ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

J-POP LEGEND FORUM(6/14)その3

2021-07-25 14:52:00 | メディア
甲斐バンドのアルバム「誘惑」の中から「カーテン」を流されたあと
「『二人きりのステキな夜』です」と田家さん
「アルバム『この夜にさよなら』の中には『そばかすの天使』という曲がありまして
(歌詞に登場する主人公は)夜の街の女の子なんですね

どこかネオンの陰に咲いてる花というイメージがあって
MVは、歌舞伎町のゴールデン街が舞台だったりもしてました
当時の中島みゆきさんに通じるような曲で…」とおっしゃってましたが

「そばかすの天使」は、甲斐さんが夜の新宿に足繁く通っていらした頃(笑)
「ちょっとうらぶれた酒場で、10代の女の子が1人で酒を飲んでたりするシーンが浮かん」で
明け方に佐藤剛さんとタクシーに乗り込まれた途端「10分くらいで」誕生した曲だそうです

唯一、お悩みになったのは「彼女の年」らしく
「この時代はね、やっぱり酒場に1人で来たりする女の子は
いくら若くても、18歳っていうのが相場だったんだよね
だけど、俺は、あと1年もすれば、不良少女の年齢低下があり得るだろうと思った
俺の希望的予測というか、時代への一つのアピールも含めて、彼女は16歳になった訳さ

それに、北原ミレイが『ざんげの値打ちもない』っていうヒット曲、飛ばしたじゃない
18歳の少女の有り様、彼女が過去に出しちゃってるんでね
少女を描くなら、同じじゃツマンナイっていうこともあったんだよね

この曲も入ってるLP『この夜にさよなら』は
俺たちが『今まである既成の価値、ぶっ壊してくぞ!』って息せききってた時期だから
この少女は『次の時代』へ向かう、甲斐バンドの一つの象徴でもあったんだ
LP自体、俺の背負って来た時代の重み、痛みをバネにして
新しく来る時代へ跳ねて行こうっていうコンセプトだった訳だから」と話されてました

ちなみに…前述の「MV」というのは、東京12チャンネル(当時)で
1週間だけ放映された、2分30秒のイメージスポットのことみたいで
甲斐バンドのライブ映像に、甲斐さんのコメントが重なったり
夜明けのゴールデン街を歩く甲斐さんが映ったりしていたそうですが
ビデオがない時代の地方在住の少女には「縁のない映像だった」んだとか…(苦笑)

それはさておき…
「アルバム『誘惑』は、それまでの、光と影の影の部分が見えるような恋の歌から
色っぽい大人の恋愛を感じさせる歌までが入ってますけど
この曲(カーテン)は、後者の代表的な1曲ですね

街角の恋愛から、インドアな恋愛という変化も感じられたり…
これも改めて聴いていると、歌のテーマだけでなく
『自分たちの音楽も新しくなったんだよ、カーテンを開けて、さあおいで』という
新しい音楽への誘いの歌にも聞こえました

『そばかすの天使』もシングルになって
『氷のくちびる』もシングルになったんですけど、あまりヒットはしなかった
オリコンは、100位までの中で、下の方に入っただけですが
(この2曲が収録された)アルバム『この夜にさよなら』は、アルバムチャート14位
ロックバンドのアルバムは売れない時代でした

ダウンタウン・ブギウギ・バンドの『スモーキング・ブギ』も
先週の放送では、当時売れていたロックとして挙げましたけど
この1977年のチャートを賑わせていたのは
ダウンタウン・ブギウギ・バンドのベスト盤が年間50位
あとは、矢沢永吉さんのソロアルバム『ドアを開けろ』くらいですよ」と説明なさってましたが

まだ、歌謡曲全盛期だった当時のこと
3~4ヶ月に1枚、シングルレコードをリリースせよ…という音楽業界の慣例によって
1枚のアルバムから2枚のシングル…つまり、4曲がカットされていた訳で
月々のお小遣いをやり繰りして、レコードやチケット、ライブに着て行く洋服や化粧品を買い
会場までの交通費や飲食費を捻出したものの
「シングルレコードにまでは、力及ばず…」と奥さん(苦笑)

先行シングルが発売されても、少し待っていれば、その曲も収録されたアルバムが出るんだし
アルバムが出たあとのシングルには、魅力を感じなかったし(失礼!)
いずれにせよ、甲斐さんが、ご自身のラジオ番組や、プロモーションで出演なさった番組で
その最新作を流されていたため「それを録音して覚えてた(笑)」みたいで

シングルに比べ、アルバムのセールスが好調だったのは
当時の奥さんと同じような聴き方をなさるファンの方が多かったからじゃないかと…?
アルバム1枚が、2,500~3,000円…当時の甲斐バンドライブのチケット代とほぼ同じなら
シングル1枚500~600円は、ちょっと割高に感じられたのかも知れません(苦笑)

ともあれ…「ツイストが、このあと出て来るんですけど
まだ、バンドとしての全体像などは見えてませんから
こんな風に語れるところまで来てませんでした」と田家さん
まあ、学生でいらした世良さんが、甲斐バンドのライブでバイトなさってたんですもんね?

