ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

J-POP LEGEND FORUM(6/14)その2

2021-07-24 15:19:00 | メディア
「何よりも(『HERO』という)ヒット曲の誕生で
甲斐バンドライブの動員も飛躍的に増えて来ました。時代の先端に躍り出た瞬間がありました
その1970年代の終わりの象徴が、1979年12月の初めての日本武道館2日間公演です
その中からお聴き頂きます。1977年のアルバム『この夜にさよなら』の中から『きんぽうげ』」
…って、ライブ盤じゃなくてオリジナルを流すの!?と思ったら

曲明けに「この曲は、作詞が長岡和弘さんで、作曲がドラムの松藤英男さんですね
1979年12月の初めての日本武道館2日間公演のライブバージョンからお送りしました」と田家さん
「『きんぽうげが好きです!』って言われても、ちっとも嬉しくない(笑)」という
甲斐さんの言葉の意味を、サラッと明らかになさったあと(笑)

「この武道館2日間公演が最初で、解散まで複数回、公演を続けました
この曲が収録されている1980年3月に出たライブアルバム『100万$ナイト』は
日本の音楽史上最強の1枚でしょうね
名盤の1曲目がこの曲…ライブ1曲目もこの曲ですね

これは余談ですけど、BOOWYのマネージャーの故・土屋浩さんが
この『きんぽうげ』を好きだったんですよ
踊るように、この曲を歌っておりましたね、懐かしーなと思って聴いてました」と話されてましたが

奥さんが、ライブで「きんぽうげ」のイントロを聴くと、いまだにテンションが急上昇するのは
一番多感な頃…つまり「甲斐さん中心の生活(笑)」をしていた当時の
「オープニング曲」というイメージが強く残っているからでしょうね(笑)

ともあれ…「1977年のアルバム『この夜にさよなら』の中から
『氷のくちびる』をお聴き頂きました。劇的な曲ですね
こんな風に曲が展開して行くというインパクトがある曲は
ロックバンドの曲の中にも、歌謡曲の中にも
あまりなかったなというのが、当時の印象でした」と振り返っておられました

ただ、その「劇的な展開」をするおかげで
ライブでは「立ったり座ったりはヤメませんか?運動(笑)」が起こったんですよね?(笑)
もっとも、奥さんが足を運んだ会場では
「せっかく立ち上がったのに、ナンでまた座るの?(笑)」というお考えの方が多かったらしい
…って、どこの会場とは言いませんけど…(笑)

「アルバム『この夜にさよなら』は、過渡的な作品だと思ってるんですね
東京と福岡というテーマが歌われる最後のアルバムでもあるんでしょうし
フォークロック的な曲調も、ここから変わって行くという1枚です
この1977年・1978年というのは、バンドだけでなく
甲斐さん自身の経験というのも大きかったなと思います

1977年3月に、初めてニューヨークに行くんです
彼は、ハドソン川が凍りついていたという話をよくしてましたね
厳寒のニューヨーク…その後の10月に『この夜にさよなら』が出ている
そのあと、1978年1月にナッシュビルに行って、ソロのカバーアルバム『翼あるもの』を作ります

ザ・ピーナッツ、ザ・キングトーンズ、ザ・ジャガーズ、かまやつひろしさんとか浜田省吾さん
THE MODSの森山達也さんのアマチュア時代の曲も入ったりしてます
早川義夫さんの『サルビアの花』とか、かなりマニアックなカバーアルバムなんですね

このアルバムを改めて聴いて思ったのが
ザ・フォーク・クルセダーズの『ユエの流れ』がカバーされてるんですね
毎回言ってますけど、自分も含めて、当時の音楽ライターの力不足
甲斐さんが何故この曲を取り上げたのか?と指摘した人がいたかなと…

この曲は、ザ・フォーク・クルセダーズの解散コンサートでも歌われた曲なんですが
元々、ベトナムで歌われていた曲で、第二次世界大戦が終わって
日本に帰れなかった日本の兵隊さんに向けて
ベトナムの民謡に日本語の歌詞を付けたという歌です

