ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

J-POP LEGEND FORUM(6/7)その3

2021-07-21 15:02:00 | メディア
「さて、今日は1975年と1976年の2枚のアルバムからお送りしようと思ってるんですが
この2枚のアルバムでは、当時の甲斐バンドの東京との葛藤が鮮烈に歌われてます
その1975年のアルバム『英雄と悪漢』から『東京の冷たい壁にもたれて』」を流されたあと

「甲斐バンドは今、3人で活動しています
甲斐よしひろさん、松藤英男さん、田中一郎さん
田中一郎さんは、当時『リンドン』というバンドに在籍していて、そのあとに『ARB』に行って
甲斐バンドには、1983年から加入しました

オリジナルメンバーは、甲斐さん、ギターが大森信和さん
ベースが長岡和弘さん、ドラムが松藤英男さんでした
ベースの長岡さんは、1979年に脱退して
キャニオンレコードに入って、ヒットディレクターになります
大森さんは、2004年に52歳の若さで亡くなってしまうんです

そして、甲斐バンドは今の形になります
全員が福岡出身で、ライブハウス…当時はフォーク喫茶『照和』で活動していた
みんなそれぞれ自分たちのバンドを持っていたんですね
甲斐さんは、高校生の時に『ノーマン・ホイットフィールド』という
カントリーバンドをやっていたんですけど
これは、今改めてお伝えしないといけないですね

『ノーマン・ホイットフィールド』っていうのは
モータウンレコードのシンガー・ソングライターでプロデューサー
マーヴィン・ゲイの『悲しいうわさ』を作った人でですね
それと、カントリーバンドだったっていうのが
甲斐バンドを考える時の1つの入口になりますね」

…と話されてましたが、甲斐さんが「モータウンとストーンズをひたすら思い浮かべ」
お書きになった曲をビルボードシリーズ用にアレンジなさった鈴木健太さんによれば
「『アメリカン・フォークっぽいアプローチでやろう』という方向性は予め貰っていて
とはいえ、甲斐さんが求めていたのは、とてもトラディショナルなスタイル

甲斐さんの音楽は、元々アメリカン・ルーツ・ミュージックを踏まえているというか
そこからの発展形として作られてる曲が多いと思うんです
コードを分解したり、シンプルなコードに置き換えたりすると、あの甲斐バンドの曲が
本当に自然にアメリカン・トラディショナルな雰囲気に重なってしまったりする」そうですし
田家さんのおっしゃる「1つの入口」は、重要なキーワードみたいですね

「甲斐さんは、高校生の時に『照和』で歌っていたんですけど
一度、旅行代理店に勤めるようになるんですね
でも、そこを辞めて『照和』にですね、ウェイターとして戻って来て、また歌い出すんですね
それから、さっき話した文化放送のコンテストにソロで出て優勝してプロになるんですけど
その時に、このメンバーになるんです

すでに、大森さんと長岡さんは、一緒にやっていて
そこに『ピエロ』というバンドでギターを弾いていた松藤さんをドラマーとして迎え入れるという
そんな成り立ちで、結成が1974年5月、当時のキャッチフレーズというのがですね
『九州最後のスーパースター』…これは、事務所が考えたものですね」と田家さん

このキャッチフレーズは、前回の記事に登場した「チューリップのマネージャー」西田四郎さんが
「やたら九州だ、福岡だと騒がれてたでしょう?今、福岡がブームだって…
もうそんなミソもクソも一緒みたいなことはヤメにしようっていう意味で
『九州最後』って付けちゃった」そうですが

当時の田家さんは「かなり乱暴な表現だったと言えるだろう
それ以後の新しい流れを断ち切ってしまう、独断的なコピーでもあるからだ
そして、僕などは、それに少なからず反発を抱いた組だった」とおっしゃってました(笑)

ともあれ…「『照和』というのは、チューリップ、海援隊、甲斐バンドを生み出している
今は、井上陽水さんもその中に括られることが多いんですが
実は、陽水さんはアマチュア時代に『照和』で歌ったことはないんですよ

陽水さんは『アンドレ・カンドレ』という名前で、まず東京に出て来てしまいましたから
福岡でライブをやったことがないんですよね
陽水さんが『照和』でライブをやったのはデビュー後ですね
これは、付け加えておきましょう」と説明なさってましたけど

陽水さんが「照和」におみえになり、当時のチーフの方から「1曲歌って下さい」と言われて
「コーラ1杯しか出せないステージなのに、ギターの弦を張り替え始めた
そして『リンゴ追分』とビートルズナンバー、それに『傘がない』を歌った」のをご覧になり