「そして、こういうライブとアルバムで地固めしていたのが
1977年から1978年だったと言っていいでしょうね
その転機になった『誘惑』から『シネマ・クラブ』」を流されたあと

「官能的なロックという感じですね。番組ディレクターが、この曲を聴いて
『ブライアン・フェリーみたいですね』と言ってましたが
まさに、その頃のイギリスのロックシーンとか
デヴィッド・ボウイなどと同期しながら、日本の音楽を作っていた」…って

ブリティッシュロックに影響を受けられたのはもちろん
甲斐さんのステージでの動きが、ミックのそれと似ていらっしゃったり
ライブが進むに連れて、甲斐さんが上着やシャツを、どんどん脱ぎ捨てて行かれるのは
「ボウイの真似をした」とおっしゃってたり

某時計メーカーのCMに出演なさったにも関わらず(笑)
「締められる感じがイヤで、20代中盤から取った」のに
「デヴィッド・ボウイがライブで、腕時計しながら歌ってたのを真似したけど
ライブ中、気が狂いそうになって、投げ捨てそうになった(笑)」と明かされたり
…と、音作りにもライブにも英国のエッセンスが垂らされていたのは間違いなさそうですね?

「さっきの『嵐の季節』と『シネマ・クラブ』には
先週お送りした『英雄と悪漢』『ガラスの動物園』の中にあった
青春の感傷・葛藤という感じは、もうありませんね
大人のアルバムを作り始めてるのが、この1977年・1978年、そして大爆発の1979年です

1970年代から1980年代にかけての新しい時代を切り開いた栄光のロックバンドの軌跡
全てがここで変わったという曲です
1978年12月20日に発表になったシングル『HERO』」を流され
「SEIKOのCMのタイアップですね
甲斐バンドと言うと、この曲が出て来る訳ですが、それはヒット曲の宿命でもあります

改めて、こうやって聴くと、やっぱり良い曲ですね
甲斐バンドらしいキーワードが、随所に散りばめられていて、勢いもある
『ここから俺たちはヒーローになるんだ!』というエポックメイキングな1曲です

1979年1月1日午前0時に、彼らも出演していたCMの放映が始まって
時計屋の店頭に等身大のPOPが並んだ
2月26日付のシングルチャート1位になって、ミリオンセラーになりました

前作のシングル…1978年8月にリリースされた『LADY』という曲があって
これは、アルバム『誘惑』にも収録されているんですけど
セールスは5万枚行くかどうかだったんです
それが、いきなり100万枚になった時にどうなるか?

アルバム『この夜にさよなら』の1曲目に『最後の夜汽車』という曲があって
『スポットライトは、どこかの誰かのもの』って歌ってたんですね
そこに、いきなりスポットライトが当たった訳で
彼らが、それをどうハネ除けようとしたか?それこそ、やり過ごそうとしたか?

…と、この日の番組冒頭の田家さんの言葉まで追いついたトコで
ちょうどお時間となりました(笑)この続きはまた次回に…
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J-POP LEGEND FORUM(6/14)その2

2021-07-24 15:19:00 | メディア
「何よりも(『HERO』という)ヒット曲の誕生で
甲斐バンドライブの動員も飛躍的に増えて来ました。時代の先端に躍り出た瞬間がありました
その1970年代の終わりの象徴が、1979年12月の初めての日本武道館2日間公演です
その中からお聴き頂きます。1977年のアルバム『この夜にさよなら』の中から『きんぽうげ』」
…って、ライブ盤じゃなくてオリジナルを流すの!?と思ったら

曲明けに「この曲は、作詞が長岡和弘さんで、作曲がドラムの松藤英男さんですね
1979年12月の初めての日本武道館2日間公演のライブバージョンからお送りしました」と田家さん
「『きんぽうげが好きです!』って言われても、ちっとも嬉しくない(笑)」という
甲斐さんの言葉の意味を、サラッと明らかになさったあと(笑)

「この武道館2日間公演が最初で、解散まで複数回、公演を続けました
この曲が収録されている1980年3月に出たライブアルバム『100万$ナイト』は
日本の音楽史上最強の1枚でしょうね
名盤の1曲目がこの曲…ライブ1曲目もこの曲ですね

これは余談ですけど、BOOWYのマネージャーの故・土屋浩さんが
この『きんぽうげ』を好きだったんですよ
踊るように、この曲を歌っておりましたね、懐かしーなと思って聴いてました」と話されてましたが

奥さんが、ライブで「きんぽうげ」のイントロを聴くと、いまだにテンションが急上昇するのは
一番多感な頃…つまり「甲斐さん中心の生活(笑)」をしていた当時の
「オープニング曲」というイメージが強く残っているからでしょうね(笑)

ともあれ…「1977年のアルバム『この夜にさよなら』の中から
『氷のくちびる』をお聴き頂きました。劇的な曲ですね
こんな風に曲が展開して行くというインパクトがある曲は
ロックバンドの曲の中にも、歌謡曲の中にも
あまりなかったなというのが、当時の印象でした」と振り返っておられました

ただ、その「劇的な展開」をするおかげで
ライブでは「立ったり座ったりはヤメませんか?運動(笑)」が起こったんですよね?(笑)
もっとも、奥さんが足を運んだ会場では
「せっかく立ち上がったのに、ナンでまた座るの?(笑)」というお考えの方が多かったらしい
…って、どこの会場とは言いませんけど…(笑)

