを別ウィンドウに表示します)

平野の真ん中に小高い横島山が見える

取り込み詐欺に遭った話

2012-10-22 20:05:30 | ビジネス
 滋賀県彦根市の工場に勤務していた20年ほど前の話である。急な増産計画が持ち上がり、工場現場に100名を超える中途採用を行なうことになった。工場周辺だけでは員数を賄えないため、大阪まで出かけて採用面接会を行なった。多くの若者が応募してきたが、その中に見るからに好青年のNという男がいた。20代の後半で既に妻子もいると履歴書には書かれていた。面接での受け答えも抜群でトップクラスの評価で採用した。Nは京都に妻子を残して彦根市内の会社の寮に入寮した。仕事ぶりもまじめだった。ひと月ほど経ったある日、寮の管理人から電話がかかってきた。Nが行方不明だという。あわてて寮へかけつけた。彼の部屋はもぬけの殻となっていた。そして大変な問題が起きていた。彼は社員となったこのひと月の間に、会社の生協と契約した電器販売店から多くの家電を月賦で買い込んでいたのである。これは給料天引きで支払われることになっているのだが、本人がいなくなれば生協が本人に代わって電器販売店に残りの代金を支払わなければならない。その金額の大きさに生協の担当者が青くなって相談に来た。こちらも採用した責任があり、なんとかしなければならない。警察に被害届を出すべきではという意見もあったが、手続きが面倒だし、その前に自分たちの手で本人を何とかつかまえようという話になった。さっそく僕と生協の担当者の二人で、履歴書に書いてあった自宅へ向かった。その家は京都の山科区のある町に確かにあった。家には誰もいなかったが、しばらくすると奥さんと思しき女性が帰って来た。「Nの奥さんですか?」と尋ねると「はい、そうです」と言う。しかし、続けて「Nはもう1年ほどここには帰っておらず、実質的にはもう夫婦ではない」と言う。そこで事情をありのままに話した。奥さんはNが再就職したことも知らなかった。そして続けて語った話に愕然とした。「おたくもやられたんですね。実は以前勤めていたT自動車でもM電器でもやったんです。大きな企業ほど甘いんですね。彼の一家は取り込み詐欺のプロ集団なんです。彼は品物を詐取する担当で、あとの換金処理などは他の家族がやります」話を聞いているうちに段々自分たちのまぬけぶりが情けなくなってきた。Nにとって僕らを騙すのは赤子の手をひねるようなものだったに違いない。Nの家族がどこに住んでいるかも知らないという奥さんの話にトボトボと帰るしかなかった。後の処理は生協にお任せすることになったが、想い出す度に心が痛む。

※写真は琵琶湖の湖水を京都市へ送る琵琶湖疏水

次回作が待たれる渡辺あや ~ 「カーネーション」から半年 ~

2012-10-21 20:22:58 | テレビ
 終了してもう半年以上経つのにいまだに心のどこかに引っかかっている朝ドラ「カーネーション」。ネットでは朝ドラ史上最高傑作との評価が多い反面、最後のひと月の主役交代劇が釈然としないという声がいまだに根強く残っているようだ。このことに関して作者の渡辺あやさんがどういう見解をお持ちなのだろうかと、ネットを始めいろんなメディアを検索してみたが、それに関する彼女のコメントは見い出せない。僕自身は主役交代劇について肯定的な記事をブログに書き込んだ記憶があるが、やっぱり今も完全に腑に落ちたとは言いがたい。ただ、その後の彼女のコメントや周辺情報などを総合すると、2月のオノマチの出演シーンが終わった時点で一つのドラマは終了したとみるべきではないかと思うようになった。つまり、夏木マリ編はあくまでも後日譚であって、オノマチ編とは切り離して見るべきではないかと・・・。
 それはさておき、渡辺あやさんの次回作の話がまだ聞こえてこない。渡辺あやフリークとしては映画でもテレビドラマでも何でもいいから早く次回作を見たいものだ。

