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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

小淵ってドコ?

2025-05-05 22:15:01 | 歴史
 大先輩のFさんから宿題を与えられている。それはかつて古式泳法の水連場として使われていた白川の淵のことである。以前、僕自身興味があったので、天神淵、八幡淵、傘淵については現地にも行ってこのブログ上にリポートした。今回、Fさんはそれ以外に「小淵」というのがあったと聞いていると仰る。「小淵」は初耳だったが、たしかにその名が見える文献もあるようだ。ネット検索や図書館に出向いて調べてみたが全然手がかりが見出せない。さらには国土省の白川出張所や熊本市の歴史文書資料室にも問い合わせてみたが、いずれも「小淵」についての資料が見つからないという返事だった。
 今日ふと思いついて、以前、天神淵を調べに訪れたことのある渡鹿の菅原神社に行ってみた。間がいいことに宮司さんの奥様が境内におられたのでおたずねしてみた。奥様も聞いたことがないと仰る。しばらく淵談義に話が弾んだが、奥様が突然思い出したように「渡鹿堰の大井手取水口辺りが深みになっていたのでは…」と仰った。大井手取水口は現在、コンクリートの構築物になっているが、昔はおそらく全然違う姿だったと思われる。今日は確認するまでには至らなかったが、何となく答えが見えてきたような満足感で帰路についた。


渡鹿菅原神社・水分(みくまり)神社


天神淵があった辺り


渡鹿堰と大井手取水口

大浜外嶋住吉神社年紀祭が15年ぶりに!

2025-04-03 21:26:09 | 歴史
 5年前、母のふる里である玉名市大浜町に伝わる10年に一度の祭り「外嶋住吉神社年紀祭」が、新型コロナウイルス禍で延期された。そして5年経った来月、15年ぶりに開かれる。
 外嶋住吉神社は、延久元年(1069)創建といわれ、航海を守護する三神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)に阿蘇の健磐龍命を合せ祀り、約千年の間、大浜町の産土神として人々の尊崇を集めてきた。
 この神社の年紀祭は、五穀豊穣のほか、年貢米や農産物を大坂へ運ぶ船の航海安全と豊漁を祈願するためのものといわれる。江戸時代中後期、大浜町は大坂へ肥後米を積みだす高瀬港の外港として栄えた。往時の繁栄をしのばせる大規模な祭りで、玉名市重要無形民俗文化財に指定され、また菊池川流域日本遺産の構成文化財にもなっている。




石は釣って持つ 釣って持つ石は・・・

2025-03-18 21:11:11 | 歴史
 昨夜放送された「解体キングダム」(NHK総合)では、現在解体工事が進む熊本城宇土櫓を取り上げた。中でも櫓を支える石垣の解体では、最も大きな隅石(すみいし)の撤去に当って、他の石を傷つけないようクレーンから下ろしたワイヤーを一本だけ掛ける「一本吊り」という技術が見られた。石の重心を読みとるまさに匠の技だ。
 現代ではクレーンなどの重機を使うことができるが、重機などなかった加藤清正が熊本城を築城した400年前、大きな石はどうやって運搬し、どうやって石積みをしたのだろうか。下の「城びと」サイトの絵図でおおよそのことはわかるが、基本的に人力で石を引っ張り、人力で吊り上げていたのである。先人たちの苦労は並大抵ではなかったに違いない。あらためて敬意を表したい。

 ちなみに「伊勢音頭」の「伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ」というお馴染みのフレーズは、実は「石は釣って持つ、釣って持つ石は、尾張名古屋は城で持つ」という加藤清正が名古屋城を築いた時に歌った木遣唄が原形であるということが、「伊藤整全集第23巻」に収録されている随筆「観海流発祥地の水難」の中に土地の物知り談として書かれている。


