徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

本條秀美さんの唄と三味線

2023-05-30 18:54:57 | 音楽芸能
 民謡三味線の本條秀美さんによれば、先日、「新日本風土記(NHK BSプレミアム)」の撮影が植木町で行われたそうだ。本條さんおよび秀美会の皆さんが参加して、昔から伝わる「うた」をテーマに「おてもやん」など数曲を踊りもまじえながら撮影が行われたという。オンエア日時は未定だがどういう映像になっているのか大いに楽しみである。
 本條秀美さんは本條秀太郎さんを家元とする本條流三味線の直門師範として後進の指導にあたるかたわら、植木町ゆかりの民謡「田原坂」普及のため、全国大会の開催にも尽力。また、山鹿灯籠まつりでは唄と三味線の指導、さらに各種イベントでの演奏活動や新曲づくりなど、精力的な活動をしておられる。
 本條さんの歌声に魅かれて植木町の稽古場までお邪魔したのはもう12年前。その時、ご実家が種田山頭火ゆかりの味取観音瑞泉寺だったことがわかり、びっくりしたおまけもあった。
 今日は、本條さん演奏の熊本民謡の中から特に好きな4曲を選んでみた。

本條秀美トリビュートメドレー

   鹿北茶山唄

   古調よへほ節

   キンニョムニョ

   正調 田原坂

ハーン訳「銚子大漁節」のナゾ

2023-05-29 17:30:10 | 音楽芸能
 随分前から抱いていたナゾが一つ解決しそうである。
 それはラフカディオ・ハーンが自ら英訳して欧米に紹介した千葉県銚子の民謡「銚子大漁節(Song of Fisherman)」について。これまでハーンは銚子を訪れた形跡はないと聞いていたが、それが本当ならどうやって「銚子大漁節」を採集したのだろうかということだ。いろんな文献などを調べてもそれについて触れたものは見出せなかった。
 そこで1週間前、思い切って銚子市の観光商工課へ問い合わせのメールを送ってみた。するとちょうど1週間経った今日、文化財担当者から返事が来た。いろいろ手を尽して調べていただいたようだ。
 それによれば、ハーンが銚子を訪れたことはないということについては、「ハーンが銚子に滞在した記録はない」というハーンの孫・小泉時氏の談話が載った書籍があるので間違いないらしい。
 それではどのように採集したかというと、明治33年にハーンが翻訳した大漁節は「十つとせ」を欠いており、その2年前、明治31年に出版された大和田健樹著「日本歌謡類聚」に収録された大漁節も「十つとせ」を欠いていることから、ハーンは「日本歌謡類聚」をもとに翻訳したのではないか、とのことだった。とても腑に落ちる話だと思う。



 さっそく「国立国会図書館デジタルコレクション」のサイトで「日本歌謡類聚」を確認してみたのが下の図である。



【ラフカディオ・ハーンの英訳】
Firstly,
The first ship,filled up with fish,
squeezes her way through the river-mouth,with great shouting.
 O this ship of great fishing!
Secondly,
From he offing of Futaba even to the Togawa,
the ships,fast following,press in,with a great shouting.
 O this ship of great fishing! 
Thirdly,
when,all together,we hoist our signal-flags,
ee how fast the cargo-boats come hurrying !
 O this ship of great fishing!
Fourthly,
Night and day through the boiling be,there is still too much to boil-oh,
the heaps iwasi from the three ships together.
 O this ship of great fishing!
Fifthly,
whenever you go to look at the place where the dried fish are kept,
never do you find any room-not even a crevice.
 O this ship of great fishing!
Sixthly,
Form six to six o'clock is cleaning and washing;
the great cutting and the small cutting are more than can be done.
 O this ship of great fishing!
Seventhly,
All up and down the famous river Tonegawa
we send our loads of oil and fertilizer.
 O this ship of great fishing!
Eigthly,
All the young folk,drawing the Yatai-bune,
with ten thousand rejoicings,visit the shrine of the God.
 O this ship of great fishing!
Ninthly,
Augustly protecting all the cost,
the Deity of the river-mouth shows to us his divine favor.
 O this ship of great fishing!