「アルバム『この夜にさよなら』は、過渡的な作品だと思ってるんですね
東京と福岡というテーマが歌われる最後のアルバムでもあるんでしょうし
フォークロック的な曲調も、ここから変わって行くという1枚です
この1977年・1978年というのは、バンドだけでなく
甲斐さん自身の経験というのも大きかったなと思います

1977年3月に、初めてニューヨークに行くんです
彼は、ハドソン川が凍りついていたという話をよくしてましたね
厳寒のニューヨーク…その後の10月に『この夜にさよなら』が出ている
そのあと、1978年1月にナッシュビルに行って、ソロのカバーアルバム『翼あるもの』を作ります

ザ・ピーナッツ、ザ・キングトーンズ、ザ・ジャガーズ、かまやつひろしさんとか浜田省吾さん
THE MODSの森山達也さんのアマチュア時代の曲も入ったりしてます
早川義夫さんの『サルビアの花』とか、かなりマニアックなカバーアルバムなんですね

このアルバムを改めて聴いて思ったのが
ザ・フォーク・クルセダーズの『ユエの流れ』がカバーされてるんですね
毎回言ってますけど、自分も含めて、当時の音楽ライターの力不足
甲斐さんが何故この曲を取り上げたのか?と指摘した人がいたかなと…

この曲は、ザ・フォーク・クルセダーズの解散コンサートでも歌われた曲なんですが
元々、ベトナムで歌われていた曲で、第二次世界大戦が終わって
日本に帰れなかった日本の兵隊さんに向けて
ベトナムの民謡に日本語の歌詞を付けたという歌です

1968年というのは、ベトナム戦争の真っ最中で
当時の加藤和彦さんは、この曲を反戦歌というニュアンスで取り上げたと思うんですけど
当時は、そういう議論はほとんどされなかったんじゃないでしょうか」と説明なさってましたが

「翼あるもの」のリリース当時の記事によれば…
甲斐さんは、この「ユエの流れ」について
「通りすがりのレコード店で聞いた曲
美辞麗句を並べただけの歌詞にも関わらず(笑)
涙なくしては聞けない感じ」とコメントされているだけで

他の収録曲…例えば「10$の恋」については
「本当は、憂歌団みたいなバンドを作りたかったけど
内田勘太郎みたいなギタリストは、なかなか居ない
この曲は売春を歌ってるのに、ベタついてないのがいい
いつかやりたい、いつかやりたいと思ってた」と話されてるし

「喫茶店で聞いた会話」は「日本のロックはこれしかない!発想も歌詞もすごい!」と絶賛
「マドモアゼル・ブルース」も「日本最高のポップス
ハードボイルドタッチの歌詞が、たまらなく好き!
アレンジでどれほど変わるか?見事にアートできるか?を示した曲」だそうで

「サルビアの花」に至っては「このアルバムの発想の元になった曲
チラッと社会が見える緊張感があって、甲斐バンドの世界に共通する
歌は早川義夫さんに負けるけど、原曲に近くして自分の声で音にしたかった
早川さんに捧げる」とまでおっしゃっていて
「ユエの流れ」とは、かなり温度差があるような気が…?(苦笑)

まあ、当時の音楽関係者の間では、アルバムの内容よりも
ミュージシャンが、ソロアルバムをリリースする場合には、グループやバンドが契約している
レコード会社からリリースするのが慣例となっているにも関わらず
別のレコード会社からの発売を予定して作られるという「掟破り」が問題視され
週刊誌には「甲斐よしひろがソロアルバムを…甲斐バンド解散か!?」なる記事まで出ました(苦笑)

それはともかく…「このアルバム『翼あるもの』は
甲斐さんが聴いて来た日本のフォークロックへのオマージュと
大げさに言えば、総括にしようとしたアルバムなのかなと思うと
この作品で彼が何にさよならしたのかを考えたくなる流れでもあります」と田家さん

その辺りのことは、前回の記事で、スプリングスティーンの発言などを絡めて
ご紹介しましたので、さておき…「そういう転機と言うと、1978年3月に出た
中野サンプラザでの公演を収録した、初のライブアルバム『CIRCUS & CIRCUS』もありますね

やっぱり、ここから次の扉を開けて、1978年10月のアルバム『誘惑』に繋がります
その中からお聴き下さい『カーテン』」…と
当時の奥さんが「親には絶対聞かれてはいけない!」とドキドキしたという(笑)
アルバム「誘惑」のオープニングナンバーを流されてましたが

デビューアルバム「らいむらいと」から、2ndアルバム「英雄と悪漢」への激変ぶりに
勝るとも劣らない「この夜にさよなら」と「誘惑」との間の変化は
田家さんのおっしゃる通り、楽曲のメインライターであり、バンドリーダーである
「甲斐さん自身の経験」によって、もたらされたのはもちろん

「バンドに喝を入れるため」にお作りになった「翼あるもの」をきっかけに
メンバーの皆さんの意識が変わられたこと…
練習嫌いを改められたり、現状に満足することなく更なる高みを目指されたり
そうそう!松藤さんが初めて、長岡さんのサポートなしに
ドラムのフレーズをお考えになったのは、この「カーテン」なんですよね?
…が大きいんじゃないかと…?