「解体キングダム」の一場面


「城びと」サイト 「超入門! お城セミナー」より

石の運搬には舟運を利用した「石釣船」も使われた。

「農具便利論 第3巻」より


「石は釣って持つ、釣って持つ石は 茶臼お山の城に持つ」と歌う熊本城築城400年祭に作られた創作舞踊曲のイントロダクション。

熊本放送局の歴史

2025-03-06 19:35:56 | 歴史
 今年は放送が開始されて100年ということで、NHKアーカイブスでは「NHK放送100年史」と題したサイトを設け、放送の歴史を振り返っています。
 1925年(大正14年)3月22日、「ああ、あー、聴こえますか。ああ、あー、聴こえますか。JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。……」という第一声が東京・芝浦より発せられ、放送の歴史が始まりました。
 その3年後の1928年(昭和3年)6月16日、九州で最初の放送局、熊本放送局(JOGK)が放送を開始しました。
 下に歴代の放送局の写真を掲載しましたが、僕の思い出は幼稚園の頃、現在、熊本市役所の駐車場ビルの辺りに初代の熊本放送局がありましたが、千葉城町の熊大附属幼稚園から先生や数名の園児たちと一緒に歩いて来て、スタジオで童謡を歌いました。当時はナマ放送でしたのでスタジオはピリピリした緊張感が漲っていたことを憶えています。この地にはJOGK(熊本放送局)放送発祥の地の記念碑が建てられています。


初代NHK熊本放送局(城見町 昭和3年6月~昭和38年3月)


熊本市役所裏・立駐の前にある初代放送局の跡碑


2代目NHK熊本放送局(千葉城町 昭和38年3月~平成29年6月)


3代目NHK熊本放送局(花畑町 平成29年6月~)

 熊本放送局が開局間もない昭和3年7月19日、柳川に帰郷していた北原白秋が招かれ、開局記念特別番組が放送されました。その時、白秋は荒尾の少女海達公子を伴っていました。文芸誌「赤い鳥」で童謡・自由詩の選者を務めていた白秋は、応募者の一人であった小学生の公子の詩才を高く評価していました。白秋は自分の愛弟子ということで連れて行ったのですが、それがきっかけとなり、2ヶ月後の9月24日、熊本放送局の番組「コドモの時間」に荒尾北尋常小学校の児童が出演。公子の談話「児童自由詩の作り方」が放送されました。
 
北原白秋と海達公子

花魁道中のはなし。

2025-02-26 21:56:15 | 歴史
 大河ドラマ「べらぼう」の中でも目玉シーンのひとつが花魁道中。
 まずはその撮影シーンをご覧ください。
 ※下の画像をクリックするとInstagramの動画に飛びます。



 NHK大河ドラマの舞台が吉原遊郭であることについては賛否さまざまなご意見があるようです。
 熊本でも春秋のお祭りには「花魁道中」が行われていますが、遊女を主役とするイベントには苦情も多かったようで、運営スタッフの方の悩みをお聞きしたこともあります。最近は各地のお祭りで行われているようですが、華やかなムードを盛り上げるのには格好のイベントになっているようです。
 熊本では、昭和10年(1935)の「新興熊本大博覧会」の際に、二本木遊郭で実際に花魁道中が行われた記録が残っていますが、まもなく戦時体制に入ろうかという時期なので、これが熊本最後のホンモノの花魁道中だったのかもしれません。
 イベントとしての「くまもと花魁道中」のキーワードは「地」。花魁始め振袖新造、禿に至るまで出演者はすべて「地髪」。そしてナマの「地」の演奏(唄・三味線・囃子)が雰囲気を盛り上げます。せっかくやるならできるだけホンモノに近づけようという考え方です。


熊本城城彩苑での「くまもと花魁道中」


鐘ヶ淵のはなし。

2025-02-24 21:54:08 | 歴史
 今日の午後、近場の梅の咲き具合でも見に行こうと歩いて出たのだが、あまりの風の冷たさに心が折れ、車で回ることにした。最近あまり行っていない横手の寺巡りでもするかと妙永寺に車を停めた。その時、ふと「鐘ヶ淵(かねがふち)」のことを思い出した。先日、古地図でその名を見つけた。たしか、妙永寺の裏あたりだったなと歩いていくと旧河道の畔に案内板がすぐに見つかった。
 その昔、ここら辺は井芹川が流れていて大きな淵があり、船着場にもなっていたらしいが、雨乞いの儀式のひとつで鐘を淵に沈める慣わしがあったことから「鐘ヶ淵」と呼ばれるようになったらしい。(詳しくは下の案内板を参照)

 余談だが「鐘ヶ淵」と聞くとテレビ時代劇「剣客商売」を思い出す。主人公・秋山小兵衛の住まいが江戸の「鐘ヶ淵」という設定になっている。「鐘ヶ淵」は隅田川と荒川に挟まれた一帯らしいが行ったことはない。ただ、この時代劇のロケが行われたのは滋賀県の西の湖で、そちらの方は彦根在住の頃、何度も近くを通ったことがある。
 江戸の「鐘ヶ淵」の由来は知らないが、きっと由緒ある来歴があるのだろう。





お国かぶき お江戸デビューの日!

