ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

J-POP LEGEND FORUM(6/21)その1

2021-07-27 15:25:00 | メディア
第3週目の放送内容をご紹介する前に、6月16日付の田家さんのブログには…
「甲斐バンド特集、後半2週…2週間分のまとめ録り
今日、収録したのは、3週目と4週目…『1980年~82年』『83年~86年』という2本

判りやすく言うと…『HERO』以降、70年代のアルバムの中にあった
青春の残滓のようなヒロイックな生々しさが、大人の痛みに変わって行った時期
ハードボイルド色が色濃くなって行った時期…そして、解散のドラマですね

全部のアルバムを聞き直しましたよ
自分の本や、当時書かれた記事を読み直したり、色んなことを思い出しました
自分にとっても青春だったなあという感じでした
特に『虜』『GOLD』の辺りは、そういう感じでした
『ラブ・マイナス・ゼロ』を加えた、ニューヨーク三部作の頃ですね

ニューヨークに取材で同行してましたからね
思い出すことが多いのも当然な訳ですが
でも、今思うと、あれだけの規模のレコーディングをよくやったなという感じですね
ボブ・クリアマウンテン、ニール・ドーフスマンという
2人のグラミー賞エンジニアを起用して、現地で作業している訳ですからね

僕も音楽プロパーのライターだった訳でもなく、業界のことをほとんど知らなかった
1枚のアルバムを作る工程とか、コストとか、今なら当然思い浮かべるようなことも
当時は考える余裕もなく、はしゃいでおりました

あの時代の音楽状況とか、その中での、どのくらい大胆な冒険だったのか、今の方が判ります
そういうものかも知れませんが…それが若かったということなんでしょう
もっと語られるべきことが沢山あった。違う評価をされて、しかるべきだった
自分も含めて、あの頃のメディアとか
音楽ライターの力量不足だったということなんだろうな…と、改めて思いました」

…と記されてますが、甲斐さんも「この国は何でも3回やらないと判らないから(笑)」と
ニューヨーク三部作の3作目である「ラブ・マイナス・ゼロ」をリリースなさった時に
ようやくメディアが注目してくれたと明かされてました(苦笑)

「でも、楽しかったです!FM COCOLOのスタッフのご主人が、甲斐バンド好きで
82年に出た写真集『1982 BEATNIK』を、スタジオに持って来てくれましたし
自分で作ったのに、僕、持ってないんですよ
珍しくスタジオの中にギャラリーがいるという感じだったんで
思いきり力んでしまいました」と田家さん(笑)

その写真集の中に、マイクスタンドを蹴り倒して、ステージを降りてしまわれたライブのあと
路地に座り込んでおられる甲斐さんの姿が掲載されているのは
「撮っていいんだろうか…」と戸惑われていた井手情児さんに
田家さんが「撮った方がいい」と声をおかけになったからなんですよね?

「4週間で何曲流せたんだろう?…8曲ずつで32曲か
『ポップコーンをほおばって』と『破れたハートを売り物に』は
時期の違うバージョンで、2回流しましたから、30曲か…流したい曲の7割は入ったと思います
『そばかすの天使』『昨日のように』『昨日鳴る鐘の音』
『荒野をくだって』が洩れたのは残念でしたけど…

自分の番組で、甲斐バンドの曲をかけるのは
去年『LEGEND FORUM』の『ライブ盤特集』で
79年の武道館ライブを流したのが初めてかな?
(甲斐バンド特集を)やるのなら、他でやらないような徹底したものにしたかったんで
『終活番組』にふさわしい内容になったんじゃないでしょうか
思い残すことが、またひとつなくなりました(笑)

もっと語られるべきなんだよなあ…というところから始まりましたからね
洋楽マニアで、甲斐バンドは全く聴いてなかったという、60年代生まれのディレクターは
終始『そうだったんですか』『勉強になりました』を連発してました
そういう人に聴いて貰えたらなと思ってたんで、初期の目的も果たせた感じでした

たぶん、今までの放送のテンションとは、少し違うかも知れないんで
そのへんもお楽しみ頂けたらと思います
あれから35年…6月の特集『甲斐バンド』…無事終了しました
あ、もちろん放送はこれからですけど(笑)」
…と綴られていて「やりきった感」満載でいらっしゃいましたが(笑)
確かに、前回・前々回よりも、声の調子が明るくて、テンション高めなご様子?(笑)