のちに正式メンバーとなられた田中一郎さんが…
「僕、甲斐バンドってスゴイなと思ったの、意外と6~7年前なのね(笑)
甲斐よしひろも、大森信和も、松藤英男も
それなりにミュージシャンとして認めていたけど

スピーカーから出て来るロックを感じたのって、そんな昔じゃないもん
甲斐よしひろが生ギター弾いてた方がいいんじゃないかって思った日もあったし…」
…と話されたのが1984年で、その「6~7年前」といえば
ちょうど「この夜にさよなら」から「誘惑」の辺り
…というのも、決して偶然ではないでしょうね
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J-POP LEGEND FORUM(6/14)その1

2021-07-23 15:50:00 | メディア
「甲斐バンド特集第2週は、シングル『HERO』でヒットする前後の
1977年から1979年までの甲斐バンドを振り返る」とのことですが
まずは「嵐の季節」が流れる中…
「1978年に発売の5枚目のアルバム『誘惑』からお聴き頂いております」と田家さん

「今週の前テーマというより、1曲目という感じですね
いかがですか、この曲?当時も好きな曲だったんですが
今回改めて、ずっと聞き直していて、この曲は響きましたね
今だからこそ響く要素が沢山ある曲だなと思いました

コートの襟を立てて、雨や風をやり過ごそうとする、この毅然とした姿勢
背筋が伸びていて、視線は遠くまで見ていますね
テレビのアナウンサーや新聞のコラムの年寄りが象徴するという世間、世の中に
氾濫している偽りだらけの情報に流されまいとするこの意志

…と、コロナ禍だけでなく、メディアの在り方やSNS問題にも言及しているかの如く
描かれた歌詞を織り込みながら話されたあと
「甲斐バンドは、1970年代の終わりから1980年代に入って
特にハードボイルド路線が強まって来るんですが、この曲がその序章だったなと思いますね
街角に立っております」とおっしゃってましたけど

それは、やはり「5人目の甲斐バンド」と評された佐藤剛さんが
まずマネージャーとして、のちに事務所代表として、甲斐バンドに関わられるようになって
それまでの「女子供の甲斐バンド(汗)」と揶揄されていた状況を打破すべく
歌詞に登場する主人公の一人称を「僕」から「俺」に変更するようサジェストなさったり

甲斐さんご自身も、よりロック色の強いメロディやサウンドを追求し始められたり
ライブの動員数増加に比べ、伸び率が小さかったレコードセールスを意識するようになられたりと
次のフェーズに入るために舵をお切りになった結果じゃないかと…?

ともあれ…「1977年から1979年にかけて、彼らを取り巻く状況は激変しました
作風も変わりましたけど、これは、彼らだけではなかった
1970年代をどう終えるか?というのは、当時のミュージシャン誰もが
必死に追い求めていたテーマで、最後に鞭を入れている場面です」と説明なさってましたが

確かに、当時のインタビュー記事には…「『80年代なんて80年からは始まらないんだ』って
中上健次が言ってたけど、その通りだと思う
突然、80年ですからって始まったものこそ、嘘っぱちなんだよ
だからこそ、79年初頭にチャート1位になって、80年に向かいたかった
正直、やったぜ!と思ったね」とか

「去年、俺たちは、ものすごいスピードで走り抜けたと思う
80年代が輝かしい時代なのか?は別にして
このスピードを維持して、今年…80年もやって行くよ
80年代についてのコピーが色々あるけど、そんなのはどうだっていい
79年を生きた俺たちが、まず80年を生きるということで
現在に身をさらして歌って行くことが一番大事なんだ」…といった言葉が並んでいます

ただ、79年の後半に入ると、マスコミも「80年代」を意識し始め
前述の「コピー」を皮切りに、お祭り騒ぎの様相を呈して来たことを受けて
「2~3年前は、80年って、すごく意識してたけど
これだけ80年代という言葉が氾濫すると、誤魔化されてるって思えて来るのね
80年代に向けて放ったりはしない
俺たちは今を撃ちたいよね、79年の今を…」と甲斐さん

「70年代の後半っていうのは、ニューファミリーとかフィーリングとか
音楽にもニューミュージックなんて言葉が出て来て
(世間は)その雰囲気で何となく判ったような気分になっていた
だけど、俺たちが欲しいものは、そんなものじゃない

自分で納得がいって、自分が確かめられるもの、それしか信じられない
だからこそ、よりリアルな愛を自分の手で探すんだよ
気分や雰囲気だけで流されちゃヤバイよ
気がついたらカラッポだったなんていうことにならないように
ホントの感触を大切にしたいんだ」といったことを繰り返し話されていたそうで

村上龍さんとの対談でも…「もう俺たちは、リアルなものじゃないと絶対に信用しないもんね
フィーリングとかニューファミリーとか、曖昧な70年代の言葉なんて信用しなくなってる
今、79年だけど、体は完全に80年代に行っちゃってるじゃない?
そうすると、触ってみて感じられるもの、リアルなものしか信用しないよ、映画でも歌でもね」とか