2025-02-20 17:38:45 | 歴史
 江戸時代初期に書かれた史書「当代記」によれば、慶長12年(1607)の2月20日に、お国かぶきは江戸に招かれ、江戸城本丸・西の丸で勧進かぶきを行なった。慶長8年(1603)、京の都で、出雲の巫女であった国と名のる女芸能者により始まったかぶき踊りは大評判となり、その4年後、ついに能・狂言に次ぐ位の芸能として認知されたのである。この1週間前の2月13日からは、同じ場所で観世・金春の勧進能が行われており、お国は能役者とほとんど同格の扱いを受けたという。
 ところで、出雲大社の巫女出身であるという「出雲のお国」の呼び名が一般に定着したのは、なんと明治時代になってからのようで、また、「出雲のお国」というのは舞台での名乗りにすぎず、彼女の出自が本当にそうであったかどうか疑わしいとする説もある。お国が諸国に下った時はその場所に応じて異なる肩書を名乗っていたとする研究者もいる。江戸城での勧進かぶきから3年後、加藤清正に招かれ肥後熊本へやって来た「八幡の国」の名乗りも腑に落ちる。


 昭和時代に活躍した日本画家・森田曠平(もりたこうへい)の作品「出雲阿国(いずものおくに)」の一部

 江戸時代初期、京の都を騒がせていた「傾奇者(かぶきもの)」に扮した男装のお国が史料に基づく風体で描かれている。お国のファッションは今日的な目で見ても洒落ていて、黒塗笠には蒔絵が施され、濃紫の羽織に金襴の襟が映える。紫の帯には小刀を差し、身の丈ほどもある大刀は無造作に肩に担ぎ、腰にぶら下げた瓢箪と印籠にも蒔絵が施されているようだ。そして首から下げた水晶のコンタス(ロザリオ)がいかにも時代の先端を走る「傾き者」の伊達心を表している。森田の美人画の特徴は何と言っても女性の目の鋭さ。

 阿国歌舞伎は大別すると「ややこ踊り」「茶屋遊び」「念仏踊り」の三つが主要な演目だといわれているが、一部の題名や詞章が伝えられているだけで、音楽や舞踊についてはほとんどわかっていない。「ややこ踊り」は初期の演目で若い女性による舞踊。狂言小舞などの中世芸能をもとにしたとみられ、「小原木踊」や「因幡踊」などを演じていたらしい。「念仏踊り」も初期の頃からやっていた演目で、首から提げた鉦を叩きながら念仏を唱え踊る。もともとは仏教の行を芸能化したもの。「かぶき踊り」はまさにお国が今日の歌舞伎の祖たる所以となった芸能。お国が男装して「傾奇者」に扮し、茶屋に遊びに行くという寸劇。それを迎える「茶屋のおかか」は男性が演じ、性が倒錯した不思議な世界が展開するというもの。

阿国歌舞伎の「念仏踊り」を創作舞踊「阿国歌舞伎夢華」の中で長唄舞踊化

稲葉内記の配流屋敷

2025-02-13 22:54:15 | 歴史
 ブログ「津々堂のたわごと日録」さんの昨日の記事「春日局の息・稲葉内記の配流屋敷」には強い興味を抱いた。大まかに言うとこんな内容だった。
 徳川3代将軍家光の乳母であり、大奥を任せられて権勢をふるった春日局(かすがのつぼね)。その実子・稲葉内記正利は仕えていた徳川忠長(家光の弟)の素行不良による改易に連座して罪を負った。春日局と親しかった細川忠利が藩主を務める肥後熊本へ配流となった。最終的に配流屋敷となったのが京町の赤尾丸城跡付近の屋敷。ここは西に金峰山を始め西山の山並みを望む小高い丘の上。すぐそばには加藤清正の殯の丘もある。

