ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

J-POP LEGEND FORUM(6/21)その4

2021-07-31 15:38:00 | メディア
甲斐バンド特集パート3は、甲斐さんが公私に渡って激動でいらした時期を扱っているので
我が家にある資料も膨大なため、これまでより横道への逸れ方が激しくなっております(笑)

田家さんが、画期的なドラマだったとおっしゃった「学園危機一髪」の話題から
「その主題歌『漂泊者』を今日お聴き頂こうと思うんですが、最後にお届けしようと思います
ライブバージョンでですね、この『漂泊者』をお聴き頂きたい

で、この『漂泊者』の入ったですね、オリジナルアルバムのタイトル曲を次にご紹介します
1980年10月発売『地下室のメロディー』」…を流されたあと
「『地下室のメロディー』…こういうタイトルのフランス映画がありました
でも、この曲の舞台はですね、フランスではないですね

『地下室』というのはですね、福岡の博多のフォーク喫茶…ライブ喫茶
『照和』が舞台だったという話を聞いたことがありますね」と触れておられましたが
いったん閉店していた「照和」の前を通られた甲斐さんが
「信じられないくらいノスタルジックな気分になって」お作りになった曲であり

また、この曲が収録されたアルバム「地下室のメロディー」は
かつて、アルバム「ガラスの動物園」を、恋人だった女性に捧げられたのと同じように
「全編、別れの曲」で占められていて…って

まあ、当時の記事によると…このアルバムがリリースされた10月にはもう離婚を公表なさって
「箱根・芦ノ湖畔ライブの頃みたいに、何も言えない辛さはなくなった」とおっしゃってましたけど

それは、やはり思いの丈を楽曲に注ぎ込まれて
多少は気持ちの整理がおつきになったからかなあと…?
でも、そんな時期とはいえ「良い曲書くねぇ!ずっと不幸だったらいいのに…(笑)」
…と声をおかけになった松藤さん、ある意味スゴイです(笑)

それはともかく…「で、よく『骨太のロックバンド』という言い方をしますけども
じゃあ『骨太』とは何だ?っていうことなんですね
あの時代の新しいリズム、色んな新しい要素を取り込みながら
バンドのですね、骨格が揺るがない

で、そこにこう…その都度その都度ですね
実験的な要素も採り入れながら、時代を疾走するというですね
甲斐バンドの12年間っていうのは、そういう時間だったと思いますね

で、この70年代後半から80年代の初頭にかけて
例えば、レゲエとかですね、スカとか、新しいリズムが台頭して来た訳で
日本のCMソングなんかでも、スカのですね、バンドが登場したりする時代が来ました

でも、この『地下室のメロディー』のように、スカを採り入れながらもですね
バンドらしさというのが、カッチリとあるというのはですね、そういうケリのつけ方
一つ一つですね、時代に対しながら答えを出して行くという例だったと思いますね

で、1980年『ビューティフル・エネルギー』『漂泊者』というシングルがありました
それから、初めての武道館ライブアルバム『100万$ナイト』も出ました
箱根のですね、芦ノ湖畔の野外イベントもありました

80年のですね、年末には『体育館ツアー』というのがあったんですね
で、体育館をですね、こんな風にツアーとして結んで行った
これは、ロックバンドとしては、甲斐バンドが初めてだったと思います

で、当時はですね、これを『スタジアム・ツアー』と呼んでたんですね
もちろん、ドームが出来る前ですからね
で、球場コンサートを経験してるアーティストは、矢沢永吉さんと西城秀樹さんしかいなかった
順番は、西城秀樹さんと矢沢永吉さんですね
そういう中で『体育館ツアー』を行なって、彼らは『スタジアム・ツアー』と呼んだ

80年12月の武道館でですね『逝ってしまったジョン・レノンのために』と言って
『100万$ナイト』を歌ってですね、80年にケリをつけて、で、81年に入って行ったんですね

81年9月に花園ラグビー場がありました
81年11月に、8枚目のアルバム『破れたハートを売り物に』が出ました
で、この81年のですね、武道館2日間コンサート
このあと、半年間ライブ活動を休止するんですね

そして、レコーディングに専念して、新しい扉を開けます
そういう変わり方…もっとも劇的にですね、80年代を迎えたロックバンドは
甲斐バンドだったっていう風に言い切ってしまっていいと思いますね

彼らは、82年2月に、トラックダウンのために、ニューヨークに向かったんですね
82年11月発売のアルバム『虜』から、お聴き頂きます…『ナイト・ウェイヴ』」を流され
その途中で「2019年に出た、45周年ベストアルバム『HEROES』から、お聴き頂いてますが
これは、12インチシングルとして発売されたものです