「(80年代を予感させる音楽は)やっぱりレゲエだと思うね
パンク・ムーブメントじゃなくて、絶対にレゲエだと思う
パンク・ムーブメントって結局、詞だけじゃなくて曲も暴力だから、それでみんな聞かないと思うんだ
強いことを言えば言うほど、それをスムーズに向こう側に通じさせる手口って大事だと思うな
俺は、本当に自分の思ってることを
みんなに伝えたいと思うからこそ、余計に考える」…とおっしゃってます

奥さんは今回改めて、79年は「HERO」の年みたいに言われているものの
80年代に向かわれる甲斐さんの中ではもう
「感触」がジャストフィットしていらしたことを思い出し
リアルタイムで、甲斐バンドのライブを観たり
甲斐さんのラジオを聴いていたことの幸運を実感したようで
「だから『ただオイラは街角に立ち お前の薔薇色の髪に顔を埋め今を感じていたいのさ』
…っていう歌詞が好きなのかも?」と申しておりました(笑)

もっとも「80年代」というワードで、一番印象に残っているのは
甲斐さんが、山口百恵さんの「しなやかに歌って」という曲に
「80年代に向かって」とのサブタイトルが付いていたことに
「ナニ言ってんだ?」とツッコんでいらしたことらしいけど…(笑)

それはともかく…田家さんは「先週のテーマは、福岡から上京して
東京と色々な形で格闘していたということでした
今週は、先週にはなかった官能的な艶、妖しさのようなものが加わって来る時期です
少年性に男の魅力が備わって来るバンドの充実
骨太なバンド…ロックバンドとしての新しい扉が開いて来ます」と紹介されてましたが

甲斐さんによれば…「『英雄と悪漢』『この夜にさよなら』それに『ガラスの動物園』なんかでは
僕の個人的な内なる思いが歌になって行った
自分の側から女を歌っていたし、結局、自分の中でしか完結しえなかったんだ
それが『誘惑』からは、外に向けて告発をし始めた
もちろん、個人的な理由からだけどね」…ということみたいです

「この夜にさよなら」を作っていらした時
長岡さんに「もう書けない…これ以上何を書けばいいんだ…」と涙を流されたそうですが(汗)
その後、スプリングスティーンの「夜は自由、夜は無限」という言葉から
「夜は昼の向こう側にあるだけじゃない
自由な無限の夜の側から見ると、昼はギリギリの今なんだ」ということに気づかれ

「これまでの歌って、いつも泣いてる
いつも悲しみに沈んでいて、いつも失恋なわけ
でもさ、そういう姿も本当だろうけど、人間って、泣き腫らしたあと
どこへ行ったらいいのか考えるんじゃないか?そんな曲を、今作りたいんだ
『この夜にさよなら』までで、俺は、俺の夜の世界から昼へ移行した
早くしないと燃えかすになっちまう『今』を、今こそ歌うためにね」と語っておられました

まあ、奥さん達のような初期からの甲斐よしひろファンの皆さんに
「よく判ってらっしゃる♪」と絶大な人気がおありだった(笑)水上はるこさんは
同じスプリングスティーンの言葉をお聴きになって
「そう、夜はただ昼の向こう側にあるだけの季節ではない
夜の隙間に、甲斐よしひろは魂を預ける」と評されてましたけど…(笑)
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J-POP LEGEND FORUM(6/7)その4

2021-07-22 14:52:00 | メディア
「今日は、番組の冒頭で『甲斐バンドは、はっぴいえんどからBOOWYまでの過程の
最重要バンドである』と話しました」と田家さん

「はっぴいえんどは、1970年から実質2年半の活動で、アルバム3枚しかない
その中の『風街ろまん』は、あまりにも傑作で、史上に残る金字塔だった訳で
あのアルバムがずっと語り継がれるのは当然だと思います

ですが、バンドという集合体の歴史で言うと
その後のロック史で語られるべきものが、どのくらいあるんだろうかと思ったりするんです
どのくらいの期間活動して、何を残したのかを考えた時に
甲斐バンドは、違う形でもっと語られるべきだろうというのが、今月の趣旨でもある
…ちょっと偉そうですね(笑)

何が違うかと言うと、例えば『風街ろまん』は
松本隆さんの都市幻想みたいなものが、彼の言葉によって作り上げられてましたが
甲斐バンドは、もっと生々しかった
1970年代の東京とか、当時の都会の光と影が
特に、2枚目と3枚目のアルバムで脈々と歌われている。そして、それが劇的だった
そこには、時代の青春みたいなものがあったことも付け加えなければなりません

例えば、次の曲をお聴き頂こうと思います
1976年10月に出た3枚目のアルバム『ガラスの動物園』から『新宿』」…を流され
「ルー・リードがニューヨークを歌ったように、甲斐バンドは新宿を歌い
そして、2枚のアルバム…『英雄と悪漢』『ガラスの動物園』…で東京を歌いました

『ガラスの動物園』には『東京の一夜』という曲があって、これは、メロディの覚えやすさや
『東京の一夜はこの町で過ごす一年のよう』という
フレーズの鮮烈さから、いまだに支持の高い曲です