 津々堂さんは以前から配流屋敷の位置を調べておられたらしいのだが、最近、江戸前期の「京町之絵図」でその位置を確認されたという。記事に貼られた「京町之絵図」を拝見し、赤枠で示された「稲葉内記の配流屋敷」の跡を現地で確認したいと思った。最初は「京町之絵図」の「稲葉内記の配流屋敷」と「京町番所」周辺の空堀との距離から、もっと北の方かと思ったが、絵図上の赤尾口の坂と思しき道や赤尾丸城跡との位置関係を見ながら、民家が建て込んだ周辺を歩いてみた。痕跡らしきものは何もないので、おそらくこの辺だろうと見当をつけていると、地区の住民の方に出会ったのでおたずねしてみた。予想どおり「稲葉内記の配流屋敷」など初耳だと言われた。
 わが家の近くにもまだこんな歴史が埋もれていることに驚くとともに、新たな興味が湧いて来た。


赤尾丸城跡から北西方向を望む


「かむろ坂」のはなし。

2025-02-10 19:47:35 | 歴史
 昨年秋、約10年ぶりに新市街の松本外科内科医院へ母を連れて行った。この医院はかつて「かむろ坂」(下図参照)と呼ばれた道に面していた。ところが医院が北の方に移動したため、今では「かむろ坂」には面していない。
 以前、このブログで話題にしたことがあったのだが、その昔、鷹匠町と呼ばれていた一角にあった「かむろ坂」は、今日ではどう見ても平坦な道で「坂」ではない。これは日頃ご指導いただいている「津々堂のたわごと日録」さんによれば、藩政時代、藩主のお屋敷「花畑邸」の南側には馬の調練のための「追廻(おいまわし)」という馬場があり、その横の窪地を「追廻田畑」と呼んでいた。「追廻田畑」は旧坪井川の流路に沿った低地だったため、「追廻」と「追廻田畑」には高低差があり、その間をつなぐ道は当然坂道だったということのようだ。また、「追廻」と「追廻田畑」を区画する土手には桜が植えられ花見の名所でもあったそうだ。この一帯は下級武士の屋敷町があり、藩主の鷹狩り用の鷹を訓練する鷹匠の居住地区だったことから、南北に走る道は「鷹匠小路」と呼ばれ、後に一帯を鷹匠町と呼ぶようになったという。この窪地が埋められ、平地になったのは昭和20年の戦災で街が破壊された後の戦後復興の時だという。さらに津々堂さんによれば、「かむろ坂」の名の由来は、この坂で禿(かむろ)が転んだからだとか、低地で水を「かぶる」からだとかいう伝承があるとのこと。
 もう8年前になるが、肥後銀行本店の里山ギャラリーで行われた「永青文庫展3 永青文庫に舞う鳥たち」という展覧会を見に行った。鷹狩の絵巻を始め、鳥にちなんだ絵画、工芸、装束、古文書などの細川家のコレクションが展示されていた。その中で一つ、とても気になるものがあった。それは江戸前期の熊本藩の町図で、鷹匠や餌刺など鷹方が多く住んでいた高田原(今の下通・新市街辺り)の絵図だった。よく読めないのだが、各家の名字も記入してあった。その中に「禿(かむろ)」と読めるような家があった。受付で遠眼鏡のようなものを借りて確認したのだが判読できなかった。絵図に記入されている「禿?」という家名は、この「かむろ坂」と思われる位置に近い。もし、「禿」だとすれば、坂の名前と関係があるのではないかという気がした。


赤いラインの道がかつての「かむろ坂」


現在の「かむろ坂」跡の様子。

   大河ドラマ「べらぼう」にも多くの禿(かむろ:遊女が使う童女)が登場する。
こわらべ(あかね&ゆりあ)

「はやす」と言う語

2025-02-08 19:08:31 | 歴史
 先日放送された「鶴瓶の家族に乾杯」は山梨県丹波山村編。この村に移住していた芸人・俳優のマキタスポーツの妻に偶然出逢うというサプライズがあり、後日、マキタスポーツ夫妻が村を案内するという追加シーンも放送された。この追加シーンの中で紹介されたのが丹波山村の「お松引き」という年始の祭り。


