徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

久留米絣とそろばん踊り

2023-07-31 21:47:55 | 日本文化
 先週だったか、テレビの「水戸黄門」シリーズを見ていたら、久留米が舞台で、黄門様が久留米絣の藍染めの仕事場を見に出かけるという話だった。誤って藍のカメに落ちて青く染まった犬が物語のカギになっていつもの勧善懲悪の物語が進行するのだが、水戸黄門といえば江戸時代前期の人。久留米絣の歴史が始まったのは江戸後期といわれているので時代が合わない。まぁ水戸黄門シリーズにはこの類のズレはよくあるななどと思いながら見ていると、もうやがて「久留米そろばん総踊り」の季節になることを思い出した。久留米最大の夏祭り「水の祭典久留米まつり」の中のイベントなのだが、幼稚園時代の孫娘がパレードに参加したこともある。今年はコロナの枷も解けたので盛大に行われることだろう。

   ▼久留米絣の織りの機音を模した「久留米そろばん踊り」
2015.4.25 熊本城本丸御殿 春の宴
振付:中村花誠
立方:花童(めぐみ・れいな・ゆうあ・きみか)

草木塔(ソウモクトウ)

2023-07-30 22:48:31 | 日本文化
 今日放送されたNHK「ニッポンの里山 ふるさとの絶景に出会う旅」は草木の供養塔がある美しい里山、山形県飯豊町を紹介した。ここには人々が昔から利用してきた草や木を供養する草木塔と呼ばれる石碑が今も残る。
 飯豊町の北に位置する同じ置賜地方の白鷹町の史料によれば、草木塔は全国で160基が確認され、9割が山形県内に分布し、特に置賜地方に集中して存在する独特な石造文化財であるという。この地方に草木塔が数多く建立された背景のひとつは、米沢藩の江戸屋敷が江戸中期に大火に見舞われ、米沢藩では藩邸再建のため、大量の木材を切り出し、江戸まで搬送したことがあるという。川辺まで木を運搬し、川の流れを利用して搬送する危険な仕事に従事した木流し衆の安全を願って建立され、木流しの拠点に沿って建立されたという。

 「草木塔」と聞くと自由律俳句の俳人・種田山頭火の句集を思い出す。七つの句集のうち第二集「草木塔」と、さらに七つをまとめた句集にも「草木塔」と名付けている。自らを雑草にたとえ、あるがまま雑草として芽をふき、伸び咲き実り、そして枯れていった山頭火にとって、句集を「草木塔」とした思いはよく理解できる。また、「草木国土悉皆成仏」という仏教の思想にも通じるものがあると思う。


山形県飯豊町の草木塔

老ドクターと思い出の歌

2023-07-29 21:42:26 | 友人・知人
 今頃の季節になると決まって思い出すのは53年前の7月下旬、ブリヂストンに転職し横浜市戸塚の横浜工場へ半年の新人研修に行った時のこと。多くの方々にお世話になったが、なかでも横浜工場診療所の所長を務めておられた酒井先生には、僕が人事労務に配置されて仕事のつながりがあったこともあって、永年にわたってお世話になった。先生が亡くなられて8年経つが、先生のことを思い出すと必ず頭に浮かぶ歌がある。

 僕が東京本社に勤務していた80年代後半、先生のところへ仕事でお伺いすると必ず、終業後は横浜の街へ繰り出すのがお決まりだった。ある時、何軒か回った後、カラオケバーに行った。そこで先生は病院に出入りしている製薬会社のプロパーさんを呼び出した。呼び出したわけはその若い男性プロパーさんはプロ並みに歌が上手い人で、先生は僕にそれを聞かせたかったのかもしれない。特に松田聖子の「赤いスイートピー」や「SWEET MEMORIES」などは絶品だった。松田聖子は、実は僕の先輩社員に久留米出身で、かつて松田聖子のお父さんと同じ職場で働いていたという人がいて、彼女がデビューする時、応援を頼まれたりしていたので余計心に残った。