もっとも、奥さんによれば、甲斐バンドの男性ファンが激増したのは
ナンと言っても「HERO」以降、次いでニューヨーク三部作の頃らしく
田家さんは、甲斐さんがセイヤングのパーソナリティをなさってる時から
甲斐さんのことをご存知だったそうですけど

甲斐バンドへの取材という形で、正式に甲斐さんとお会いになったのは、78年12月…
つまり「HERO」リリースの直前みたいですし
ニューヨークに同行なさった頃のことが、一番印象に残っておられるようですし
男性ファンの皆さんが、甲斐バンドの「虜(笑)」になられたのと時期を同じくされている…
というか、ここからリアルタイムで、甲斐バンドとその楽曲に接し始められた訳で
そういう意味では、一番身近におられた男性ファン代表という感じだったのかなあと…?

ただ、田家さんが、当時の音楽ライターの中で
甲斐バンドの楽曲のバックボーンについて、唯一反応なさったと
お名前を挙げられていた萩原健太さんが、甲斐さんに初めて取材なさったのも
やはり、ニューヨークで「虜」をお作りになった頃ですし
その後、かなり音楽的な内容の記事をお書きになっていたんじゃないかと…?

まあ、一方で、その男性ファンが増加した時期に
甲斐バンドから離れて行かれた女性ファンが、少なからずいらっしゃったのも事実らしく
結婚や出産など生活環境の変化による場合もありつつ
やはり、当時の甲斐バンドに「ついて行けない」と思われた方が多かったというのは
それだけ甲斐バンドが進化したってことなんでしょうね?

さて、その第3週の放送は…「今流れているのは、甲斐バンドの『破れたハートを売り物に』
1981年11月発売のアルバムタイトルの曲です
2019年に出た45周年ベスト『甲斐バンド HEROES』からお聴き頂いてます。今日の1曲目です

音楽変わりましたでしょ?歌のバックで乱舞しているアフリカン・パーカッション
そして、エコーのかかった太いドラム
『生きることを素晴らしいと思いたい』というですね、生きることへの真っ正面からの肯定
80年代の新しい世界が、ここから始まった…そんな1曲です」…という言葉で始まり

「2021年6月の特集は甲斐バンド…
1974年にデビューして、1986年、解散公演としては
当時史上最大の武道館5日間公演で解散しました
70年代のはっぴいえんどから、80年代のBOOWYにかけての最重要バンド
まだロックバンドが不遇の時代に、不退転の活動を続けた彼らの12年間
栄光の12年間を辿ってみようという1ヶ月です

今週はパート3…70年代から80年代…『HERO』以降ですね
世界の音楽状況が激変する中で、メジャーシーンに躍り出た
不屈のロックバンドが、どう80年代を迎えたか?
えー、その1つはですね、野外イベントですね
1980年の箱根・芦ノ湖畔、1981年 花園ラグビー場
1983年 新宿西口新都心、全て野外でした

85年には、初めての両国国技館…コンサートに初めて使ったんですね
誰もやってなかった場所で行なうというのはですね、彼らの旗印でありました」…って
甲斐さんの、いわば「思いつき(笑)」で発せられた言葉を実現させるために
周りの方々やスタッフの皆さんが、どれだけ苦労なさったか…を
少し聞きかじっただけでも「本当に頭が下がるよ」と奥さん
当時は、そんなご苦労にまで考えが及ばず、ただただライブを楽しんだみたいだけど…(苦笑)

ともあれ…「で、この『破れたハートを売り物に』は、一番最初に歌われたのがですね
1981年、伝説の花園ラグビー場なんですね。1曲目だったんですよ
あの…打ち込みの曲なんで、ドラムの松藤さんがですね、ドラムセットの所にいないで済む
松藤さんと甲斐さんがですね、ステージのフロントで並んで歌ったんですね」

…と説明なさってましたが、当時の松藤さんが、ドラムセットから降りて来られるのは
ライブ中盤のアコースティックセットで、生ギターをお弾きになる時と
メンバー紹介の時…今はドラムセットの上におられますけど…だけだったらしく
「かなりの衝撃映像だった(笑)」んだとか…(笑)

まあ、そんなオープニングに観客が大いに高まったことも
花園ラグビー場でのライブが「伝説」となる一端だったのかなあと…?
コメント
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