ザ・わらべ ~ さのさ ~

2012-10-20 23:15:39 | 音楽芸能

 今でこそ僕も端唄や俗曲の類が多少はわかるようになったが、ほんの2、3年前まで何にも知らなかった。それでも小中学校の頃から知っていた唯一と言っていい端唄がこの「さのさ」だ。これは今でも大好きな江利チエミさんが歌っていたからにほかならない。チエミさんはジャズやポップス歌手として活躍しながら、日本の民謡や端唄・俗曲にも抜群の上手さを発揮した。この唄をテレビなどでよく歌っていた同じ頃、「おてもやん」や「五木の子守唄」、「田原坂」なども歌っていた記憶がある。
 もともと「さのさ」の源流は中国だという。鎖国時代の日本で唯一、海外への窓を開いていた長崎の出島に、中国、当時の清から伝わった「九連環」という音楽がもとになって、明治中期に「法界節」という唄になり、それが「さのさ」に発展していったそうだ。九州では一番有名な鹿児島の「串木野さのさ」は、鰹漁に出かけた漁師によって伝えられ広まったという。
 ザ・わらべの踊る「さのさ」を見ながら、彼女たちもこの唄を踊る年齢になったかという感慨にひたっていた。

“わらべ”が支えた「ばってん荒川七回忌追悼公演」!

2012-10-19 16:53:15 | 音楽芸能
 昨夜の「ばってん荒川七回忌追悼公演」は熊本市民会館大ホールにほぼ満員の観客を集めて行なわれた。三部構成で行われたショーは、第1部が「肥後にわか」、第2部が「トークショー」、第3部が「ザ・わらべ&こわらべ舞踊ショー」と「英太郎ショー」という構成。肝心の「肥後にわか」は楽屋落ちや客いじり、生演奏の中村花誠さん率いる鳴物チームいじりなど、本筋から離れたところで笑いをとろうとしすぎてひどくテンポが悪く、純粋に「肥後にわか」を楽しもうと思っていた僕には期待外れだった。「英太郎モノマネショー」は見飽きた感があったし、結局、「ザ・わらべ&こわらべ舞踊ショー」が一番ショーとして洗練されており、その意味では今回の公演を彼女たちが支えていたと思う。特にザ・わらべのお得意演目「河内音頭(小野由紀子の全国ご当地歌めぐりバージョン)」は、今回初めてこわらべのメンバーも加わり、一段と華やかさが増していた。ばってん荒川さんもどこかで苦笑しながら見ておられたに違いない。


ザ・わらべの河内音頭(「2010年春のくまもとお城まつり」より)

“お米ばあさん”の七回忌

2012-10-18 23:14:12 | 音楽芸能
 「ばってん荒川七回忌追悼公演」を観に行った。亡くなってもう6年経つわけだ。でも、もしご存命であってもまだ75歳。いかにも早過ぎた。ばってん荒川さんというより“お米ばあさん”の存在を僕が初めて知ったのは、たしか小学3年か4年の頃だった。ラジオ熊本(RKK)で放送されていた「肥後にわか」の番組を僕の祖母が大好きで、毎回聴いていたので同じ部屋で寝ていた僕も必ず一緒に聴いて大笑いしていた。その頃から“お米ばあさん”の存在感が印象強かったものだが、なんとその頃荒川さんは20歳になるかならないくらいだったという。ラジオの声だけで姿を想像していたので、てっきり60歳くらいの人かと思っていた。
 老け役といえば思い出すのが同じ熊本出身の俳優・笠智衆さん。笠さんの場合は30歳を過ぎたばかりの頃から老け役を演じ、俳優としての地位を確立していくのだが、分野こそ違えど、この二人は「老け役」を得意として名を成した、熊本が生んだ偉大な役者であることは間違いない。
※写真は若い頃のばってん荒川さん(左側)