『ガラスの動物園』の中には『男と女のいる舗道』という曲もあるんですけど
ジャン・リュック=ゴダール監督の作品に『女と男のいる舗道』という名作がありますし
『ガラスの動物園』というアルバムのタイトルは、テネシー・ウィリアムズの有名な戯曲ですね

2枚目のアルバム『英雄と悪漢』というのは
ビーチボーイズに、そういうタイトルの曲がありますけど
その曲は、作曲がブライアン・ウィルソンとヴァン・ダイク・パークスの共作です

このヴァン・ダイク・パークスと言えば、はっぴいえんどの3枚目のアルバムにも加わってますし
細野晴臣さんは、いまだにつき合いがあるというですね
ロックファンの中では忘れてはいけない1人なんですけど
甲斐バンドの流れの中で、こういう名前が出て来たことは、あまりないと思います

これは、当時の音楽ライターの力量不足だった
甲斐バンドをそういう風に見て来た人が、どのくらいいただろうと…
その辺にちゃんと反応したのは、萩原健太さんくらいだったんじゃないかと改めて思ったりします

そういう甲斐バンドの文化性、映画や小説が作品の中に反映されていることも
特徴として見ないといけないですね」…って
当時の甲斐バンドのディレクターでいらした中曽根純也さんのお言葉を借りれば
「都会との遭遇戦」に挑まれていた頃の甲斐さんが
「彼女と別れた直後に作ったアルバム」の中で

「個人的な経験とか思いを剥き出しで書くのか
それとも、ほどほどにしておくのか」悩まれた結果、前者をお選びになり
あくまでも「作品として成立させて」全てをさらけ出されたことで
「本当の意味で『プロ』になったと思った」アルバムですし

当時のご自身の中にあった様々なもの…これまでお聴きになって来た音楽や
ご覧になった映画、お読みになった書籍などから受けられた刺激、呼び起こされた感情…が
その作品に反映していたのは、自然なことだったと思います

それはともかく…「でも、お客さんは、ほとんど女の子だった
先ほどの『吟遊詩人の唄』の間奏の女の子の歓声、合唱…まず女の子が反応したんですね
これは、いつの時代もそうなんだと思いますが
ビートルズもエルヴィス・プレスリーも、最初は女の子からだった

甲斐バンドも、甲斐さんのステージでの声やパフォーマンスが入口となって
女の子が『カッコいい!』『ステキだ!』というところから入って行った
…というのは、確かに間違いじゃないんですけど
「だから、甲斐バンドを語る上で、洋楽のタイトルやミュージシャンの名前を出さなかったというのは
当時の女子のこと、バカにしてるよね?」と奥さん(苦笑)

まあ、当時小学生の奥さんに、ヴァン・ダイク・パークスは難しかったかも知れませんが
それでも、ゴダールの映画やテネシー・ウィリアムズの戯曲は目にしていたみたいで
それを模したタイトルが付けられていることは
「言われなくても知ってたけどね!(笑)」と申しておりました(笑)

もっとも、田家さんのお話の趣旨はそこじゃなく
「1976年・1977年というのは、甲斐バンドのライブ伝説の始まり」だったようで
「例えば、女子大の学園祭で、お客さんが折り重なって負傷者が出たとか
ライブハウスのチケットは、4日徹夜しないと買えないとか

大阪のサンケイホールのオケピットが落ちたり
極めつけは、1977年5月8日の渋谷公会堂の公演
渋谷公会堂の伝説と言うと、1987年12月24日のBOOWYの最後のライブがありますけど
甲斐バンドのこの日の公演では、会場から駅まで、お客さんが辿り着けずに倒れて
何度も救急車が出動したという証言があります」
…と、かつての日劇ウエスタン・カーニバルもかくやという
甲斐バンドファンの熱狂ぶりを紹介なさってました

ともあれ…「今日は最後に、最初に流したライブアルバム
『CIRCUS & CIRCUS 2019』の中の『吟遊詩人の唄』と同じ
1977年12月の中野サンプラザのコンサートの
『悪いうわさ』と『ダニーボーイに耳をふさいで』のメドレーをお聴き頂こうと思います」と田家さん

曲明けには…「甲斐バンド 栄光の軌跡パート1
1970年代から1980年代にかけての新しい時代を切り開いたロックバンドの12年間を辿ってます
今週は、1974年から1977年半ば頃までお話ししました

音楽の語り方というのは、色々な切口があると思います
でも、その時代には語り切れなかったことや、その時代にあまり評価されなかったことが
時間が経つに連れて見えて来たり、改めて評価されたりということがあります

甲斐バンドが、1986年に解散して35年経つ訳ですが
そのあとに彼らがどのように語られて来たのかなと思ったりしながら
この(番組の)選曲のためにアルバムを聞き直してました

私事ですが、1985年に『ポップコーンをほおばって』という本を出したんですね
これは、甲斐バンドのファンクラブの機関紙
『BEATNIK』という新聞に連載していたものでした
『Another・side・of・KAI BAND』という
何故その人は甲斐バンドに当時惹かれたのか?という動機や背景を追った連載が本になった