 僕が会社を早期退職した後も先生は相変わらず横浜工場の産業医を務めておられたが、年賀状のやり取りだけはずっと続いていた。亡くなられる数年前から、戦時中、熊本城二の丸にあった西部第十六部隊時代の思い出をしきりに懐かしがられた。そんな時、熊本城本丸御殿で行われた春の宴で舞踊団花童が踊った「小坪いかとり歌」が妙に心に残った。この歌について調べてみると、先生が亡くなられるまで住まわれた逗子市の小坪漁港で歌い継がれている古い歌であることがわかった。以来この歌も先生の思い出の歌となった。今夜は下の2曲を聞きながら先生を偲びたい。




オエ コモ バ(Oye Como Va)

2023-07-28 20:41:20 | 音楽芸能
 今日は息子が運転免許更新をしに菊陽町の運転免許センターへ行くというので、少し早めの昼飯を食べて車で送ることにした。じっとしていても汗がにじんでくるような暑さに「参ったな~」と思っていると、テレビで「空港ピアノ~オーストラリア・ブリスベン」を放送していて、フランス人のバンドが「オエ コモ バ」を演奏していた。70年代初めにサンタナでヒットしたあの曲である。ノリの良いサウンドを聞いていると少し元気が湧いてきた気がした。
 運転免許センターでは息子の更新が済むまで2時間以上を要すると思われたので、運転免許センターから少し北に行ったところを流れる「馬場楠井手」にかかる「井口眼鏡橋」を見に行った。以前何度か見に来たことがある。この井手は「ブラタモリ 水の国熊本編」でも紹介された「鼻ぐり井手」から流れてきている。ついでに「鼻ぐり井手」まで足を伸ばそうかと思ったのだが、あまりの暑さに今日はやめておくことにした。3時には息子の更新が終わった。


「馬場楠井手」にかかる「井口眼鏡橋」

サンタナと渡辺貞夫の共演による「Oye Como Va」

東雲節(修整版)

2023-07-27 22:28:39 | 音楽芸能
 4年ほど前にYouTubeに「東雲節(しののめぶし)」をアップした。音源は戦前に録音された端唄名人・藤本二三吉さんの唄なのだが、2番の歌詞が聴き取れず、歌詞を探したものの結局見つからなかったのでやむなく1番のみ字幕を入れた。
 つい先日、ひょっとして江戸端唄・俗曲師範の笹木美きえさんならご存じかもしれないと思いつき、おたずねしてみた。笹木さんも初めて聴く歌詞だったそうだが、何とか解読していただいたので2番の歌詞も字幕を付けて再アップした。
 ちなみに「東雲節」は元歌となった端唄をもとに数多の歌詞が作られ歌われているという。
 熊本県大百科事典には次のように紹介されている。

 熊本とかかわりのある民謡で、のちにストライキ節となって流行する。本来は端唄の一種で、元歌の

〽なにをくよくよ川端柳 こがるるなんとしょ
 水の流れを見てくらす
 東雲の暁の鐘 ごんとつきゃ辛いね
 てなことおっしゃいましたかね―

は、遊客が敵娼(あいかた)とのきぬぎぬの別れを惜しむ情歌だった。それが明治30年代から全国的に起きた娼妓解放運動にひっかけて、次のような替え歌が普及したといわれる。

〽祇園山(花岡山)から二本木見れば 倒るるなんとしょ
 金は無かしま(中島) 家も質(茂七)
 東雲のストライキ さりとは辛いね
 てなことおっしゃいましたかね―

 東雲というのは熊本市二本木遊郭の大店・東雲楼のこと。米相場師中島茂七の経営で、90人の娼妓を抱える御殿のような豪勢さだったが、借金に縛られる娼妓たちの生活にはひとかけらの自由もなかった。しかし全国的解放運動の中で、熊本でも明治33年(1900)10月から12月にかけて110人前後の廃業届が出た。楼主たちはありとあらゆる手段を使って自由廃業を妨害したが、そうした楼主たちの悪どさ、それに廃業した娼妓たちが容易に社会復帰できない哀れな現実を歌ったストライキ節が流行したのである。楼主の名前を巧みに盛り込んだ替え歌は、娼妓と民衆との間の一種の共同幻想の歌といってよかろう。この時期には二本木遊郭での娼妓の集団脱走やストライキの記録は残されていない。
(藤川治水・小川芳宏)


