徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

楽しみな秋のイベント

2021-09-30 12:34:41 | イベント
 明日から10月。熊本県の「新型コロナウイルスまん延防止等重点措置」も解除となり、熊本城特別公開の再開を始め、秋のイベントもボチボチ始まるようです。
 熊本市の市政だより10月号に掲載されたイベント情報のうち、興味のあるものをピックアップしてみました。






祇園小唄/鴨川小唄

2021-09-29 17:49:17 | 音楽芸能
 鶴屋百貨店の大京都展は今年が51回目。開催を危ぶむ声もあったそうだが、感染防止対策を施して今年も予定通り始まった。第一日目恒例のオープニングステージ、舞妓さんによる舞披露が1Fのサテライトスタジオで行われ、今年は京都五花街のうち先斗町の舞妓市琴さんが「梅にも春」「紅葉の橋」「祇園小唄/鴨川小唄」の3曲の舞を披露した。「祇園小唄」は京都五花街を象徴する曲だが、「鴨川小唄」は先斗町で唄われる曲。しかし、実は2曲とも熊本ゆかりの作家・長田幹彦の作詞である。
 市琴さんは2年前郷里の青森から京都へやって来たという17歳の新進舞妓さん。1年前にお見世出しとなったそうだが、何せコロナ禍の真っ最中、腕を磨いた舞を披露する場がなくなり、先斗町の舞踊公演「鴨川をどり」も昨年は中止。今年6月、やっとオンライン公演「鴨川をどり」で初舞台を踏んだという。今日の舞台もとても緊張したそうだ。


伝統工芸館裏の坪井川船着場調査

2021-09-27 18:00:57 | 歴史
 9月18日の弊ブログ記事「お殿様の緊急避難ルート」に関し、熊本博物館の学芸員・中原幹彦さんに見解を質していましたが、来月、現地調査に同道していただけることになりました。どんな結論が導き出されるのか大いに楽しみです。


坪井川船着場の痕跡と思われる石積み


 中原幹彦さんとの接点は、昨年8月の熊日新聞に掲載された、二の丸屋形跡(現在は旧細川刑部邸が移築されている所)の石垣に、まるで竜をかたどったように見える石の並びが見えるという記事に興味が湧き、現地で確認していたところ、偶然、熊日記事の情報発信元である中原さんが向かいの博物館から出て来られ、懇切丁寧に説明をしていただいたのがきっかけです。


熊日新聞記事より



七五三詣り

2021-09-26 20:48:11 | 日本文化
 最近、土・日のどちらかは加藤神社への参拝を兼ねて熊本城周辺を散歩することが多い。先週あたりから家族づれの七五三詣りが増えてきたようだ。加藤神社拝殿脇のバンコに腰かけてしばらく参拝風景を眺めて時間をつぶす。可愛い子供たちに癒されながら、つい自分の子供や孫たちが七五三詣りをした日のことを思い出す。防府天満宮、東村山の八坂神社、久留米の水天宮など、転勤先での七五三詣りが懐かしい。
 無邪気にはしゃぐ子供たちを眺めながら、この子たちもあっという間に成長し、今日の晴れやかな一日も遠い昔の思い出になってしまうのだなぁ・・・


好天に恵まれ、家族づれの参詣者が次々と。


可愛いポーズで記念撮影

ブラタモリ「水の国 熊本」

2021-09-25 22:29:54 | テレビ
 ブラタモリは何本も録画しているが、実は再見するのは少ない。そんな中で既に何度も再見したのが「水の国 熊本」編だ。
 火の国といわれる熊本が実は水の国でもあるという理由、その歴史と成り立ちをわかりやすく見せてくれる。
【番組】
 第一高校の校内にある「ASO-4」火砕流堆積の露頭から始まり、水前寺公園へ移動。まず、住宅地を流れる川岸から湧き出す清水に驚き、天下の名園「水前寺成趣園」へ。池の底から湧き出す水。その秘密を探りにとある地点へ。そこは阿蘇から続く台地のヘリにあたる場所。雨水が浸透しやすい火砕流堆積で濾過され、台地のヘリである水前寺辺りで水が湧き出す仕組みに納得。
 しかし、熊本の豊かな水の秘密はそれだけではない。それを探りに健軍水源地へ。そこにはなんと自噴する井戸が。タモリも初めて見たという。その水はどこから来るのか。実は「ASO-4」の下に「ASO-1」から「ASO-3」までの巨大な水がめがあるという説明に驚く。
 この後、タモリ一行は街中に戻り、加藤清正による治水の巨大プロジェクト、大蛇行する白川の河川改修の痕跡を見る。さらに菊陽町の「鼻ぐり井手」へ行き、コメを飛躍的に増産させたという清正の巧みな利水技術を知る。こうして熊本が水の国であることを認識するといった構成になっている。 