 丹波山村の「お松引き」の風景を見ながら、だいぶ前に読んだ折口信夫の「万葉集研究」を思い出した。この中の「魂はやす行事」という條に次のような一節がある。

--私ははやすと言ふ語について、別に言うて居る。 祇園林(ギヲンバヤシ)・松囃子・林田楽(ハヤシデンガク)などのはやしが、皆山の木を伐つて、其を中心にした、祭礼・神事の牽き物であつた。 山(ヤマ)・山車(ダシ)の様な姿である。 此牽き物に随ふ人々のする楽舞がすべてはやしと言はれたのだ。 「囃し」など宛てられる意義は、遥かに遅れて出来たのである。 山の木を神事の為に伐る時に、自分霊を持つものとして、かう言うたのである。 --

 つまり、今日、祇園囃子・松囃子・囃子田楽などという「囃子」という言葉の語源は、まさにこの「お松引き」のような祭事にあったのだと言っているのである。日本文化の一原点を見るような思いがした。


かつては年始の松囃子で必ず演じられた「翁(式三番)」

九郎助稲荷(くろすけいなり)と檜垣(ひがき)

2025-02-03 18:38:32 | 歴史
 大河ドラマ「べらぼう」の物語の舞台は吉原遊郭。苦界に身を沈めた遊女たちにとって心の拠りどころとなっていたのが、廓内にあった四つの神社、九郎助稲荷、開運稲荷、榎本稲荷、明石稲荷だったといわれる。明治維新後、これらの神社は合祀され現在は吉原神社となっている。とりわけ崇敬を集めていたのが九郎助稲荷だったそうだ。「べらぼう」には九郎助稲荷の神使であるおキツネ様の化身として花魁姿の綾瀬はるかが登場する。彼女はナレーションも担当しているので「狂言回し」的な役がらなのだろう。

 一方、熊本では、明治前期から昭和中期にかけて存在した二本木遊郭で遊女たちの心の拠りどころとなっていたのは平安時代の閨秀歌人・檜垣であった。檜垣が白川のほとりに結んだ草庵が寺歴の始まりという蓮台寺(熊本市西区蓮台寺2)には、檜垣の墓石とも伝えられる「檜垣の塔」がある。
この塔は室町時代にはすでに著名であったという。この塔のまわりを取り囲む玉垣の寄進者名が塔の門柱に刻まれている。この玉垣は昭和10年に熊本市の水前寺北郊で開催された「新興熊本大博覧会」の際に造られたものらしい。そしてその寄進者名には二本木遊郭の妓楼名がずらりと並んでいる。なぜ、二本木遊郭がこぞって寄進したかというと、檜垣が遊女たちの守り神として崇敬されていたからである。歌人として知られる檜垣は若い頃、都の白拍子(しらびょうし)だったと伝えられる(諸説あり)。白拍子というのは高貴な人たちを相手に歌舞を行なう遊女だったといわれる。二本木遊郭の遊女たちは、ほど近い蓮台寺に祀られた檜垣を心の拠りどころとして生きていたのである。
※立て膝姿の檜垣像(蓮台寺所蔵)

比丘尼橋のはなし。

2024-11-15 17:27:33 | 歴史
 今日は磐根橋を渡った先から坪井の方へ降りる道を散歩した。曲がりくねった坂を下りながら、3年前、熊本博物館学芸員の中原幹彦先生からお誘いいただき、考古学講座の皆さんと熊本県伝統工芸館の裏にかつてあった坪井川船着場の現地調査に参加させていただいた時のことを思い出した。旧坪井川の船着場跡のほか棒庵坂から下る「あずき坂」や旧坪井川に架かる「折栴檀橋」の痕跡をと思ったのだが、残念ながら生い茂った草木で前に進めず断念した。

 その「折栴檀橋」について以前、津々堂さんが「明治初期の熊本の町名にある比丘尼橋は折栴檀橋の誤りである」と書かれたブログ記事があった。たしかに「折栴檀橋」が正しい呼び名なのだろう。しかし、仮にも熊本県(当時は白川県)が明治6年に発行した町名図の表記を間違うだろうかとずっと疑問に思っていた。ひょっとしたら「比丘尼橋」というのが俗称だったのではあるまいか。そんな時、ふと郷土史家・鈴木喬先生(2010年没)が「市史編さんだより」の中に書かれた「熊本の花街」シリーズのことを思い出した。鈴木先生の文章の中に次のような一節がある。