「その時、プロは東京でどんなに厳しい生活をやっているのかを
まざまざと見せつけられた気がした」ウェイターの方は
その後、ご自身のラジオ番組に陽水さんを招いて、そのお話をなさったものの
当の陽水さんは、全く覚えておられなかったんですよね?(笑)

「当時の福岡のバンドの人脈というのは、東京で言うと
細野晴臣さんとか小坂忠さん、鈴木茂さん、柳田ヒロさんとか
ああいう人たちを中心に蠢いていた、それに匹敵していて
更に、街全体がそんな感じだったんだと思うと
当時の福岡は、本当にスゴイと思いました

では、続いて、甲斐バンドの最初のヒット曲で、1975年6月発売の2枚目のシングル
『裏切りの街角』をお聴き下さい」と田家さん
曲が明けると…「この曲は、シングルチャート7位
本人たちが希望した訳じゃないでしょうけど、有線放送大賞の新人賞を貰ったりしてます」

…って、その授賞式で、岩崎宏美さんや細川たかしさんと並んでいらしたこと自体が
当時の音楽業界で、フォークやロックというジャンルが
どういう位置付けだったかを如実に語っているような気が…(苦笑)

そうそう!甲斐さんがいつも、このエピソードのオチになさっている(失礼!)
「夜の訪問者」の小川順子さんは、学生時代のさんまさんが
麻丘めぐみさんや浅田美代子さんと同じくらい憧れていらした方だったと知ってビックリ!
浅田さんが、20年前のさんまさんのお誕生日に、麻丘さんと小川さんに声をおかけになり
それぞれの歌をプレゼントなさったら、さんまさんは「涙が止まらなかった」んだとか…

それはさておき…「甲斐さんのエピソードはですね、伝説的に色々あって
小学生の頃に、紅白歌合戦に出場している曲の歌詞を全部暗記していたという
歌謡曲少年でもありました。その一方で、その何倍かの洋楽を聴く洋楽少年でして
高校生の時に『ノーマン・ホイットフィールド』で、CCRのカバーをやったりしていた
…という話も、このあと出て来ます」と田家さん

「1975年10月発売のシングル『かりそめのスウィング』
ロックでも歌謡曲でもない、レトロなジャジーさは
当時、新鮮だったんですけど、ヒットしませんでしたね
この時一番ヒットしていたのが、ダウンタウン・ブギウギ・バンドの
『スモーキング・ブギ』ですからね

あのスリーコードの判りやすさに比べると
この曲が、なかなかカテゴライズ出来なかったということが、今ならよく判りますね
『裏切りの街角』は、誰もが歌える歌謡曲的な一面があったんですけど
それとは対極的に大人っぽいことをしようとしたのが『かりそめのスウィング』でしょうね」

と分析なさってましたが、甲斐さんご自身は…
「そりゃあ、新人賞もらって評価してもらってさあ、文句言うヤツはいないけど
それとは別の部分でね、しばらく芸能界見聞きすりゃ、見えて来ることもあってね
『派手な見てくれの虚像に踊ってる内に足元すくわれちゃうぞ
この世界はほどほどにしとけ、ヤバイぞ』ってな内部の声が発信された訳でね

俺たちはテレビ出るのをヤメて、やっぱり『生』のステージだってツアーに繰り出した
レコードにも、しっかり入れ込んでね
それは『裏切りの街角』がヒットしてから、時代の掴み方っていうのか
ニオイの嗅ぎ分け方っていうのか、何かそういう直感がね
『俺は間違ってないんだ』っていう、自負が出てもいたんだよね

甲斐よしひろっていう、ひとりの男の肉体と感情のバランスの取り方が見えて来て
二十数年研究して来た『甲斐よしひろ操縦法』の研究の成果が
『裏切りの街角』のヒットで実証できた!と、単純に思ったんだな
しかし、この山師っぽい思い込みが、今思うと残念だねぇ(笑)

この気負いが、次のシングル『かりそめのスウィング』になだれ込んで、コケさせたという(笑)
この頃の俺は、俗に言う『若気の至り』というもんに取り憑かれてたんでしょう(笑)
血気盛んな若者でありました(笑)」…と振り返っておられました(笑)

ただ、確かに当時の事務所やレコード会社から出された
「裏切りの街角」の路線で「2匹目のドジョウ」を狙うようにとの指示を蹴って(笑)お書きになった
全く系統の違う「かりそめのスウィング」の結果は振るわなかったものの(汗)
業界には、この曲の魅力を評価なさる方が少なくなかったようですし

その後「HERO」のヒットを受けて、今度は同じ路線の「感触」をお書きになったのに
結果は「かりそめのスウィング」の時と大差なかったらしく(苦笑)
「ナンだよ、それ(笑)」と笑っておられたんですよね?(笑)
コメント
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