水前寺成趣園


水前寺川(上江津湖)


上江津湖



清正公の鼻ぐり井手


端唄の魅力

2021-09-24 20:19:42 | 音楽芸能
 2019年の「第25回くまもと全国邦楽コンクール」において端唄「綱は上意」で最優秀賞に選ばれた端唄三味線の﨑秀五郎さんが、東京浅草の辻屋本店さんのYouTube番組に出演され、端唄の魅力について語っておられます。端唄ファンとしては見逃せません。
 番組の中で秀五郎さんは幕末に始まった端唄について概ね次のような話をされています。
  • 端唄は他のジャンルのようにまずタイトルがあってそれに歌詞や曲を付けるのではない。
  • 端唄は庶民の中から自然と生まれた音楽で、後で最初のフレーズなどを通称として付けている。
  • 端唄から小唄や歌沢が枝分かれし、それぞれの特徴を生かしながら発展して行った。
  • 端唄は撥で三味線を弾くが、小唄は爪弾きする。
  • 都々逸は端唄の中の一つ。潮来節からよしこの節へそして都々逸へと進化した。名古屋の方で「あれは誰だ」から「ど、どいつだ」という囃子言葉から都々逸という言葉が生まれた。
  • 私は、端唄は小さくて深い世界、「手のひらに乗るような宇宙」と表現している。
  • 師匠の本條秀太郎さん曰く「端唄」とは「最先」である。

 また、お話とともに「梅は咲いたか」「都々逸」「車屋さん」「わが恋」「三下りさわぎ」などを披露されています。


父の生誕110年

2021-09-23 20:55:20 | 
 今年は父の生誕110年にあたる。先日彼岸の墓参りは済ませたが、今日は父が生まれ育った泰勝寺周辺を歩き回った。
 父は明治44年、熊本県飽託郡黒髪村大字下立田(現在の熊本市中央区黒髪4丁目)に生まれた。生家は立田山の麓、旧藩主細川家代々の菩提寺である泰勝寺の南側に位置していた。父は、この泰勝寺に住んでおられた長岡家にお坊っちゃまの友達として幼い頃から日参していた。父は7歳になるまでこの地で暮らし、祖父が亡くなった後、坪井へ引っ越した。
 僕が父に連れられてこの地を初めて訪れたのは昭和26年、5歳の頃だったと思う。父が幼時を過した時分とは随分様子も変わっていたに違いないが、それでも今日とは全く異なる景色が広がっていたことはハッキリと覚えている。数年前、京都市右京区にある祇王寺の苔庭の写真を見て、僕の記憶に残る父の生家跡とそっくりで驚いたことを思い出す。


僕が初めてこの地を訪れた頃はまだなかった森林総合研究所九州支所。父の生家はこの道の辺りだったかもしれない。


数年前、記憶に残る父の生家跡とそっくりで驚いた京都市右京区にある祇王寺。
この写真は「神戸の空の下で。~近畿の史跡めぐり~」というサイトで発見。管理者にお願いして転載させてもらったもの。



幼い父が毎日通っていたであろう泰勝寺への虎口。


ついでに小峰墓地へまわり、ラフカディオ・ハーンゆかりの石仏(鼻欠け地蔵)に手を合わせる。

豊前街道筋 出京町

2021-09-22 21:32:08 | 熊本
 熊本市西区の出町(出京町)は現在、旧豊前街道(現県道303号線)に面した東側だけが出町という町名になっているが、江戸時代の町図を見ると、街道の両側にズラッと並んだ町家はみんな出町で、道が右に緩やかにカーブする辺りから先を新出町と呼んでいたようだ。現在、スーパーのマックスバリューの辺りが出町の北限で、そこから北方向は加藤清正時代に開削された「切通し」の道が続く。
 そもそも出町は京町番所の空堀の外に京町の出張りとして作られた町で、城下町と見なされていた。僕らが子供だった頃は普通に「出京町」と呼んでいた。小学校が京町と出町の境界に近く、小さい頃から京町と出町の別は意識しなかった。個人的には幼い頃お世話になったお手伝いさんが出町に住んでおられたことも親しみを感じた理由かもしれない。
 町のシンボルは往生院と大久保醤油の二つ。辺りは常に醤油の匂いが漂っていた。


かつて京町番所や空堀があった地点


7、8年前まで空堀の一部が残っていた。




町のシンボル・往生院(熊本地震前)


毎年2月末の往生院の開山忌は出店が並び大勢の人で賑わった。


大久保醤油(現フンドーダイ)


出町の先は切通しの道


戦後間もない頃まで見られた光景(山伏塚付近)

出町の米穀商・塩津家から塩津清人、塩津哲生、塩津圭介と三代の能楽師を輩出。

能「高砂」で後シテの住吉明神を演じる塩津圭介さん

敬老の日と熊本城

2021-09-20 20:51:58 | 
 今日は「敬老の日」。母のお祝いのことしか考えていなかったが、よくよく考えてみればわれわれ夫婦も対象者。町内会からお祝いの品が届いていた。「老々介護」ならぬ「老々祝い」ってか。

 それはさておき、午前中に熊本城二の丸広場周辺を散歩した。日差しが強く、日陰伝いに歩くような有様。それでも確かに夏ではない、秋の空気を感じる。
 熊本地震で「V字崩壊」した西出丸の戌亥櫓の石垣に人影が。除草作業をやっているようだが、復旧工事の準備なのだろうか。5年間放置された状態だったので一日も早く復旧工事に着手してほしい。
 二の丸広場は相変わらず閑散としている。例年だと「秋のくまもとお城まつり」がそろそろ始まる時季。多くの人々が行き交っていた風景が遠い昔のように思われた。


日差しは強いものの確かに秋の空気を感じる。


戌亥櫓の石垣で何やら作業をする人。復旧工事が始まるのだろうか。


二の丸広場は相変わらず閑散としている。

秋の夜のジャズ随想

2021-09-19 22:44:30 | 音楽芸能
 近頃、ジャズを全然聞かなくなったことに気づいた。若い頃はジャズ喫茶にもよく通って、店のオヤジのジャズうんちくに耳を傾けながらコーヒー1杯で粘ったものだ。今日は特に思い出深い曲をYouTubeで選んで聞いてみた。
 
 学生時代にハマっていたのがラムゼイ・ルイス・トリオの「The In Crowd」。大ヒットしたが古いジャズ通の間では賛否両論あった。今聞いてみてもノリの良さは絶品だ。

学生時代にハマったラムゼイ・ルイス・トリオ


 社会人になって間もない20代の頃は渡辺貞夫にハマった。ライブに何度か行ったが、増尾好秋や鈴木良雄らと一緒にやっていた頃だった。渡辺香津美もいたかな。フュ―ジョンが流行語になっていた。ナベサダは88歳となった今でもかくしゃくとして現役のミュージシャンを続けておられる。ただただ尊敬しかない。
 鈴木良雄といえば、谷汲観音で知られる熊本の浄国寺に時々ライブに来られるらしい。ご住職とジャズ仲間だそうだ。

20代にハマってライブにも行ったナベサダ


 ジャズの起源をさかのぼれば、アメリカはニューオーリンズのクレオール音楽に行き着くらしい。熊本ゆかりのラフカディオ・ハーンはジャーナリストとしてニューオーリンズにいた頃、民俗研究に勤しみクレオール音楽を採集していたという。彼はまさにジャズ誕生の現場にいたわけだ。

ジャズの起源クレオール音楽の一つの完成形ラグタイム(スコット・ジョプリン)


 おまけに1曲。ラフカディオ・ハーンは日本に来てからも日本の民俗を研究したが、その中でわらべ歌や民謡、俗謡なども採集した。その一つが千葉県民謡「銚子大漁節」。

ラフカディオ・ハーンが日本の民俗音楽の一つとして採集した「銚子大漁節」。


お殿様の緊急避難ルート

2021-09-18 22:41:06 | 歴史
 今日は散歩で熊本県伝統工芸館(中央区千葉城町)の前を通りかかった時、ふと館の裏側のことを思い出してちょっと立ち寄った。閉館時間を過ぎていたので職員さんにひと言声かけして建物の裏側へ回った。地階への階段を降りるとそこは木々や草が生い茂り鬱蒼としているが、その昔、坪井川の船着場があったところ。工芸館の辺りには藩の米蔵があり、高瀬舟で運んだ米をここで積み降ろして搬入していたのだろう。


熊本県伝統工芸館


地階へ降りる階段


古めかしい石積みが残っているが、坪井川の護岸だったのだろう。


 また、いざという時に主君が緊急避難する際、不開門(あかずのもん)を通って駆け下り、ここから舟で脱出する手筈になっていたとも伝えられる。
 熊本城築城に携わった高瀬の大工棟梁・善蔵が語った「大工善蔵より聞覚控」という古文書には次のように書かれている。

――それから昭君之間のうしろに機密の間があつたこつも覚へとる。壁がめぐる仕掛けで壁が一帳きりつとめぐると床の高さ六尺ばかりのところから細か梯子で下に降りって女の髪の毛で練り合わせた綱にすがつて下に降りそれからつまる所は不浄御門から小豆坂に出るやうになつておつた。――

 前段の「どんでん返し」の話は、復元された本丸御殿にはそういうものはないので何とも言えないが、本丸御殿の式台之間には闇り通路へ降りる階段があり、隣の鶴乃間にも階段の跡があったので、本丸御殿からの脱出は割とスピーディーにできたかもしれない。小豆坂(あずきざか)というのが痕跡が残っていないので場所を特定できないが、上の写真の石積みと何か関係あるかもしれない。
 なお、不浄御門というのが不開門のこと。


不開門(熊本地震で倒壊する前)


不開門からこの坂を駆け下る。

人吉の旅から10年

2021-09-17 20:49:39 | ファミリー
 先日、KKT(くまもと県民テレビ)の夕方ニュースで、昨年7月の豪雨被災から立ち直り、来月の仮オープンを控えた人吉旅館の状況を娘嘉恵さんの視点からリポートした。

 わが兄弟姉妹4組の夫婦連れで、母の卒寿祝いとして人吉方面へ旅行し、人吉旅館に宿泊してからやがて10年。母は今年、白寿を迎え、来年早々には百歳を迎える。しかし、一緒に旅行に行った義兄(姉婿)は4年前、弟も今年3月に母より先に旅立ってしまった。母は、寝たり起きたりではあるが元気に過ごしている。母に1日でも長生きしてもらうためには僕たちが元気でいなくてはならない。

 人吉旅館の仮オープンを祝い、復旧とさらなるご発展を心よりお祈りしたい。機会があれば再訪したいものだ。テレビのリポートを見ながら、この10年の移ろいに感慨深いものがあった。

     ▼10年前の人吉旅行より






     ▼今回のテレビリポートより




   ▼嘉恵さんのザ・わらべ時代の映像

ある農夫に話を聞く

2021-09-16 19:06:18 | 熊本
 今日は初秋の風景を見て回ろうと車で家を出た。結局、菊鹿町の「番所の棚田」まで足を延ばした。彼岸花は七部咲きとのことだが、主役はやはり稲。今年もまた休耕田が増えたようだ。12年前、初めて訪れた時、「ここは天国か!?」と思ったほど、この世のものとは思えぬ黄金と真紅の鮮やかなコントラストの棚田が鮮明に思い出される。年々、美観が衰えていくのが残念だ。
 「番所の棚田」を降りて上内田川に沿って下る途中、今回も上内田神社にお詣りしていこうと農道を進んで行くと、一人の年老いた農夫が畦道で休憩しているのが見えた。少し通り過ぎてから車を停め、車を降りて声をかけた。
「ご苦労さま!今日は何のお仕事ですか?」
「畦道の草刈ばしよります。」
 近くで顔を見ると僕よりだいぶ年上に見える。
「失礼ですが、おいくつですか?」
「84になります。」と照れたように笑った。
「お一人でやっておられるのですか?」
「ハイ!」
「田んぼはどのくらいの広さですか?」
「五反ですたい。」
「それは大変ですね~。後継者はおられないのですか?」
「息子がおりますばってん、勤めに出よります。」
「まだ息子さんに継がれないんですか?」
「ワシが動けんようになるまではやろうと思うとります。」
 それからしばらく世間話をした後、時間を取らせたお礼を述べ、
「くれぐれもお気をつけください!」と声をかけて別れた。
 日本の農村の現実を見た気がした。


上内田の稲田と神社


番所の棚田

「男なら」のはなし。

2021-09-15 18:59:11 | 音楽芸能
 民謡歌手の水野詩都子さんが、先週に続き、NHK FMラジオ「民謡をたずねて」の第三週目に出演されます。今回は山口県民謡の「男なら」を唄われます。先週唄われた「ヨイショコショ節」と同じ幕末長州ものですが、曲は「おてもやん」と同じ「そうじゃおまへんか節」系といわれています。

 放送日:9月16日(木)17時30分~18時

 この「男なら」は文久3・4年(1863・1864)に攘夷思想にはやる長州藩と英仏蘭米の列強4国との武力衝突事件、いわゆる「馬関戦争」の際、外国船の攻撃に備え、萩の菊ヶ浜に土塁を築いた武家の妻女たちによって唄われた作業唄だと伝えられています。「おなご台場」とも呼ばれるこの土塁を築いた女たちの唄が「男なら」なのです。

 この「男なら」を僕が初めて聞いたのは、高校3年生だった昭和38年の山口国体の時でした。宿舎となった美祢市の旅館で地元の女性の皆さんが、この唄と踊りを披露されました。それ以来、僕にとって山口県の民謡と言えば「男なら」なのです。
 ところが、10年ほど前、久しぶりに「男なら」を聴きたくなってYouTubeで探したのですが、出てくるのは「よさこいバージョン」ばかり。少々頭にきて、山口県文化振興課に、いったいホンモノの「男なら」はどこで聴けるのか、とクレームまがいのメールを送りました。担当者もこちらの趣旨を理解されたようで、県内の関係団体などを調べ上げた懇切丁寧なお返事のメールをいただきました。そのメールに添付されていたのが下の写真です。

 やっぱりこの唄は女性に唄っていただきたい。明日の放送が楽しみです。


毎年2月、萩観光シーズン開きで披露される「男なら」(萩城趾指月公園)

 「男なら」にはいろんな歌詞がありますが、共通しているのは次の歌詞です。

お八旛(はちまん)さんと祖母

2021-09-14 20:29:52 | 歴史
 今日は本来ならば藤崎八旛宮例大祭の飾馬飾卸(かざりうまかざりおろし)の日。神幸行列の中止に伴い、飾馬飾卸も中止された。本番の神幸行列以上に毎年楽しみにしていたので残念無念。
 昭和52年(1977)に他界した祖母は、明治16年、藤崎宮に程近い一番被分町(現在の水道町)に士族の子女として生まれ育った。藤崎宮が藤崎台から井川渕に遷座したのは西南戦争の翌年、明治11年だが、本殿が整ったのは明治17年といわれているので、祖母は新しい藤崎宮とほとんど同じ時代に生まれ、生きてきたとも言える。
 幼い頃から「お八旛さん」と呼び、産土神として藤崎宮を篤く崇敬してきた祖母にとって例大祭は特別な大まつりだったのだろう。「随兵寒合(ずいびょうがんや)」と呼ばれる朝晩が急に冷え込む時季のこのまつりにはいつも祖母は、赤飯、マンビキの煮びたし、甘酒を作って祝った。そんな風習があったことすら忘れかけている。

【過年度の飾馬飾卸風景】