――文化年間(1804ー1818)のはじめ頃、城の三の丸の西側に当る段山一帯には私娼が群をなしていた。城内の大身の武家屋敷や新町・古町の商家にも近いため、知行取りの仲間、小者や町家の若者らの中には段山通いが普通のこととなっていた。このような私娼は本山や竹部にも巣喰っていたといい、熊本府中町筋のそこここにある料理茶屋や飲み屋にも住み込みで、浮かれ男を誘う芸事半分の娼妓も多かった。藩ではこのような状況を粛正しようとして、無届けの料理茶屋に廃業や転業を命じているが、大した効果も上らぬままに幕末を迎えるに至ったのである。――

 旧藩時代、熊本城の城下町は「古町、新町、坪井、京町」の四町を中心に整備されていた。三の丸の西側の風紀の乱れは反対側の坪井周辺も似たような状況にあったことが考えられる。坪井方面から登城する侍らが通る「折栴檀橋」付近にも私娼が跋扈していた可能性はある。鈴木先生の文章にも「竹部」が含まれている。橋のたもとで屯する私娼たちを見て、いつの頃からか人々は「比丘尼橋」と呼び始めたのかもしれない。これはあくまでも僕の想像に過ぎないが。


3年前の現地調査エリア(で囲った部分)

▼旧坪井川の様子(2024.11.15)



八幡のはなし。

2024-11-08 20:03:17 | 歴史
 先日の「ブラタモリ ~東海道五十七次編~」第2夜は五十四番目の伏見宿からわずか4㌔の五十五番目の淀宿だった。なぜここに?というタモリの疑問も、ここから少し街道を進んだところが徳川にとって極めて重要な要衝であったことがわかってくる。二つの山に挟まれた地形は、徳川に反旗を翻し江戸へ攻めのぼる西国大名の関門のようになっており、その山の上に鎮座するのが平安時代から崇敬され京を鎮護する石清水八幡宮。


 わが家は先祖代々藤崎八旛宮を氏神としている。藤崎八旛宮は、承平5年(935)に朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願され、石清水八幡大神を国家鎮護の神として、茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請されたことに始まる。明治16年生まれのわが祖母は藤崎八旛宮のことを「お八幡さん」と呼んでいたが、昔の人々の尊崇の念はとても強かったと聞く。
 そこで思い出すのが、慶長15年(1610)に加藤清正に招かれ、熊本で初めて「阿国歌舞伎」を披露した女性芸能者「八幡の国」のこと。後世の人々から「出雲阿国」と呼ばれたその人である。阿国が熊本で「八幡の国」を名乗ったのは、熊本の総鎮守として藤崎八旛宮を尊崇する領民の心を理解していたからかもしれない。


藤崎八旛宮

ブラタモリ ~東海道五十七次編~ 雑感

2024-11-05 17:24:58 | 歴史
 8ヶ月ぶりに復活した「ブラタモリ ~東海道五十七次編~」を3日連続で見た。今回のテーマである東海道の別ルートに込めた徳川の思惑もよく理解できた。五十三番目の大津で分岐させ、五十四次:伏見、五十五次:淀、五十六次:枚方、五十七次:守口の四宿を経て大坂高麗橋のゴール地点まで約54kmの旅。旅の様子はNHKプラスで1週間は配信されるのでまた後日ということにして、全体を通じた感想を記してみた。
 まず今回は3日連続の放送だったが、初日のみ45分で、2日目と3日目は28分だったので、できれば2日間にまとめて放送してもらいたかった。オープニングは井上陽水の「女神」をつい待ってしまう。あのラテンブラスとパーカッションのノリの良さが懐かしい。ナレーターのあいみょんは初めてだから無理もないが、まだ存在感を示すところまでは行かなかった。タモリさんのパートナー佐藤茉那アナも初出演で熊本局の新人時代よりも大人しめだったが、枚方鍵屋で案内した学芸員の「ごんぼ汁」の話に「もっと良い記述は」とツッコんだところは良かった。伏見からもっぱら下り船を利用する旅人目当ての「くらわんか舟」の話は面白かったが、客を舟着させるための遊郭や宿の飯盛女の話が出なかったのはNHK的な配慮か。
 タモリさんはやはり歳とったなぁという印象。同世代としてもうしばらく頑張っていただきたい。 