打ち込みで、オリジナル曲よりも、ちょっと違う音やサイズのダンスバージョン
12インチという新しいスタイルが、イギリス辺りから入って来て
色々なアーティスト、バンドが試みてました」…とカットインなさって

「甲斐バンドパート3…70年代から80年代にかけての新しい時代を切り開いた栄光のロックバンド
ニューヨーク三部作の1作目のアルバム『虜』の1曲目がこれでした」と
「ブルー・レター」を流されたあと

「この曲はですね、当時、放送を見合せるという放送局が結構あったんですね
何故か?って言うと『孕ませる』という、あの言葉がですね
こう…問題になったのではないかと言われて
『ナンだ!?それは!?』っていう話を、みんなでした覚えがあります」と振り返っておられましたが

当時の機関紙「BEATNIK」には…
「『ブルー・レター』が放送禁止になりそうだというニュースが入って来た
歌詞の中の『孕ませた』という箇所が、倫理規定に抵触するからというのが、その理由のようだ
『孕ませた』のどこがいけないんですか!?なんて、学生っぽく怒ったりするつもりはないんだけど
『どーゆーことなんだよ、お前』という気持ちはあった…(中略)…

一人の少年がいて、海辺で恋に落ちて、純情すぎたために
彼女を妊娠させ、その辛い思い出に苛まれる
そんなどこにでもある青春のワンシーンのどこがいけないのか
『孕ませる』という言葉を使わなければ、世の中丸く収まると思っているのだろうか

『ブルー・レター』は、男が泣ける歌だ
それは、そんな『言葉』の問題ではないところで、胸に迫って来るからだ
言葉でしか判断できない人は『感動』の全体を測ることが出来ない人たちだ

たとえ放送で流されなくても、コンサートでは歌われ続けることは間違いないのだ」
と記されていて、確かに「ナンだ!?それは!?」的な空気が漂っていたことが感じられます(笑)

ただ、甲斐さんが「1番のサビの前の2行を書くのに半年かかった
その2行が引っかかったから(レコーディングを)中断して…
あの曲で半年生きていたようなもんだよ

(頭の中が)全部あの曲の断片だった」と明かされたほど
難産の末に、ようやく誕生した曲だったにも関わらず
「放送禁止みたいなことでしか語られなかった
可哀想な曲っていう感じが、ずっとあった」そうで

86年の解散プロジェクトの一環で「夜ヒット」に出演なさった際に歌われた2曲…
「漂泊者」は「夜ヒット」と同じフジテレビで放送された
「学園危機一髪」の主題歌ということで、まあ順当なところだったんでしょうが

「HERO」や「安奈」「裏切りの街角」といった代表曲ではなく
「ブルー・レター」をお選びになったのは、可愛い我が子を「不憫な子」にした
メディアに対する、けじめをつけようとの思いがおありだったんじゃないかと…?

ただ、この「夜ヒット」へのご出演を決められたのは
「デビュー当時や初期から応援してくれた人で
今は、子育てなどでライブ会場に来られない人や
昔は好きだったけど、今は離れてしまった人にも、感謝の気持ちを伝えたい」
…というのが、大きな理由だったみたいですが

その初期のファンやライブから遠退いていらしたのは、ほぼ女性の方と思われる中
「『ブルー・レター』に出て来る男性の身勝手さがイヤで、好きじゃなかった
…と、おっしゃる女性が多かった曲を歌われたのは、ちょっと皮肉な感じですねぇ(苦笑)

でも、甲斐さんとプライベートでも親交がおありだった残間里江子さんは…
「ブルー・レター」を初めて聴いた時、無意識な風に見せてはいるが
ロックすることの中に、きちんと『私生活』を組み込んでいると感じられた

ファンはいつだって俺の『歌』を聴いていると
アーティストは思っていても
私的状況と繋げて聴かれてしまうことも少なくない
そんな中で、甲斐よしひろの描き出す世界は
ドロドロ的情念の匂いとはほど遠く、もっと硬くて乾いている

結婚して、離婚して、再び結婚して、父親になった彼が
『制度や世間』を無視することなく超えるためには
今、この歌しかなかったのかも知れない」…と話されていて

ハードボイルド風に綴られてはいても、ご自身の血肉を削りながら
「全てをさらけ出す」覚悟で曲をお書きになる甲斐さんの姿勢は
この頃も全く変わっておられなかったんだなあと…
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