神戸の空の下で。〜街角の歴史発見〜

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

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姫路・網干神社。

2014年11月01日 | □兵庫県 -姫路
商売繁盛・漁業安全・家内安全・勝利祈願

網干神社

(あぼしじんじゃ)
姫路市網干区新在家366


通 称
戎さん
(えべっさん)



網干神社の鳥居。350年以上の歴史を持つお社です。


〔御祭神〕
‐主祭神‐
事代主神
(ことしろぬしのみこと)

 
‐配祀神‐
住吉大神・大国主神・塩竈大神・宇賀御霊大神

 


 山陽電車網干駅から国道250号線を越え、東雲橋を渡った南側に姫路市網干区新在家地区があります。「網干」は「あぼし」と読み、その地名は「ちょうちん祭り」で有名な魚吹八幡神社放生会に由来します。「放生会」とは捕えた魚や鳥獣などの生き物を解き放って殺生を戒めるという儀式の事で、この放生会が行われる日には地域の氏子の漁師たちは一斉に漁をやめ、網を干して神社に参拝をしたことから「網干」という地名がつけられたといわれています。この辺りは瀬戸内海に面していて温暖な住み良い土地だったため、古来より多くの人々が住み着いて沿岸漁業や海苔の養殖などで生計を営んでいました。さらに遠浅だったこともあって沿岸部の干拓が古くから進められ、内陸から沿海部にかけて古くから多くの神社仏閣が建てられて人々の崇敬を集めてきました。その中の一つが今回ご紹介する網干神社です。




 


網干神社の拝殿。播磨地区の神社の通り、鳥居から拝殿、本殿へと一直線上に建立されています。


 


 もともと網干地区は江戸時代の初め頃には姫路藩の領地とされていましたが、1637(寛永14)年になって龍野藩に編入されます。さらには丸亀藩の藩主を務めていた山崎氏が断絶したのに従って当時の龍野藩主・京極高知公が1658(万治元)年に丸亀へと移封された際、網干の西側の興浜地区28ヶ村の1万石分がそのまま京極領として残されて丸亀藩の飛び地扱いとされるなど、領有関係が入り組んで複雑化していました。網干神社はその複雑な領地の中の龍野藩側の地・新在家地区に鎮座しています。

 網干神社の創建は江戸時代中期の1760(宝暦10)年と伝えられています。もともとこの地には小さな蛭子社があったそうで、新在家に住んでいた利左衛門という者がその祠を守っていたと伝えられています。利左衛門の家は厳しい貧困に苦しみ、妻が子どもを残して実家に戻ってしまうなど苦労の絶えない日々でしたが、蛭子神への信仰を支えに細々と暮らしを営んでいました。やがて利左衛門は生涯を閉じますが、息子の甚次郎は幼い頃から魚売りに精を出して家計を助け、長じては備前国・美作で行商に励み、実直で誠実な働きによって遂には財を成して成功を収めます。
 父親と同じく信仰心が篤く、蛭子神への崇敬を続けていた甚次郎は、1760(宝暦10)に手に入れた財を元に蛭子神を祀る神社を創建します。これが網干神社の起こりで、もともとは戎神社新在家戎神社とも)と呼ばれていました。以来長らく近隣の民衆の尊崇を集め栄えてきましたが、明治時代に進められた神社合祀政策の影響を受けて1909(明治42)年に近隣の大国神社宇賀神社との合祀が行われ、「網干神社」と改称されて現在に至っています。毎年1月10日には例祭「日本戎祭が、そして7月19・20日には「夏戎祭」が行われています。

 



 

 
拝殿の奥に鎮座する本殿(左)と、社殿の西隣にある石組み(右)。
 
社殿西側には屋根の付いた立派な土俵があります(左)。右は鳥居脇の手水舎(右)。

アクセス
・山陽電鉄網干線「山陽網干駅」下車、南へ徒歩15分。


網干神社地図 Copyright(C)ZENRIN CO.,LTD.Copyright   Copyright:(C) 2014 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.

境内図

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放


 

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