のろや

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『サラの鍵』

2012-02-14 | 映画
キレイに作り過ぎと申しましょうか、あざとく感じられる場面が所々ございました。しかし語られている内容そのものは重く、子役を含め俳優陣の演技は申し分なく、全体としてはまあ良作であったかと。



物語の背景である「ヴェルディヴ事件」(フランス政府がナチスの歓心を買うために自国のユダヤ人を検挙・監禁し、強制収容所へ送った)は現実にあったことですが、少女サラの存在はフィクションでございます。もちろんサラの逃避行や納戸の弟をめぐる悲劇もフィクションなわけで、それだけに、列車で隣の席にナチの将校が座るといったいかにもすぎる展開や、とりわけ厳しい環境下に育ったわけでもなさそうなのに色々と機転がききすぎるサラの主人公特性など、振り返ると「ちょっとな~」と思う部分も少なくはございません。

おそらくこの作品の要はサラの悲劇そのものではなく、歴史という大きな流れの中で個別的な悲劇とどう向き合うか、という点なのでございましょう。

サラの足跡を追い続けるジュリアに対して、夫ベルトランは「それで誰かが幸せになったか、世の中が少しでもよくなったのか」と吐き捨てます。
ジュリアの同僚の一人は「このパリでそんなひどいことがあったなんて、吐き気がする」という言葉でもって、過去の醜い事件と今の美しいパリに暮らす自分とを切り離します。
もう一人の同僚は、遥か彼方の傍観者に留まろうとする自分を少なくとも自覚してか「(その時代にいたら)僕ならテレビで見てたろうな、イラク爆撃を見てたように」と言います。

ベルトランにとっても、同僚たちにとっても、ヴェルディヴ事件とは歴史の中の単なる1項目でございます。政府が認めて謝罪したし、どこで何があったのか分かってるし、それでおしまい、もう過去のこと、あとは現在生きている自分たちがいかに幸せでいられるかが肝心。
あるいは多くの人にとって、歴史というのはこういうものなのかもしれません。
しかしそこで起きた個別的な悲劇を掘り起こし、そこに生き・死んで行った人たちの個々の悲しみ、苦しみに共感を持って耳を傾けないかぎり、悲惨な歴史は何度でも繰り返すことでございましょう。



個人の歴史を闇の中から引き上げてみたところで、誰も幸せにはならず、世の中がよくなるわけでもないかもしれない。しかし、未来の世の中をこれ以上ひどくしないために、小さく、個別的で、決して癒えることのない「サラの物語」の掘り起こしは、何度でも必要なのです。なぜなら、そうした個々の物語には「◯◯事件」や「◯◯問題」という大文字の歴史には果たし得ない役割があるからでございます。

大文字の歴史の下で押しつぶされていった人々の苦悶と、それに加担してしまった人々の弱さや愚かしさ。それらは事件の名前や、年号や、「犠牲者◯◯万人」という数字からは決して伝わっては来ません。
その苦悶、弱さ、愚かしさを人類の一員である自らのものとして引き受けることからやっと、少しずつでも、いい世の中が築かれて行くのでございます。そうした共感的反省がなければ、どんなに科学や技術が発展した所で、ひとたび何かが起きた時の悲惨の度合いが増すだけではないかとさえ思います。

とはいえ。
こうしたメッセージが劇中でしっかり描かれているかというとそうでもございませんで、サラの物語とジュリアの人生はいまいちシンクロしきらないまま「命は大事に」とか「自分の気持ちに正直に」といった大ざっぱでごく口当たりのいいテーマのもとに終息してしまった感がございます。(その口当たりのよさが受けているのかもしれませんが)
かつてサラの住まいだったフラットを真新しく改築することや、そのフラットの来歴をおばあちゃんに知らせずにいることに、悲惨な歴史の忘却を象徴させているのは分かります。しかしここにジュリアの妊娠がからむと、俄然お話がメロドラマ寄りになってしまいます。

いかんせん、「家族と引き離され強制収容所に入れられたユダヤ人少女」と「夫に出産を反対されている裕福なキャリアウーマン」では取り巻く状況の重みも、彼女らを行動へと突き動かす動機も、違いすぎるのでございます。そのためジュリアの「真実を知るには痛みが云々」や「こんなのすべて嘘」という台詞も、いまいち平行度の低いサラとジュリアを何とか結びつけようとする演出と感じられ、台詞としてはこじゃれてはいるものの、取って付けたような納まりの悪さがございました。
制作者の意図としては、辛い真実を受け入れることで一歩前に踏み出すということと、ジュリアの決断とを関連づけたのかもしれませんが、歴史的事実を受け入れることと自分の気持ちに正直になることとは、やっぱり全然レベルが違う話ではございませんか。

サラの物語を掘り起こし、過去から目をそらす人々に事実をつきつけ、(過去を切り捨てもせず傍観者に甘んじもしないという)倫理的役割を演じ、かつサラの人生と感応しつつ、挫折も味わいつつ、思いがけない妊娠と向き合う、などなど、ジュリアというキャラクターに多くのことを背負わせるために、話を「うまく」作り過ぎた感もございます。それでいて、事実の受け入れと痛みを伴う前進、というおそらく最も重要な部分は、ジュリアではなく話の終盤になってから突如登場するサラの息子が担ってしまうというのが何とも。

とまあ
褒めてるんだかけなしてるんだかよく分からない鑑賞レポになってしまいましたが、あまり知られていないフランス史の暗部を取り上げたという点で、制作される意義はあった作品であろうと思います。ただネット上のレヴューがあまりにも高評価に偏りすぎのような気がしまして、「そんなにもの凄い映画かコレ?」と反発する気持ちもあり、以上のような共感反感相半ばする感想になった次第でございます。