世界マスターズ水球2023 @熊本

2023-05-28 19:44:04 | 水球
 上通のアーケードを歩いていたら床面に「世界マスターズ水球2023」のポスターシートが貼られていた。「世界マスターズ水泳選手権」の種目、競泳、飛込、水球、アーティスティックスイミング、オープンウォータースイミングのうち、水球は熊本が会場になるという話は聞いていたがここでポスターを見るとはとちょっとビックリ。ポスターのモデルは日本代表のエースとして長く活躍し、昨年現役を引退した熊本出身の志水祐介さん。半面が水球選手、半面が戦国武将というなかなか凝ったつくりだ。
 7月中旬から福岡で「世界水泳選手権2023」が行われるが、引き続いて「世界マスターズ水泳2023」が行われる。「世界水泳選手権」は各国の代表が出場するのに対し「世界マスターズ水泳」の方は世界中の水泳愛好者が集まる大会。しかし、マスターズを甘く見てはいけない。かつて世界のトップレベルで活躍したレジェンドたちだから技術的なレベルはハンパないのだ。
 熊本が水球の会場に選ばれたことは大変喜ばしい。低迷する熊本の水球再興のきっかけになればいいのだが。
 それはともかく、1980年のハンガリーチーム日本遠征以来、海外チームのプレーをナマで見ていないのでぜひとも見に行きたい。


1964年のミュージックシーンから

2023-05-27 22:02:24 | 音楽芸能
 今ごろの時期になると、学生時代、やがて始まる関東学生水球リーグに備えて強化合宿に入っていたことを思い出す。ツラいこともあったが一番の気分転換がラジオから流れる最新のヒット曲を聞くことだった。思えば、今よりも多彩な音楽が聞けたような気がする。上京して学生生活を始めた1964年は熊本にいた頃よりも聞けるラジオ局が一気に増えたので特に印象深い。この年のヒット曲の中から今日は次の2曲を選んでみた。

 ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」でドラマーのハル・ブレインが刻んだ最初の 4 秒のリズム「thump-thump-thump-crack !」が音楽史に残る伝説的なビートとなった。なお、千三百年続く日本の古典芸能「三番叟」でも同じリズムが刻まれているのは興味深い。



 ロック・ミュージックにもビートルズにも興味を示さなかった20世紀の天才ピアニスト、グレン・グールドが唯一愛した歌手が英国のポップス歌手であり女優でもあるペトゥラ・クラーク。1964年にリリースした「ダウンタウン」が全世界でヒットし、スターダムに駆け上った。


出京町のはなし。

2023-05-26 21:36:03 | 熊本
 わが京町の北の外れ、江戸時代は城下町から張出した街だった「出町」。僕が子どもの頃、大人たちは「出京町」と呼んでいた。

 熊日新聞のサイトに「古地図で歩く城下町くまもと」という連載企画がある。日頃、このサイトで歴史の勉強をさせていただいているのだが、その中に「京町」を取り上げた回があり、「出京町」について紹介した一節がある。

▼出京町、「街道をゆく」に登場
 江戸時代、京町北端の構口(かまえぐち)から出た豊前街道沿いは「出京町」と呼ばれる町人町だった(現池田1丁目、出町、稗田町)。火打ち道具や紅・おしろい、手まり、羽子板などの店が並んでいたという。
 司馬遼太郎さんの人気シリーズ「街道をゆく」の「肥薩のみち」に、通り沿いにあった酒本鍛冶屋が登場する。司馬さんたちが店に入ると、金気くさい土間があり、片隅に昔風のふいごがしつらえてある。老店主が出てきて、400年続く店で自分は15代目だ、西南戦争の時も表で弾が飛び交う中、店では逃げずに鉄を打っていたと話す。「このまま黒沢明の映画に使えそうな店格好であった」と司馬さんは書いている。
 司馬さんが鍛冶店を訪れたのは「翔ぶが如く」を連載中の1972年で、今ではその店はもうない。ただ、カナダから訪れた若者が同店で修業した後、米国に渡り和包丁職人として活躍している-という話がネットに出ている。