「ツル」という地名

2023-07-26 20:19:27 | 歴史
 地名の中にはその由来を調べてみたいなと思う地名が時々出て来る。熊本市北部の湧水地「八景水谷(はけのみや)」はその昔「ハケ」と呼ばれていた崖が語源であることをブログネタにしたことがある。
 今回は日本各地にある「ツル」という地名を取り上げてみた。「ツル」も「ハケ」と同じくまだ文字が無かった頃の古代日本語だと思われるが、「ふるさと寺子屋」の熊本地名研究会事務局長・高濱幸敏氏講話録には次のように記されている。

――ツルという地名は、県内に小字で748もある。民俗学の創始者、柳田國男は、日本人の祖先は川をだんだんさかのぼり、住みよい場所を見つけて定住していったと言っている。川の蛇行した所は洪水のときに平地をつくる。うしろは山手になっていて、水はけがよく、薪にも事欠かない。ツルはこんな場所のことだと思える。砥用町には、緑川の支流の津留川が流れ、川に沿って津留という村がある。この辺りは砥用町でも良質の米がたくさん穫れた一等地ということであった。ツルは、明治の初めの頃には県内に26の村があった。集落地としても多い地名である。今は市町村合併がくり返されて、大字として地名は残っている。北部町には、津留・津留畑・玉名には向津留、山鹿には上津留・下津留。この他にも菊陽町、蘇陽町、高森町など各地にたくさん残っている。――

 この解説を読むとどうやら「ツル」と呼ばれる所の地形は扇状地であるようだ。扇状地で思い出したが、毎年秋、一万羽を超える鶴が渡来する出水市の渡来地は三つの川によって出来た扇状地であるという。調べてみると国内各地の鶴渡来地は扇状地が多いようである。これは「ツル」という地名の由来と関係があるのだろうか。それとも洪水で出来たツルっとした平地だからなのだろうか。

 僕が10年近く勤務したブリヂストン熊本工場と菊池川を挟んだ対岸が津留地区である。ちょうど梅林天満宮の辺りである。少し下流には向津留(むこうづる)という地区もある。菊池川に橋が架かっていなかった明治初期以前は向津留と高瀬町の間に渡し舟が通っていたそうである。


玉名市津留地区


梅林天満宮

水球ボールの違い

2023-07-25 22:23:08 | 水球
 今、福岡で世界水泳選手権をやっている。水球もやっているが特に見に行こうというつもりもない。来月に入ると熊本で世界マスターズ水球が行われるので1試合ぐらいは見ておこうかなと思っている。
 先日テレビで世界水泳・水球予選リーグの日本対ハンガリーと日本対アルゼンチンのダイジェストを見た。試合内容・結果ともに「こんなもんだろうなぁ」という感じで特に驚くようなこともなかった。
 僕らの時代は1964年の東京オリンピックの前後だから、試合時間だとかバイオレーションだとかいくつかルールも変わっているが基礎技術は何も変わっていない。ちょっとうらやましく感じたのは使用するボールのこと。現在の使用球はまだ触ったことはないが、いかにも扱いやすい感じがする。耐水性を強化した特殊ゴムで出来ているらしいが、僕らの頃の牛のなめし革を張ったボールとはハンドリングに大きな差が出るように感じられる。また、ミドルレンジからのバウンドシュートなど昔のボールには考えられなかった。選手にとっては大いに助かっているとは思うが見た目がどうもね。

