リービ英雄『星条旗の聞こえない部屋』(講談社、1992年)
この小説の時代は1968年あたり。つまり現実に私が生きた時代から言えば、大学に入るために大阪に出てくる数年前の時代。主人公のベン・アイザックという、日本のメリカ領事館に勤める父親を持つアメリカ人の視点から書かれているが、ベンに向ける日本人たちのまなざしや態度はまるで黒船がやってきて日本の体制をひっくり返してしまった直後のような雰囲気である。
ベンが日本語を話しかけようとするのに日本人のほうが聞く耳をもたず、ベンの普通の日本語を訳の分からない外国語のように理解しようとしてくれないために、ベンの言葉は吃音者の話す第一音のように、滑らかに日本人の耳に入っていかないというエピソードがその時代の雰囲気をよく表している。
そんな時代に私は高校時代をすごしていたのだろうか、こんな時代のすぐ後の時代に私は大学生活を大阪で過ごしていたのだろうか?と不思議に思う。自分の体験でいえば、もちろんその頃はパソコンもなければ携帯もなかったが、今の時代とさほど変わっているようには思えない。高度経済成長を終えて、多少の混乱はあったにしても(たとえばオイルショックとか浅間山荘事件とか)、確実に戦後から新しい日本が見えてきた時代だったように思っていたが、この小説が描き出す同時代はまるで明治時代のように古びている。
それともほんの数年で日本は劇的に変わったとでも言うのだろうか?たしかにベンが「しんじゅく」で働き出した時代の数年後には大阪で万博が行われ、日本国内の人間の交通が新しい時代を迎えた。新幹線は岡山まで伸び、特急網が張り巡らされ、高速道路もあちこちで伸延し、車をもっているなんていうのは当たり前のようになっていた。大学進学率は驚異的に伸びて、その需要に大学そのものがついていけずに、マスプロ授業などと言われるほどの混乱振りだった。それが学生たちの不満を増長させ、あちこちでヘルメット学生たちがあばれたりした。学生たちもアルバイトをして小金をためて旅行したり、好きなものを買ったり、独り立ちして一人住まいをするものをあった。
それに比べると、世界に開かれた未来の日本のために一生懸命外国語すなわち英語をものにしようとしているこの小説の学生たちは、まだ戦後世代なのだろうかと思ってしまう。ほんの数年の違いなのに。ということは1970年というのがやはり時代の分岐点だったのだろうか?それとも西洋人のなかではユダヤ人として特別な目で見られ、日本にいてはガイジンとして特別な目で見られるという二重に屈折したこの作者の特殊な視点が見せる特別な日本の姿なのだろうか、といぶかしく思ってしまう。
タイトルも意味深だ。「星条旗」は普通は視覚的なものだから「見えない」ものだが、「聞こえない」という動詞を使うことで、聴覚的に換喩している。そしてこの「部屋」とはどこだろうか。領事館にあるベンの部屋のことか、それとも彼が家出をして入り込んだ安藤の「部屋」だろうか。
この小説の時代は1968年あたり。つまり現実に私が生きた時代から言えば、大学に入るために大阪に出てくる数年前の時代。主人公のベン・アイザックという、日本のメリカ領事館に勤める父親を持つアメリカ人の視点から書かれているが、ベンに向ける日本人たちのまなざしや態度はまるで黒船がやってきて日本の体制をひっくり返してしまった直後のような雰囲気である。
ベンが日本語を話しかけようとするのに日本人のほうが聞く耳をもたず、ベンの普通の日本語を訳の分からない外国語のように理解しようとしてくれないために、ベンの言葉は吃音者の話す第一音のように、滑らかに日本人の耳に入っていかないというエピソードがその時代の雰囲気をよく表している。
そんな時代に私は高校時代をすごしていたのだろうか、こんな時代のすぐ後の時代に私は大学生活を大阪で過ごしていたのだろうか?と不思議に思う。自分の体験でいえば、もちろんその頃はパソコンもなければ携帯もなかったが、今の時代とさほど変わっているようには思えない。高度経済成長を終えて、多少の混乱はあったにしても(たとえばオイルショックとか浅間山荘事件とか)、確実に戦後から新しい日本が見えてきた時代だったように思っていたが、この小説が描き出す同時代はまるで明治時代のように古びている。
それともほんの数年で日本は劇的に変わったとでも言うのだろうか?たしかにベンが「しんじゅく」で働き出した時代の数年後には大阪で万博が行われ、日本国内の人間の交通が新しい時代を迎えた。新幹線は岡山まで伸び、特急網が張り巡らされ、高速道路もあちこちで伸延し、車をもっているなんていうのは当たり前のようになっていた。大学進学率は驚異的に伸びて、その需要に大学そのものがついていけずに、マスプロ授業などと言われるほどの混乱振りだった。それが学生たちの不満を増長させ、あちこちでヘルメット学生たちがあばれたりした。学生たちもアルバイトをして小金をためて旅行したり、好きなものを買ったり、独り立ちして一人住まいをするものをあった。
それに比べると、世界に開かれた未来の日本のために一生懸命外国語すなわち英語をものにしようとしているこの小説の学生たちは、まだ戦後世代なのだろうかと思ってしまう。ほんの数年の違いなのに。ということは1970年というのがやはり時代の分岐点だったのだろうか?それとも西洋人のなかではユダヤ人として特別な目で見られ、日本にいてはガイジンとして特別な目で見られるという二重に屈折したこの作者の特殊な視点が見せる特別な日本の姿なのだろうか、といぶかしく思ってしまう。
タイトルも意味深だ。「星条旗」は普通は視覚的なものだから「見えない」ものだが、「聞こえない」という動詞を使うことで、聴覚的に換喩している。そしてこの「部屋」とはどこだろうか。領事館にあるベンの部屋のことか、それとも彼が家出をして入り込んだ安藤の「部屋」だろうか。