今日のNHKお昼の番組「列島ニュース」のなかで、来秋放送開始の朝ドラ「ばけばけ」のヒロインに宮崎市出身の俳優、高石あかりさんが選ばれたことが発表され、本人の会見も放送されました。
ラフカディオ・ハーン夫妻の熊本時代も描かれるそうなので楽しみですが、ハーンの熊本時代はいったいどんな時代だったのでしょうか。
ハーンが五高の英語教師になるため、島根県立の松江中学を辞し、妻のセツらを伴い、春日駅(熊本駅)に降り立ったのは明治24年11月19日。校長の嘉納治五郎が出迎え、手取本町の不知火館(のちの研屋支店)に案内しました。
この明治24年7月、門司から熊本まで鉄道が開通し、また熊本電燈会社が操業しています。熊本城そばの厩橋際に火力発電所が設けられ、城内の兵舎の灯りがこうこうと夜空を照らしていたようです。花畑一帯は練兵場が広がり、いまの市役所の場所は監獄でした。五高の構内に外人教師館がありましたが、不知火館近くに赤星家が母屋を明け渡して貸してくれるという話に居を構えます。筋向いに九州日日新聞社(熊日の前身)があり、さっそく購読しています。正月八日の六師団の閲兵式後の宴会にハーンも招待され、それが九州日日に報じられました。
「檜扇の三ツ紋ある黒羽二重の羽織に仙台平の袴を着し扇子をチャンと差したる有様と目の色の青きに赤髭茫々たる顔と特に目立ちて見へたりければ、さても衆目を一身に引受け、花嫁も及ばぬ程見つめられし次第にて当日第一の愛嬌なりしと」松江からセツの養父母、養祖父などの家族やお手伝い、車夫(これは間もなく解雇)を伴い、料理人の松を呼び寄せます。養祖父の稲垣万右衛門は若いころ、松江藩主の若殿のお守り役だったといい、「愉快な年寄り」でした。熊本城下を「こおり、こおり」とふれ歩く行商人を呼びとめ、「その水は伯耆大山から来るのか」と尋ねるなど、笑いの種をまき散らしました。招魂祭や藤崎宮のお祭りのときにもごったがえす雑踏のなかを出歩き、財布をすられるという騒ぎを起こしています。
一年後、坪井西堀端町に移り、長男の一雄はここで生まれた。稲垣老人はハーンの書斎に飛び込み、「フェロン公、天晴れだッ!生まれたで」とうれし涙を流し、腕まくりし、こぶしを振り立てて、男児出産を知らせたといます。
「この町は近代化されています。それから町が大きすぎ、お寺もない、お坊さんもいない、珍しい風習もない」と松江中学の教頭西田千太郎に手紙に書き送っているハーンですが、熊本に移り住んでわずか2、3カ月で9キロも体重が増えています。西洋料理の食材が容易に手に入つたためです。
そして地蔵祭の日、美しい光景に出会います。地蔵堂はくさぐさの花や提灯で飾られ、大工連が子供たちが踊る屋台をこしらえ、 日が暮れると露店が並びます。日が暮れ、ふと見ると、家の門前に大きなトンボがとまっていました。ハーンが子供組に与えた寄進に対するお礼でした。トンボの胴体は色紙でくるんだ松の枝、四枚の羽は四つの十能(炭火を運ぶ道具)、頭は土瓶でこしらえてありました。しかも、全体があやしく影をさすように置かれ、蝋燭の光で照らされていました。その造り物をこしらえたのが8歳前後の男の子で、「なんと日本の子供たちは美術的感覚の持ち主だろうか」とハーンは驚いています。
ハーン一家が熊本を去ったのは日清戦争が始まった年の明治27年10月 6日でした。
(ハーン来熊120年記念講演より)
日清戦争開戦前夜の熊本の騒然とした空気を著作「願望成就」のなかで次のように語っています。
本妙寺浄池廟