 とあった。そこで気になったので米国に渡り和包丁職人として活躍しているという人物を調べてみた。モーリー・カーターという人で、カナダ出身で高校生の時に空手の修行で熊本に来日し、たまたま熊本の「肥後正宗」の登録商標を持つ吉本刃物製作所を通りかかり、興味を持ったそうだ。その後、肥後正宗16代目である酒本康幸さんに弟子入りし、6年の修業を経て、17代目の肥後正宗の職人になったという。帰国後は自分のブランドを持ち、包丁を作り続けているという。カーターさんについては日本のテレビ番組も何度か取り上げたらしい。
 わが街にもまだまだ知らないエピソードが埋もれている。




司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の取材に同行した須田剋太の挿絵「酒本鍛冶屋」


酒本鍛冶屋で修業したモーリー・カーターさん

酒本鍛冶屋のご近所「塩津米穀店」を出自とする喜多流能楽師塩津家三代目・塩津圭介さん

ブラタモリのアシスタントNo.1

2023-05-25 23:41:36 | テレビ
 時々、ネットでブラタモリのアシスタントを務める歴代女子アナのランク付けをしているのを見かけるが、個人的見解としてはナンバーワンは久保田祐佳アナだと思う。それは初代という意味もあるし、第1シリーズから第3シリーズまでという最も長い間アシスタントを務めたという意味もある。そして彼女自身が言っているように「ブラタモリが、なんとなく楽しい、ほっとする、ちょっとためになる、そんなひとときを・・・」という番組のテイストと、控えめにタモリに寄り添うアシスタントのスタイルを確立したのは彼女だと思うからだ。


タモリと久保田祐佳アナ

 そんな久保田アナが出演したブラタモリの中で僕が最も印象に残っている回が二つある。

▼ブラタモリ渋谷編(第2シリーズ)
 渋谷は学生時代に通学の乗換駅だったことから喫茶店、ご飯屋、映画館などをよく利用した懐かしい街。「ブラタモリ渋谷編」では、名前の通りそもそもは「谷」だった渋谷の地形を形成した渋谷川の痕跡を探し、街の真ん中から今はほとんどが暗渠となった幻の川の源流を探して辿っていた。かつて水量豊かな川だった江戸時代の渋谷川の流域は豊かな田園が広がっていた風景を、葛飾北斎の「富嶽三十六景・穏田の水車」を見ながら偲んでいた。また鉄道好きのタモリは、地下鉄なのに地上3階から発着する銀座線こそが谷にできた都市・渋谷の象徴だとの思いを強くする。



▼江戸の盛り場 ~吉原編~(第3シリーズ)
 立教新座中学校・高等学校校長兼立教大学名誉教授の渡辺憲司さんの案内で番組が進行する。「吉原は江戸の流行の発信基地」とかなんとか言いながら、舟で吉原を目指す。柳橋から隅田川を北上、浅草を通過して吉原へと向かう。「船宿へ家の律儀は置いてゆき」と恥も外聞も打ち捨てて、というわけ。かつて使われたのは猪牙船(ちょきぶね)。「猪牙船 小便千両」と言って、相当金をつぎ込まないと舟上に用意された竹筒へ小便ができるようにはならないという。やがて、隅田川の西岸に見えてくるのが「首尾の松」。江戸時代から数えて七代目の松。「濡れてしっぽり首尾の松」てな調子で舟は吉原を目指す。


吉原でのしきたりを渡辺教授がタモリに説明

吉原名物「さわぎ」の熊本バージョン

古泉の宿とハーンの夢

2023-05-24 20:50:55 | 音楽芸能
 ラフカディオ・ハーンが熊本の五高教師時代に書いたといわれる「知られぬ日本の面影」を読んでいると、後半の「日本海に沿うて」の章に鳥取の海辺にある浜村温泉の宿での一節がある。これは1891年の夏のことで、その年の1月に結婚したばかりのセツ夫人との新婚旅行だったらしい。熊本にやって来るわずか3ヶ月前のことである。
 この温泉宿での一夜、ハーンは夢を見る。お寺の中庭のようなところに顔見知りの出雲の女が現れてケルトの子供歌を歌うという不思議なシーンだ。原語で読んでいないので子守唄なのか童謡なのかわからないが、僕が思いつくのはただ一つ「アイリッシュ・ララバイ」という歌だ。「トゥー ラ ルー ラ ルー ラルトゥー ラ ルー ラ ライ・・・」というおなじみの歌詞で、数多の歌手に歌われた名曲。
 今日はパティ・ペイジの歌で聞いてみた。