 
現在のボール         昔のボール

8年ぶりの頓写会賑わう

2023-07-24 10:05:45 | イベント
 昨夜行われた本妙寺頓写会は、参道の露店出店が復活し、8年ぶりの人出で賑わった。仁王門を上ったところに古くからある仏具店の高齢の女将が木製長椅子に腰かけて店先を通る人の流れを眺めていた。「8年ぶりですね」と声を掛けてみた。「そうですね。前より多いようです」と言う。仁王門から胸突雁木までの桜馬場は人で溢れ、なかなか前に進めない。蒸し暑さの中をやっとの思いで大本堂の前まで来ると体中から汗がにじみ出すのを感じる。大本堂前で写経を納める行列が出発するのを待ち、行列を見送った後、浄池廟拝殿前の混雑を考え、大本堂の前と胸突雁木の下で参拝し、浄池廟参拝は日を改めることにした。
 帰り道、京町台への榎坂を上っていると、うしろからカツカツと靴の音を響かせながら中年女性が駆け上って来た。振り返ると「暗くて怖いので」と息を弾ませていた。「頓写会ですか?」と尋ねると「ハイ!」と頷く。「人出が凄かったですね!」と言うと、「前より多かったですね」と言って足早に去って行った。


修復なった仁王門へ上る人々


参道には延々と続く人の列


本妙寺大本堂前にはふだんは見ない人々の群れ


大本堂階段にはぎっしりと献灯が


法華の太鼓を叩きながら写経を納めに浄池廟に向かう僧侶と信者の行列


暗くなるに従い益々胸突雁木を上る人の数が増える

ブラタモリ山形編

2023-07-22 22:29:33 | テレビ
 今夜のブラタモリは山形編。「山形は何度も生まれ変わる?」をテーマに山形の変遷の歴史をたどった。最上義光に始まる山形藩のお気の毒な歴史はさておき、山形といえばサクランボ。栃木県の那須にいた頃、上山や天童にサクランボ狩りに来たことはあったが、山形市内には行ったことがない。那須に住んだことのある一人として興味深かったのはやはり山形県令を務めた三島通庸(みしまみちつね)のこと。元薩摩藩士で、山形県令の後に栃木県令も歴任しており、那須野が原の開拓や那須疎水の開削など数々の功績を残している。また那須には三島の功績を讃え、三島という地区もあった。その三島通庸の山形における功績の一つがサクランボ栽培の導入だったことは初めて知った。山形へ一層親しみが増した。
 また三島通庸の息子、三島弥彦は日本が初めてオリンピックに参加した1912年のストックホルム大会に短距離選手としてマラソンの金栗四三とともに参加した話は大河ドラマ「いだてん」でもおなじみ。 


南阿蘇鉄道の全線復旧

2023-07-21 19:56:49 | 熊本
 7年前の熊本地震で甚大な被害を受けた南阿蘇鉄道が全線復旧し、15日、運転が再開された。南阿蘇村復興への重要なマイルストーンとなるだろう。
 思えば南阿蘇村は今から55年前、僕が社会人としての第一歩を踏み出した懐かしい村。トラックディーラーに就職した僕が最初に担当したテリトリーが南阿蘇村(当時は長陽村、白水村、久木野村に分かれていた)だった。熊本地震で崩落した阿蘇大橋も当時はまだ架かっておらず、立野から渓谷へ下って戸下温泉を通り、戸下の七曲がりを連日登ったものだ。高森へと続く道はまだ舗装もされていなかった。多くの人々との出会いもあり、濃密な思い出が残っている。
 中松駅の近くの建設業のオヤジは古いユーザーだったが有名な頑固者。初対面の時から挨拶をしても会釈も返さず、度々訪問したが、ほとんど会話らしい会話はなかった。僕が担当地区が替わり、転任挨拶に行った時、このオヤジがひと言「ご苦労だったな」と言った。涙が出るほど嬉しかった。
 当時の南阿蘇はまだ自家用車はそれほど普及していなかった。小中学生は遠い距離を徒歩で通学していたが、道路が乾くと通る車で土埃がもうもうと上がるし、雨が降ればぬかるんだ道を歩かなければならなかった。当時の小中学生の間で流行っていたのが、通りかかった車に手をあげて乗せてもらう、つまりヒッチハイクである。僕も何度も彼らを乗せて運んだ。今なら絶対ありえない光景だ。
 その他にも忘れられない思い出がいろいろあり、南阿蘇村がテレビのニュースに出ると、遠い昔のことを懐かしく思い出す。


全線復旧した南阿蘇鉄道


南阿蘇鉄道名所 第一白川橋梁

阿蘇の恋歌
 今や阿蘇を象徴する歌となった「阿蘇の恋歌」。この歌が生れたのは戦後間もない頃。作ったのは作詞、作曲ともに熊本の人ではない。昭和23年に阿蘇を旅した福井県の作詞家・松本芳朗さんが詩を作り、後にレコード化のため、青森県出身の作曲家・陸奥明さんが曲をつけた。
2012年5月12日 熊本城本丸御殿 春の宴 ~阿蘇をどり~
振付:中村花誠
立方:こわらべ(あかね・ゆりあ)
地方:藤本喜代則と喜代則社中/中村花誠と花と誠の会

阿蘇くぎの花盛り音頭
 これはまぎれもない南阿蘇の唄。「火の国旅情」で知られる作詞:中沢昭二、作曲:岩代浩一のコンビによって作られた歌である。熊本人の僕でさえちょっと声に出すのを憚るくらい、阿蘇の方言まるだしのユーモラスな歌詞だ。
2012年5月12日 熊本城本丸御殿 春の宴 ~阿蘇をどり~
振付:中村花誠
立方:こわらべ(あかね・ゆりあ・みわ)
地方:藤本喜代則と喜代則社中/中村花誠と花と誠の会

頓写会 8年ぶりの賑わい戻るか!

2023-07-20 21:22:40 | イベント
 熊本夏の風物詩「頓写会」に、8年ぶりに露店の出店が解禁されます。加藤清正公の御逮夜である7月23日(日)、菩提寺である熊本市西区花園の本妙寺で「頓写会」が開かれます。熊本地震で被災した仁王門の修復が昨年完了し、参道に8年前までの賑わいが戻ってきます。

▼8年前までの頓写会の風景


参道沿いに出店が立ち並び、日暮れとともに人出が多くなりはじめます。


仁王門の階段から振り返るとこんな景色が見えます。


仁王門下も徐々に進みづらくなってきます。


仁王門へ上る階段もこの混みようです。


本妙寺大本堂には献灯がぎっしりと並べられます。


浄池廟を目指し人々は胸突雁木を上って行きます。


浄池廟本殿の前でお参りをします。


御宿廣嶋屋もこの混みようです。

コンチキチン

2023-07-19 20:36:20 | 伝統芸能
 日本三大祭の一つ、京都の祇園祭が現在開催中とあってテレビでも祇園祭関連の番組が多い。昨夜はBSプレミアムで「Core Kyoto 祇園後祭 山鉾巡行~誇りをかける古都の町衆~」という番組を放送していた。祇園祭をささえる町衆にスポットを当てていたが、なかでも興味深かったのは祇園囃子を奏でる太鼓・鉦・笛のうち、もっとも祇園祭を象徴する鉦(別名コンチキチン)を作る職人の話だった。
 鉦は金属製の打楽器で皿のような形をしている。もともとは仏具で、中世の念仏踊りなどで使われていたそうだが、阿国歌舞伎の念仏踊りで使われるなど次第に芸能のお囃子で使われるようになったといわれる。鉦はまず円形の鋳型を作り、そこに溶かした銅と錫を流し込んで作る。金属が冷え固まった後、鋳型を外し、表面を滑らかに削って完成となる。非常に繊細な作業を要し、出来いかんで音色が変わるという。
 熊本では承平4年(934)に京都の祇園社(八坂神社)の分霊を勧請して創建された北岡神社でも8月1・2・3日の3日間祇園祭が行われる。コロナ禍のため縮小開催が続いたが今年はかつての賑わいを取り戻せるだろうか。


暑中お見舞い

2023-07-18 17:38:56 | 
 暑中お見舞い申しあげます。
 熊本も連日の猛暑日でげんなりとしておりますが皆さまいかがお過ごしでしょうか。
 多少なりとも涼気を感じていただけますような画像を並べてみました。
 もうしばらくは厳しい気候が続くと思われますがどうぞご自愛くださいますよう願いあげます。
徒然なか話筆者 敬白

▼涼風吹き渡る菊池渓谷の淵



▼GIFアニメーションから

三番叟?のような…

2023-07-17 21:35:40 | 古典芸能
 明治中期から昭和初期までの40年間にわたり、日本と日本人をこよなく愛し、その姿を撮り続けたバートン・ホームズというアメリカ人の映像作家がいる。彼が遺した映像は日本の民俗史料として大変貴重なものだ。下の映像もその一つで、1920年代と記されているので大正9年(1920)から昭和4年(1929)までの間に撮影された映像で、まだ子供と思しき二人の芸妓が一人は大鼓と小鼓、もう一人は太鼓を、大人の芸妓たちの三味線、箏、笛、胡弓などと一緒に演奏したり、その後、衣装を着替えて舞を披露したりしている。残念ながらサイレント・ムービーなので曲もわからないし、英語のキャプションにも演目や場所などについての記述はない。
 10年ほど前にこの映像を初めて見て、演奏している曲、舞っている曲が何なのか調べたいと思った。しかし、この映像について解説するような資料は見出せなかった。そこで浅学な僕の限られた知識で推測してみることにした。まず前半の演奏だが、いきなり鼓がリードしているように見え、日本舞踊の出端、例えば長唄「供奴」のような曲かもしれない。後半の舞は衣装や所作から見て三番叟系のように思われる。10年前に撮影した「羽衣三番叟」を見てみたら雰囲気がピッタリのような気がした。




2013.1.2 熊本城本丸御殿 冬のくまもとお城まつり
三味線:今藤珠美と今藤珠美社中
  筝:下田れい子
鳴 物:中村花誠と花と誠の会
振 付:中村花誠
踊 り:ザ・わらべ(中村くるみ・上村文乃)

舟運が活躍した時代

2023-07-16 21:20:39 | 歴史
 昨夜放送されたNHK「ブラタモリ~行田編~」では、「埼玉古墳群」で知られる行田はかつて利根川と荒川の支流が縦横に走っており、資材の運搬には便利だったのではないかという話があった。今では考えられないほど舟運が物流の主役として活躍したことは全国、もちろんわが熊本も同様だったわけである。
 しかし、動力がなかった時代、川は下りだけではないわけで舟運には苦労も多かったと思われる。そんな時代のエピソードがいくつも残っている。

 大代寅次郎さんの画集「水絵にのこす山鹿」(熊日新聞社刊)には、山鹿の明治、大正、昭和の風景が描かれているが、そのなかの一つが「菊池川筋」の「大舟橋場近し」と題する下の絵。添えられた説明には次のように書かれている。

――山鹿に集積された肥後米は、大橋際の米出し場から舟に積まれ、川を下り、高瀬から海路大阪へ運ばれた。菊池川は今日では想像もできない舟運の往還であった。帰りには黒砂糖や昆布などが積まれて、人力で山鹿まで遡行された。三つの瀬を越え大橋も近づくと自然掛声もはずんでくる。さんざめく橋の出迎えの人波には、妻子の顔も見えたに違いない。――

 つまり、舟には帆を掛けているものの高瀬から山鹿への遡行は人力で引っ張って来たようだ。山鹿―高瀬間は約20㌔、菊池川の距離はもっとあったかもしれない。いやはや大変な労力を必要としていたのである。


大代寅次郎さんの絵「菊池川筋」の「大舟橋場近し」


菊池川を舟運で米を運んでいた時代の古写真

 熊本市の坪井川もかつては城下町の物流の大動脈として舟運が活躍した。8年ほど前、川の畔に住む町の長老に話を聞いたことがある。流長院の裏手辺りなのだが、長老曰く「昭和初期に坪井川の流路変更が行われる前は、今のわが家の下を川がながれていて、家の裏には今も昔の土手の跡がある。流長院のところは中洲になっていて、今のわが家の辺りは流れが早くなっていた。遡ってきた川舟はいつも難儀して、土手から綱で引っ張っていた」という。


坪井川。向こうに庚申橋が見える。