ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

J-POP LEGEND FORUM(6/7)その2

2021-07-20 15:33:00 | メディア
「J-POPの歴史の中の様々な伝説を改めて紐解いて行こうという60分
伝説のアルバム、伝説のライブ、そして伝説のムーブメント
1つのテーマ、1人のアーティストを1ヶ月に渡って特集しております
今月2021年6月の特集は甲斐バンド」と田家さん

「1974年のデビューで、1986年に解散しました
その後、96年にですね、再結成されてから…まっ、何度となく再び集まってですね
ライブをやったり、ツアーをやっとります
今年もツアーが進行中でして、明日?明後日?
8日、9日とビルボード大阪でライブがありますね

で、ナンで今、改めて甲斐バンドかっていうのは
86年6月にですね、武道館5日間公演で解散したんですね
これは、日本の音楽史上最大規模の解散コンサートです
ここから数えて35年…改めて軌跡を辿ってみようという風に思いました

甲斐バンドというのは、どんなバンドだったのか
日本の音楽シーンの中で、どういう存在だったのか
乱暴に言ってしまうと、はっぴいえんどからBOOWYに至る過程での
最重要バンドだと思ってるんですね

もちろん、まあ、はっぴいえんどははっぴいえんど、BOOWYはBOOWY、全く別の存在なんですが
えー、時系列で見て行くとですね、その間がすっぽり抜けていて
そこを支えていたのが甲斐バンドだったというですね、そういう気がしてます

えー、まだ、ロックバンドがですね、不遇の70年代から80年代への橋渡しになった
メジャーシーンに刺激を与えながら、自分たちのスタンスを崩さなかった
79年からですね、82年まで年間のコンサートの動員数1位ですよ

あの…他に、まっ、チューリップとかアリスとか、代表的なライブバンドはあったんですが
チューリップもね、メンバーが交代する時期で
アリスは、81年に活動休止しちゃいましたからね
甲斐バンドが、ずーっとこう…年間コンサートの記録を持ってた

まあ、それでいて、シーンに流されないで
誰もやっていないこと、誰も行かなかった道をですね
歩き続けたメジャーの中のカルトヒーローという風に言っていいでしょうね

86年にですね、彼らが解散した時に、テレビのドキュメンタリーがあったんですが
そのタイトルがね『十二年戦争』…自分たちのキャリアを戦争って例えたっていうのがですね
カッコよかったですね
ただですね、あまり語られて来てないんではないか

この番組のディレクターが60年代生まれで、洋楽マニアなんですけど
甲斐バンド聴いてなかったんですよね
で…『僕みたいな初心者にも判る番組にして下さい』ということで
長年のファンの方にはですね『今さらそんな話を…』っていうですね

そういうことも織り交ぜながら、まあ、あの当時、割と近いところで見せて貰った1人としてですね
自分の見て来たことを振り返りながら、話が出来たらと思ってます
好きだった曲とかですね、改めて良いと思った曲とか、知って欲しい曲とか
そんな曲のオンパレードですね

で、この『吟遊詩人の唄』の入ったデビューアルバム『らいむらいと』からですね
デビューシングルをお聴き頂こうと思うんです
『バス通り』という曲なんですが、この2019年のベストアルバム
『CIRCUS & CIRCUS 2019』にはですね
2010年のツアーで歌ったバージョンが入ってるんですね。その曲をお聴き頂きます
甲斐バンドのデビュー曲『バス通り』2010年バージョン」と公式デビュー曲(笑)を流され

「『学生だった僕に愛は語れなかった』というですね
甲斐さんの高校時代のですね、恋愛の話を歌ってるんでしょうね
で、この曲の入ったですね、デビューアルバム『らいむらいと』は
アマチュア時代に書いた曲が、まあ中心だったんで、あのー、当時もですね
自分たちのキャリアの中で『これは置いといて』っていう感じだったんですね

で、このあとに出た『英雄と悪漢』からが『僕らの本格的なスタートだ』っていう…
まあ、話をしていて…だから、この『バス通り』もライブであまり歌われなかったと思いますね
でも、お聴き頂いたのはですね、2010年のライブアルバム『My Little Town』この中に入ってて

2010年の4月にですね、えー、福岡のライブ喫茶…当時『ライブハウス』とは言わなかったんです
えー、ライブ喫茶『照和』でですね、収録したものなんですね。これは映画にもなりましたね
あのー、里帰りということで、このライブをやった…『LIVE at 照和』というですね
アコースティック・ギグの中のバージョンがこれでした」…と説明なさってましたが