改めて読み返してみると、やっぱり力足らずと言いますか、一面的で
もっと書くことがあったんじゃないかとか、色々なことを考えながら
来週以降の放送に臨もうと思ってます

今の音楽ライターや、今の音楽を聴いている人たち、洋楽に詳しい人たちが
改めて甲斐バンドを聞き直して評価するきっかけになれば良いなと思う1ヶ月
来週は、1977年から1979年までの話を辿ってみようと…
作風や時代、色々なことが劇的に変わって行く3年間をお送りしようと思います」

…と結ばれてましたが、第1回を拝聴した限りでは
やはり、これは田家さんからのラブレターかなあと…?(笑)
まあ、1986年以降の甲斐バンドには触れられないみたいですし
現在の視点を、甲斐バンドデビューからの「十二年戦争」に当てて…という形だけど

かつて愛した人の、当時は気づかなかった魅力を改めて認識し
その素晴らしさを多くの人に知って貰いたい
といった心境で語られて行くんじゃないかと、激動の第2回に期待が膨らみました♪
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J-POP LEGEND FORUM(6/7)その3

2021-07-21 15:02:00 | メディア
「さて、今日は1975年と1976年の2枚のアルバムからお送りしようと思ってるんですが
この2枚のアルバムでは、当時の甲斐バンドの東京との葛藤が鮮烈に歌われてます
その1975年のアルバム『英雄と悪漢』から『東京の冷たい壁にもたれて』」を流されたあと

「甲斐バンドは今、3人で活動しています
甲斐よしひろさん、松藤英男さん、田中一郎さん
田中一郎さんは、当時『リンドン』というバンドに在籍していて、そのあとに『ARB』に行って
甲斐バンドには、1983年から加入しました

オリジナルメンバーは、甲斐さん、ギターが大森信和さん
ベースが長岡和弘さん、ドラムが松藤英男さんでした
ベースの長岡さんは、1979年に脱退して
キャニオンレコードに入って、ヒットディレクターになります
大森さんは、2004年に52歳の若さで亡くなってしまうんです

そして、甲斐バンドは今の形になります
全員が福岡出身で、ライブハウス…当時はフォーク喫茶『照和』で活動していた
みんなそれぞれ自分たちのバンドを持っていたんですね
甲斐さんは、高校生の時に『ノーマン・ホイットフィールド』という
カントリーバンドをやっていたんですけど
これは、今改めてお伝えしないといけないですね

『ノーマン・ホイットフィールド』っていうのは
モータウンレコードのシンガー・ソングライターでプロデューサー
マーヴィン・ゲイの『悲しいうわさ』を作った人でですね
それと、カントリーバンドだったっていうのが
甲斐バンドを考える時の1つの入口になりますね」

…と話されてましたが、甲斐さんが「モータウンとストーンズをひたすら思い浮かべ」
お書きになった曲をビルボードシリーズ用にアレンジなさった鈴木健太さんによれば
「『アメリカン・フォークっぽいアプローチでやろう』という方向性は予め貰っていて
とはいえ、甲斐さんが求めていたのは、とてもトラディショナルなスタイル

甲斐さんの音楽は、元々アメリカン・ルーツ・ミュージックを踏まえているというか
そこからの発展形として作られてる曲が多いと思うんです
コードを分解したり、シンプルなコードに置き換えたりすると、あの甲斐バンドの曲が
本当に自然にアメリカン・トラディショナルな雰囲気に重なってしまったりする」そうですし
田家さんのおっしゃる「1つの入口」は、重要なキーワードみたいですね

「甲斐さんは、高校生の時に『照和』で歌っていたんですけど
一度、旅行代理店に勤めるようになるんですね
でも、そこを辞めて『照和』にですね、ウェイターとして戻って来て、また歌い出すんですね
それから、さっき話した文化放送のコンテストにソロで出て優勝してプロになるんですけど
その時に、このメンバーになるんです

すでに、大森さんと長岡さんは、一緒にやっていて
そこに『ピエロ』というバンドでギターを弾いていた松藤さんをドラマーとして迎え入れるという
そんな成り立ちで、結成が1974年5月、当時のキャッチフレーズというのがですね
『九州最後のスーパースター』…これは、事務所が考えたものですね」と田家さん

このキャッチフレーズは、前回の記事に登場した「チューリップのマネージャー」西田四郎さんが
「やたら九州だ、福岡だと騒がれてたでしょう?今、福岡がブームだって…
もうそんなミソもクソも一緒みたいなことはヤメにしようっていう意味で
『九州最後』って付けちゃった」そうですが

当時の田家さんは「かなり乱暴な表現だったと言えるだろう
それ以後の新しい流れを断ち切ってしまう、独断的なコピーでもあるからだ
そして、僕などは、それに少なからず反発を抱いた組だった」とおっしゃってました(笑)

ともあれ…「『照和』というのは、チューリップ、海援隊、甲斐バンドを生み出している
今は、井上陽水さんもその中に括られることが多いんですが
実は、陽水さんはアマチュア時代に『照和』で歌ったことはないんですよ

陽水さんは『アンドレ・カンドレ』という名前で、まず東京に出て来てしまいましたから
福岡でライブをやったことがないんですよね
陽水さんが『照和』でライブをやったのはデビュー後ですね
これは、付け加えておきましょう」と説明なさってましたけど