枚方鍵屋にて


淀川舟運と枚方宿

ハーンの熊本時代(1)

2024-10-29 22:03:02 | 歴史
 今日のNHKお昼の番組「列島ニュース」のなかで、来秋放送開始の朝ドラ「ばけばけ」のヒロインに宮崎市出身の俳優、高石あかりさんが選ばれたことが発表され、本人の会見も放送されました。
 ラフカディオ・ハーン夫妻の熊本時代も描かれるそうなので楽しみですが、ハーンの熊本時代はいったいどんな時代だったのでしょうか。


 ハーンが五高の英語教師になるため、島根県立の松江中学を辞し、妻のセツらを伴い、春日駅(熊本駅)に降り立ったのは明治24年11月19日。校長の嘉納治五郎が出迎え、手取本町の不知火館(のちの研屋支店)に案内しました。
 この明治24年7月、門司から熊本まで鉄道が開通し、また熊本電燈会社が操業しています。熊本城そばの厩橋際に火力発電所が設けられ、城内の兵舎の灯りがこうこうと夜空を照らしていたようです。花畑一帯は練兵場が広がり、いまの市役所の場所は監獄でした。五高の構内に外人教師館がありましたが、不知火館近くに赤星家が母屋を明け渡して貸してくれるという話に居を構えます。筋向いに九州日日新聞社(熊日の前身)があり、さっそく購読しています。正月八日の六師団の閲兵式後の宴会にハーンも招待され、それが九州日日に報じられました。
 「檜扇の三ツ紋ある黒羽二重の羽織に仙台平の袴を着し扇子をチャンと差したる有様と目の色の青きに赤髭茫々たる顔と特に目立ちて見へたりければ、さても衆目を一身に引受け、花嫁も及ばぬ程見つめられし次第にて当日第一の愛嬌なりしと」松江からセツの養父母、養祖父などの家族やお手伝い、車夫(これは間もなく解雇)を伴い、料理人の松を呼び寄せます。養祖父の稲垣万右衛門は若いころ、松江藩主の若殿のお守り役だったといい、「愉快な年寄り」でした。熊本城下を「こおり、こおり」とふれ歩く行商人を呼びとめ、「その水は伯耆大山から来るのか」と尋ねるなど、笑いの種をまき散らしました。招魂祭や藤崎宮のお祭りのときにもごったがえす雑踏のなかを出歩き、財布をすられるという騒ぎを起こしています。
 一年後、坪井西堀端町に移り、長男の一雄はここで生まれた。稲垣老人はハーンの書斎に飛び込み、「フェロン公、天晴れだッ!生まれたで」とうれし涙を流し、腕まくりし、こぶしを振り立てて、男児出産を知らせたといます。
 「この町は近代化されています。それから町が大きすぎ、お寺もない、お坊さんもいない、珍しい風習もない」と松江中学の教頭西田千太郎に手紙に書き送っているハーンですが、熊本に移り住んでわずか2、3カ月で9キロも体重が増えています。西洋料理の食材が容易に手に入つたためです。
 そして地蔵祭の日、美しい光景に出会います。地蔵堂はくさぐさの花や提灯で飾られ、大工連が子供たちが踊る屋台をこしらえ、 日が暮れると露店が並びます。日が暮れ、ふと見ると、家の門前に大きなトンボがとまっていました。ハーンが子供組に与えた寄進に対するお礼でした。トンボの胴体は色紙でくるんだ松の枝、四枚の羽は四つの十能(炭火を運ぶ道具)、頭は土瓶でこしらえてありました。しかも、全体があやしく影をさすように置かれ、蝋燭の光で照らされていました。その造り物をこしらえたのが8歳前後の男の子で、「なんと日本の子供たちは美術的感覚の持ち主だろうか」とハーンは驚いています。
 ハーン一家が熊本を去ったのは日清戦争が始まった年の明治27年10月 6日でした。
(ハーン来熊120年記念講演より)

 日清戦争開戦前夜の熊本の騒然とした空気を著作「願望成就」のなかで次のように語っています。



本妙寺浄池廟