1968年というのは、ベトナム戦争の真っ最中で
当時の加藤和彦さんは、この曲を反戦歌というニュアンスで取り上げたと思うんですけど
当時は、そういう議論はほとんどされなかったんじゃないでしょうか」と説明なさってましたが

「翼あるもの」のリリース当時の記事によれば…
甲斐さんは、この「ユエの流れ」について
「通りすがりのレコード店で聞いた曲
美辞麗句を並べただけの歌詞にも関わらず(笑)
涙なくしては聞けない感じ」とコメントされているだけで

他の収録曲…例えば「10$の恋」については
「本当は、憂歌団みたいなバンドを作りたかったけど
内田勘太郎みたいなギタリストは、なかなか居ない
この曲は売春を歌ってるのに、ベタついてないのがいい
いつかやりたい、いつかやりたいと思ってた」と話されてるし

「喫茶店で聞いた会話」は「日本のロックはこれしかない!発想も歌詞もすごい!」と絶賛
「マドモアゼル・ブルース」も「日本最高のポップス
ハードボイルドタッチの歌詞が、たまらなく好き!
アレンジでどれほど変わるか?見事にアートできるか?を示した曲」だそうで

「サルビアの花」に至っては「このアルバムの発想の元になった曲
チラッと社会が見える緊張感があって、甲斐バンドの世界に共通する
歌は早川義夫さんに負けるけど、原曲に近くして自分の声で音にしたかった
早川さんに捧げる」とまでおっしゃっていて
「ユエの流れ」とは、かなり温度差があるような気が…?(苦笑)

まあ、当時の音楽関係者の間では、アルバムの内容よりも
ミュージシャンが、ソロアルバムをリリースする場合には、グループやバンドが契約している
レコード会社からリリースするのが慣例となっているにも関わらず
別のレコード会社からの発売を予定して作られるという「掟破り」が問題視され
週刊誌には「甲斐よしひろがソロアルバムを…甲斐バンド解散か!?」なる記事まで出ました(苦笑)

それはともかく…「このアルバム『翼あるもの』は
甲斐さんが聴いて来た日本のフォークロックへのオマージュと
大げさに言えば、総括にしようとしたアルバムなのかなと思うと
この作品で彼が何にさよならしたのかを考えたくなる流れでもあります」と田家さん

その辺りのことは、前回の記事で、スプリングスティーンの発言などを絡めて
ご紹介しましたので、さておき…「そういう転機と言うと、1978年3月に出た
中野サンプラザでの公演を収録した、初のライブアルバム『CIRCUS & CIRCUS』もありますね

やっぱり、ここから次の扉を開けて、1978年10月のアルバム『誘惑』に繋がります
その中からお聴き下さい『カーテン』」…と
当時の奥さんが「親には絶対聞かれてはいけない!」とドキドキしたという(笑)
アルバム「誘惑」のオープニングナンバーを流されてましたが

デビューアルバム「らいむらいと」から、2ndアルバム「英雄と悪漢」への激変ぶりに
勝るとも劣らない「この夜にさよなら」と「誘惑」との間の変化は
田家さんのおっしゃる通り、楽曲のメインライターであり、バンドリーダーである
「甲斐さん自身の経験」によって、もたらされたのはもちろん

「バンドに喝を入れるため」にお作りになった「翼あるもの」をきっかけに
メンバーの皆さんの意識が変わられたこと…
練習嫌いを改められたり、現状に満足することなく更なる高みを目指されたり
そうそう!松藤さんが初めて、長岡さんのサポートなしに
ドラムのフレーズをお考えになったのは、この「カーテン」なんですよね?
…が大きいんじゃないかと…?

のちに正式メンバーとなられた田中一郎さんが…
「僕、甲斐バンドってスゴイなと思ったの、意外と6~7年前なのね(笑)
甲斐よしひろも、大森信和も、松藤英男も
それなりにミュージシャンとして認めていたけど

スピーカーから出て来るロックを感じたのって、そんな昔じゃないもん
甲斐よしひろが生ギター弾いてた方がいいんじゃないかって思った日もあったし…」
…と話されたのが1984年で、その「6~7年前」といえば
ちょうど「この夜にさよなら」から「誘惑」の辺り
…というのも、決して偶然ではないでしょうね
コメント
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