この「照和ライブ」は、35周年ツアーの延長戦みたいな感じというか
甲斐バンドメンバーの皆さんが、それぞれのバンドで、アマチュア時代に出演されていた
「ここでライブやったら、みんな喜んでくれるかなと思って…」という甲斐さんのサービス精神…
ご本人のお言葉を借りれば「心意気」でもって「聖地」での開催が決定

当初は、フルバンドスタイルによる、1ステージ60人、90分のライブを2日間で3公演行う予定が
応募者殺到で、落選する方が圧倒的多数を占め
急遽、落選者救済のため、2日目も2公演になり
さらに「バラシ」に当てられていた日に、アコギスタイルでのライブも追加されて
3日間で5公演のジャニーズ仕様が完成(笑)

そのフルバンドスタイルのライブが、映画「照和」に採り込まれ
アコギスタイルのライブが、一部CD化となったのを、この番組で流された訳ですけど
甲斐さんは「60人くらいが手拍子すると
『宴会』みたいに聞こえるんだよね(笑)」と、おっしゃってましたよね?(笑)

それはともかく…「ポップコーンをほおばって」が流れたあと
「気持ちを落ち着かせながら話して行こうという感じでですね
すでに血が騒いでますが…(笑)」と田家さん
甲斐バンドに関するご自身の著書のタイトルになさった、この曲について…

「何故この曲で始めないといけないのか?これには理由があります
1974年8月31日、甲斐バンドが上京する直前に
福岡電気ホールという所で『出発(たびだち)コンサート』が行われてですね
収容人数1200人のホールなのに、2000人が集まったというですね
そのコンサートのアンコールの最後に歌われた曲なんですね

これを歌って、彼らは東京に来た
この曲は、甲斐バンドがデビューするきっかけになった
文化放送の『ハッピー・フォーク・コンテスト』で優勝した曲
そういう歴史的なですね、位置付けもありますし
この曲の持つ若さ、青さ、未熟さのポエジー、青春のヒロイズムと言いましょうか

フランス映画、教会の鐘、天使の声、大都会の中の飛べない若者
飛ぶということと、飛べないということを、こんなにも判りやすく歌ったというのはですね
当時、本当に鮮烈に響きましたね
『ポップコーンをほおばって』は、このあとバージョン違いでも出て来るんですけど
先にオリジナルをお聴き頂きました」…と話されてましたが

「ハッピー・フォーク・コンテスト」には、甲斐バンドではなく
「甲斐よしひろ」個人として出場し、優勝なさったので
当然、事務所やレコード会社は、甲斐さんと契約しようと思っていたトコへ
「頭の中で鳴っていたのがバンドサウンドだったから」という甲斐さんの一言で
バンド結成のため、デビューが半年延期になった…とのエピソードには触れられず(苦笑)

ともあれ…「甲斐バンドは福岡から上京して来た訳ですが
彼らを『シンコー・ミュージック』っていう事務所に紹介したのが
福岡の先輩、チューリップの財津和夫さんだったんですよね
財津さんは当時『東京は外国よりも遠いと思ってた』って話してましたね

甲斐バンドのデビューのコンサートは、神田共立講堂で行われたんですけど
そのゲストがチューリップで、チューリップが先に出て、出番を終えたら
お客さんがゾロゾロ帰ってしまったという…そんな屈辱の始まりだったんですね

…って、財津さんは、当時のチューリップのマネージャーでいらした西田四郎さんに
甲斐さんがお歌いになった「吟遊詩人の唄」のデモテープを渡しながら
これが判らんようじゃ、チューリップのマネージャーは出来ないよ」という言い方で
「照和」の後輩を強く推されたそうですし
その後輩たちのデビューを祝おうとゲスト出演なさっただけでしょう

まあ、当時、一般的に「ビートルズ派」「ストーンズ派」という分け方をする風潮があり
シンコー・ミュージック内でも「ビートルズ派」の皆さんはチューリップを
「ストーンズ派」の皆さんは甲斐バンドを好まれた…みたいなこともあったようだけど

当初、ビートルズの曲にまつわるバンド名を考えていらした甲斐さんが
「チューリップの弟バンド」というイメージを払拭し
「甲斐バンド」というバンドのカラーを打ち出すため
よりストーンズ寄りに舵を切られた…という風にも考えられるんじゃないかと…?

でも、この「屈辱のデビュー」を経験なさったからこそ
「たとえ5人でも10人でもいい、俺たちのことを聴いてくれる人を
1人でも2人でも増やすことから始めなければいけない
そのためには、どんなところででもやる」と覚悟を決められた訳ですし
その覚悟が、のちの「日本一のライブバンド」誕生のきっかけになったと思うと感慨深いですねぇ…

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする