久保寺健彦『みなさん、さようなら』(幻冬舎、2007年)
小学校の卒業式に父兄の代理と偽って式場に侵入した中学二年生にナイフで同級生が殺されるのを目にした渡会悟は、彼が住む20棟くらいある団地から出ようとするとパニックを起こすようになり、一生この団地から出ないで生きていくことを決心する。そしてまず団地の外にある中学には不登校を決め、毎日筋トレとコミュニティーセンターにある図書室で読書をしたりしながら毎日を過ごすことになる。団地内にあるケーキ屋に弟子入りし、そこで働きながらケーキつくりを覚えて、社会人としても独り立ちしつつあったころ、一人で悟を育ててくれた母親が亡くなり、それを期に団地から出ようとすると起こるパニックも直って、新しい人生を踏み出すまでを描いている。
この小説のもう一つの時系列は、20棟くらいあるこの団地にいる悟の同級生107人がこの団地を出て行く過程でもあり、そして最後の一人が悟だったというオチがついている。
どこかの現存する団地がモデルになっているのかどうか知らないが、いわゆる低所得者用の市営住宅とか県営住宅(東京なら都営住宅)なんかがこの小説が描くように数十年もすると住んでいた人たちが入れ替わってしまい、空き室も目立ち、一種のゴーストタウンのようになってしまうというのは、しかしながら現実だろう。
私の母親も山陰地方のとある中都市の市営団地に住んでいるが、団地の内部は似たようなものだと思う。バス、トイレ、6畳和室が三つ、ダイニングキッチンという間取りだから、3DKってことかな。ここはおよそ築34年くらいになるが、生活するにはなんの問題もない。夫婦二人と子どもが一人くらいなら、十分だろう。ここは年収制限とかはないから、ほぼ空き室はないようだ。もともと私が子どもの頃に生活した場所ではなく、私が大学生になってから親だけが引っ越してきたところなので、私にはまったく親近感がない場所なのだが、もう20年近くすんでいるから、一年に一回は行っているので、なじんできていることは確か。
小説に話を戻すと、この小説を読んでいい感じが残らないのはなぜだろうかと考えてみた。最初は主人公の悟の危うさからきているのだろかと思ったが、彼はどちらかといえば、パニック障害を受け入れて、そこから自分の人生を作っていこうと一生懸命に努力しているわけで、パニック障害を理解しない者からみれば変な子と見えるかもしれない。
ただ彼が団地にすむ同級生をパトロールしてチェックしているというのは、ある意味不気味にはちがいない。彼の意図がどうであれ、今で言うならストーカー的な行為に違いない。そしてそれと同一線上でブラジル人親子へのかかわりもあるように思えるのだ。しかしこういうことに注目するとこの小説の面白みは半減してしまうかもしれない。
この小説はやはり団地小説(何気なく書いたのだが、ちょっとイヤラシイ伴次的意味が生じてくるような、こないような)として読むのが正統的な読み方ではないだろうか?(って意味がよく分からんな)
小学校の卒業式に父兄の代理と偽って式場に侵入した中学二年生にナイフで同級生が殺されるのを目にした渡会悟は、彼が住む20棟くらいある団地から出ようとするとパニックを起こすようになり、一生この団地から出ないで生きていくことを決心する。そしてまず団地の外にある中学には不登校を決め、毎日筋トレとコミュニティーセンターにある図書室で読書をしたりしながら毎日を過ごすことになる。団地内にあるケーキ屋に弟子入りし、そこで働きながらケーキつくりを覚えて、社会人としても独り立ちしつつあったころ、一人で悟を育ててくれた母親が亡くなり、それを期に団地から出ようとすると起こるパニックも直って、新しい人生を踏み出すまでを描いている。
この小説のもう一つの時系列は、20棟くらいあるこの団地にいる悟の同級生107人がこの団地を出て行く過程でもあり、そして最後の一人が悟だったというオチがついている。
どこかの現存する団地がモデルになっているのかどうか知らないが、いわゆる低所得者用の市営住宅とか県営住宅(東京なら都営住宅)なんかがこの小説が描くように数十年もすると住んでいた人たちが入れ替わってしまい、空き室も目立ち、一種のゴーストタウンのようになってしまうというのは、しかしながら現実だろう。
私の母親も山陰地方のとある中都市の市営団地に住んでいるが、団地の内部は似たようなものだと思う。バス、トイレ、6畳和室が三つ、ダイニングキッチンという間取りだから、3DKってことかな。ここはおよそ築34年くらいになるが、生活するにはなんの問題もない。夫婦二人と子どもが一人くらいなら、十分だろう。ここは年収制限とかはないから、ほぼ空き室はないようだ。もともと私が子どもの頃に生活した場所ではなく、私が大学生になってから親だけが引っ越してきたところなので、私にはまったく親近感がない場所なのだが、もう20年近くすんでいるから、一年に一回は行っているので、なじんできていることは確か。
小説に話を戻すと、この小説を読んでいい感じが残らないのはなぜだろうかと考えてみた。最初は主人公の悟の危うさからきているのだろかと思ったが、彼はどちらかといえば、パニック障害を受け入れて、そこから自分の人生を作っていこうと一生懸命に努力しているわけで、パニック障害を理解しない者からみれば変な子と見えるかもしれない。
ただ彼が団地にすむ同級生をパトロールしてチェックしているというのは、ある意味不気味にはちがいない。彼の意図がどうであれ、今で言うならストーカー的な行為に違いない。そしてそれと同一線上でブラジル人親子へのかかわりもあるように思えるのだ。しかしこういうことに注目するとこの小説の面白みは半減してしまうかもしれない。
この小説はやはり団地小説(何気なく書いたのだが、ちょっとイヤラシイ伴次的意味が生じてくるような、こないような)として読むのが正統的な読み方ではないだろうか?(って意味がよく分からんな)