陽水さんが「照和」におみえになり、当時のチーフの方から「1曲歌って下さい」と言われて
「コーラ1杯しか出せないステージなのに、ギターの弦を張り替え始めた
そして『リンゴ追分』とビートルズナンバー、それに『傘がない』を歌った」のをご覧になり

「その時、プロは東京でどんなに厳しい生活をやっているのかを
まざまざと見せつけられた気がした」ウェイターの方は
その後、ご自身のラジオ番組に陽水さんを招いて、そのお話をなさったものの
当の陽水さんは、全く覚えておられなかったんですよね?(笑)

「当時の福岡のバンドの人脈というのは、東京で言うと
細野晴臣さんとか小坂忠さん、鈴木茂さん、柳田ヒロさんとか
ああいう人たちを中心に蠢いていた、それに匹敵していて
更に、街全体がそんな感じだったんだと思うと
当時の福岡は、本当にスゴイと思いました

では、続いて、甲斐バンドの最初のヒット曲で、1975年6月発売の2枚目のシングル
『裏切りの街角』をお聴き下さい」と田家さん
曲が明けると…「この曲は、シングルチャート7位
本人たちが希望した訳じゃないでしょうけど、有線放送大賞の新人賞を貰ったりしてます」

…って、その授賞式で、岩崎宏美さんや細川たかしさんと並んでいらしたこと自体が
当時の音楽業界で、フォークやロックというジャンルが
どういう位置付けだったかを如実に語っているような気が…(苦笑)

そうそう!甲斐さんがいつも、このエピソードのオチになさっている(失礼!)
「夜の訪問者」の小川順子さんは、学生時代のさんまさんが
麻丘めぐみさんや浅田美代子さんと同じくらい憧れていらした方だったと知ってビックリ!
浅田さんが、20年前のさんまさんのお誕生日に、麻丘さんと小川さんに声をおかけになり
それぞれの歌をプレゼントなさったら、さんまさんは「涙が止まらなかった」んだとか…

それはさておき…「甲斐さんのエピソードはですね、伝説的に色々あって
小学生の頃に、紅白歌合戦に出場している曲の歌詞を全部暗記していたという
歌謡曲少年でもありました。その一方で、その何倍かの洋楽を聴く洋楽少年でして
高校生の時に『ノーマン・ホイットフィールド』で、CCRのカバーをやったりしていた
…という話も、このあと出て来ます」と田家さん

「1975年10月発売のシングル『かりそめのスウィング』
ロックでも歌謡曲でもない、レトロなジャジーさは
当時、新鮮だったんですけど、ヒットしませんでしたね
この時一番ヒットしていたのが、ダウンタウン・ブギウギ・バンドの
『スモーキング・ブギ』ですからね

あのスリーコードの判りやすさに比べると
この曲が、なかなかカテゴライズ出来なかったということが、今ならよく判りますね
『裏切りの街角』は、誰もが歌える歌謡曲的な一面があったんですけど
それとは対極的に大人っぽいことをしようとしたのが『かりそめのスウィング』でしょうね」

と分析なさってましたが、甲斐さんご自身は…
「そりゃあ、新人賞もらって評価してもらってさあ、文句言うヤツはいないけど
それとは別の部分でね、しばらく芸能界見聞きすりゃ、見えて来ることもあってね
『派手な見てくれの虚像に踊ってる内に足元すくわれちゃうぞ
この世界はほどほどにしとけ、ヤバイぞ』ってな内部の声が発信された訳でね

俺たちはテレビ出るのをヤメて、やっぱり『生』のステージだってツアーに繰り出した
レコードにも、しっかり入れ込んでね
それは『裏切りの街角』がヒットしてから、時代の掴み方っていうのか
ニオイの嗅ぎ分け方っていうのか、何かそういう直感がね
『俺は間違ってないんだ』っていう、自負が出てもいたんだよね

甲斐よしひろっていう、ひとりの男の肉体と感情のバランスの取り方が見えて来て
二十数年研究して来た『甲斐よしひろ操縦法』の研究の成果が
『裏切りの街角』のヒットで実証できた!と、単純に思ったんだな
しかし、この山師っぽい思い込みが、今思うと残念だねぇ(笑)

この気負いが、次のシングル『かりそめのスウィング』になだれ込んで、コケさせたという(笑)
この頃の俺は、俗に言う『若気の至り』というもんに取り憑かれてたんでしょう(笑)
血気盛んな若者でありました(笑)」…と振り返っておられました(笑)

ただ、確かに当時の事務所やレコード会社から出された
「裏切りの街角」の路線で「2匹目のドジョウ」を狙うようにとの指示を蹴って(笑)お書きになった
全く系統の違う「かりそめのスウィング」の結果は振るわなかったものの(汗)
業界には、この曲の魅力を評価なさる方が少なくなかったようですし

その後「HERO」のヒットを受けて、今度は同じ路線の「感触」をお書きになったのに
結果は「かりそめのスウィング」の時と大差なかったらしく(苦笑)
「ナンだよ、それ(笑)」と笑っておられたんですよね?(笑)
コメント
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