 また、この浜村温泉は鳥取県民謡「貝殻節」の発祥の地。現在歌われているのは、昭和7年に新民謡ブームの中で改作されたものらしいが、元唄は江戸時代からこの辺りで唄われていたという。
 そして、この「貝殻節」が全国に知られるきっかけとなったのが80年代にNHKで放送されたドラマ「夢千代日記」である。ドラマの舞台は兵庫県側の架空の温泉場になっていたが、「貝殻節」を聞けば「夢千代日記」を思い出す。
 はたしてハーンはこの唄を聞く機会はあっただろうか。

芸者置屋はる屋の女将・夢千代(吉永小百合)、半玉の小夢(中村久美)、芸者の金魚(秋吉久美子)
そして三味線は年増芸者の菊奴(樹木希林)の面々。


伊豆諸島の無事を祈る!

2023-05-23 19:17:56 | 音楽芸能
 22日午後に震度5弱の地震があった利島(東京都)を始め伊豆諸島ではその後も震度3~1の地震が続いているという。もともと火山性地震が頻発する地域だが、これ以上強い地震が来ないことを祈るばかりである。

 伊豆諸島は伊豆大島と八丈島の二ヶ所しか行ったことがないが、それぞれ懐かしい思い出が残っている。伊豆大島に行ったのは学生時代、水泳部の仲間たちと一度だけ行った。竹芝を船が出てすぐに海が時化り始め、そのうち暴風雨状態になった。船室ではあちこちでリバース合戦が始まり、数少ない洗面器の奪い合いになる始末。僕もしばらくは我慢していたが、周りの様子を見ているうちに我慢できなくなりトイレへ走ったが満杯状態。仲間と洗面器を代わる代わる使う羽目となった。夜明けとともにやっと船は波浮の港に到着。上陸したものの最初は真っ直ぐ歩けない状態。そこに聞こえてきたのが吉永小百合さん歌う「波浮の港」だった。穏やかな気持になり元気が回復する思いがしたことを憶えている。
 八丈島に行ったのは東京勤務の頃、往復飛行機で行った。会社の水泳部仲間とダイビングをするのが目的だった。一泊二日のタイトな日程の中、目一杯潜ろうと日中はほとんど海の中だった。おかげで美しい海と、出逢った多くの魚たちの思い出は残ったが、島の観光ができなかったことが心残りだった。

 そんな伊豆諸島の思い出に浸りながら次の2曲を聴いてみた。
   波浮の港(吉永小百合)

   島めぐり
   神津節(神津島)、御蔵島節(御蔵島)、八丈ショメ節(八丈島)などの伊豆諸島民謡に、
   「夜明け前」「ギダイ」「ウワドロ」などの小笠原諸島民謡が織り込まれている。


祖母のはなし。

2023-05-22 23:44:45 | ファミリー
 昭和52年(1977)に93歳で他界した僕の父方の祖母は、娘時代、父親が飽託郡大江村の村長を務めていて割と裕福な家だったので芝居見物などにもよく行っていたようである。僕は両親が共働きだったので、幼い頃はもっぱら祖母に育てられたが、よく芝居や歌手の公演などに連れて行ってもらった。歌舞伎のことに妙に詳しかったのもきっと若い頃、隆盛を極めていた大和座や東雲座などの劇場へも観劇に行っていたのだろう。しかし、夫(僕の祖父)が早世してからは機織り仕事で生活費を稼ぎ、苦労して二人の息子を育て上げた。その頃には実家も水道町一帯の大火で持ち家十数軒が焼失するなどもあって没落していたらしい。
 祖母を助けることになった機織り仕事は、十六歳の時、大江村にあった河田経緯堂という絹織物工場に通って身に付けたという。この工場は、かの文豪・徳富蘇峰先生が開いた大江義塾があったところである。先生がこの塾を閉鎖して上京するや、先生の姉婿河田精一氏がその屋敷を譲り受け、この工場を開設したそうである。
 祖母は、この工場で身に付けた機織り仕事に夜を日に継いで働き、父と叔父の幼い兄弟と出戻りの義姉を養っていたのである。娘時代、機織りの工場に行った理由について、縮緬、羽二重、絽などの特殊な織りの技術を身に付けるためであって、けっして労賃目当てではないと言い張った。父親が大江村の村長時代、祭りや折々に家で盛大な宴会が行われていたことなどを父に何十遍、何百遍となく聞かせていたそうだ。
 父が小学六年生の頃、祖母と二人で街を歩いていると向う側からやってきた七十歳前後と思しき老婆が急に立ち止まり、「お人違いかもしれませんが阿部さんのお嬢さんではありませんか?」。祖母も一瞬驚いたが、それからなんと一時間にもおよぶ立ち話が続いたという。酒盛りのこと、火事のことなど話題は尽きない様子だったが、その老婆は阿部家の酒宴の時によく呼んだ町芸者で「土手券」と呼ばれて人気があったそうである。
 祖母の実家は女系の家だったから、父が生まれると曾祖父は六キロの道もいとわず、孫の顔を見に日参したという。その曾祖父も父が生まれた翌年には他界した。そんなわけで祖母は山あり谷ありの人生だったようである。


幼い頃、歌謡公演などを見に祖母が僕をよく連れて行ってくれた熊本市公会堂

熊本市公会堂で記憶に残っている渡辺はま子の「支那の夜」

本丸御殿の宴

2023-05-21 21:14:30 | 音楽芸能
 連日、熊本城におこしいただく大勢の観光客の皆さんを見ていて、いつも思うのは本丸御殿を見ていただきたかったなぁということです。2016年4月に発生した熊本地震によって大きく損壊した本丸御殿は7年経った今もまだ復旧工事は始まっていません。
 熊本城復旧基本計画(令和5年3月改定 熊本市)によれば、計画期間は当初より15年延ばして2052年度までと設定しなおされ、本丸御殿の復旧完了は2032年度とされています。まだあと10年待たなければなりません。



 2008年に復元された本丸御殿では、2010年から「春の宴」や「秋夜の宴」などの催しが大広間で繰り広げられました。熊本地震で被災するまでの6年間、本丸御殿を訪れた観光客の皆さんを日本舞踊など様々な芸能でおもてなししました。
 そんな催しの中から「少女舞踊団ザ・わらべ」の舞台をぜひご覧ください。


地蔵尊の行方

2023-05-20 21:31:45 | 歴史
 今日、京町の熊本地方裁判所近くの掲示板に気になる通知書が貼ってあった。発信者は京町拘置支所で「観音坂の途中にある地蔵尊を移転または供養(撤去?)を検討しているので、設置の経緯をご存じの方、日頃お世話をされている方はご連絡をお願いします。」というものだ。京町拘置支所は昨年渡鹿の熊本刑務所に移転したのだが、跡地利用の問題があるのだろう。地蔵尊の坐す場所が京町拘置支所の石垣に掛かっているからかもしれない。


観音坂の途中にある地蔵尊

 そもそもこの観音坂の名前の由来は、加藤清正公によって茶臼山に熊本城築城の際、本丸建設地にあった観音堂を京一丁の坂下に移した。その後、その坂は観音坂と呼ばれるようになったもの。観音坂は豊後街道の一部として参勤交代の道となった。その後、観音堂は廃されたが、その際、この地蔵尊が観音坂の途中に置かれたものと思われる。

熊本城築城前の茶臼山の絵図(上の方にクアンノン堂という文字が見える)

 通知書には今月末を期限とすると記載されているが、どういう帰結を見るのだろう。場合によっては四百年の歴史の証がまた一つ失われるのかもしれない。


豊後街道 ~立田口構(たつだぐちかまえ)~

2023-05-19 20:30:56 | 熊本
 現在、国道3号線浄行寺交差点から子飼橋までの道路拡幅工事が進められている。これに伴い坪井の立町通りも拡幅の計画だという。既に用地買収され建物が解かれた箇所もあり、立田口大神宮の赤鳥居をくぐる道は脇道が設置され一方通行になる予定だそうだ。しかし、残りの用地買収は難航しそうだ。

 立町通りのこの辺りは、旧藩時代、豊後街道の立田口構が置かれたり、参勤交代行列の供揃えをする勢屯りがあった地点。大津街道(豊後街道)の杉並木はここから大津宿まで約四里にわたって続いていたという。
 この歴史ある立町通りが拡幅工事でどのように変貌するのか見ものである。


立田口大神宮の赤鳥居




四里にわたって続く杉並木を進む肥後細川藩の御行列



 万延元年(1860)10月の13代当主細川韶邦公の初御入部を描いた「御入国御行列之図」。「建町構」や「立田口構」の文字が見える。坪井竪町の立田口大神宮の赤鳥居前。跳ね上げ式の簀戸口が設けられ、御行列の到着を待つ家来たちが警備に当っている。


天草四郎伝説

2023-05-17 21:28:00 | 歴史
 今夜放送された「世界の何だコレ!?ミステリー」(フジTV)では天草島原の乱を率いたという天草四郎伝説のナゾを取り上げていた。
 番組では原城に籠城した3万7千人の一揆軍のほとんどが天草四郎を見たことがなく、存在そのものが疑われていたという話や、四郎は5人の浪人たちに操られていて、四郎の出現を預言した宣教師の話も彼らによってでっち上げられていたという話などが紹介された。
 一揆軍を率いた一人がキリシタン大名小西行長にかつて仕えていた森宗意軒という人物。以前、このブログでも紹介したことがあるが、わが家の近くに森宗意軒のご子孫がおられる。元航空自衛隊のパイロットで退官された後、家業の米穀店を永年経営、昨年末ご高齢のため閉店された森さんがその人である。僕の高校の大先輩でもあり長くご好誼を賜っている。実はわが先祖の中に細川忠利軍の一員として天草島原の乱で戦死した先祖もいるので微妙な関係でもあるのだが、まぁ時代のうねりの中に巻き込まれた者同士ということで割り切っている。


天草四郎らが天草から島原へ向かった乗船之地(天草郡苓北町坂瀬川 ※阿部正直さん撮影)

 天草四郎の出身地大矢野島、現在の上天草市の天草四郎「生誕400年」記念事業PR特命大使の舞踊団花童によるPV動画「天海」。
 ロケが行われた「湯島」は天草島原の乱で天草四郎や森宗意軒らが軍議を行なったといわれ、別名「談合島」とも呼ばれる。また近年では「猫島」としても知られる。


熊本の風景今昔 ~徳王の追分石~

2023-05-16 20:43:22 | 歴史
 熊本市内から北へ伸びる県道303号四方寄熊本線を植木方面へ走って行くと、ロッキースーパー徳王店を過ぎた辺りに左斜めに入って行く分かれ道がある。この分岐点には今でも追分石が置いてあるが、ここがかつての豊前街道と高瀬へ向かう木留道の追分である。追分石にはこう書かれている。

「是より左きとめ通きちしこえたかせへのみち」(これより左 木留道 吉次越え 高瀬への道)

 つまり、「ここから左折すると、木留(現在は植木町木留)を通って吉次峠を越え、高瀬(現在は玉名市高瀬)へ向かう道」という意味だ。今では地元の人でも、かつてここが重要な街道の追分であったことを知らない人が多いそうだ。吉次峠は西南戦争の激戦地。真っすぐ豊前街道を進んでも植木町の田原坂方面へとつながっているのでいずれにしても西南戦争当時はさぞや多くの人馬がこの追分石の前を行き交ったことだろう。この石もいつの日か人知れず捨て去られるのかもしれない。


現在の徳王追分と追分石


追分石


昭和初期(?)の徳王追分と追分石