読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「ユーロの野望」

2008年03月11日 | 人文科学系
横山三四郎『ユーロの野望』(文春新書、2002年)

ユーロ関係の本が続いている。今度はイギリスに新聞社の特派員として滞在し、ヨーロッパにおける通貨統合を目の当たりにした経験から、ユーロの政治的な意味についてとくに焦点を絞って書いたものである。田中素香「ユーロ その衝撃とゆくえ」が経済の専門家によるユーロ解説だったのにたいして、こちらはジャーナリストによるユーロの政治性解説のような本になっている。それだけ経済が専門でない私には読みやすかったし、ちょっと目から鱗的な発見もあった。

その第一が、これって本当に定説となっているのか、たんにこの著者が勝手に言っているだけのものなのかよく分からないが、1980年代後半にEU諸国が通貨統合を目指して話し合いを進め、それを実現するためにさまざまな試みをしていたが、それが実って着実に経済成長を進めつつあるのを目の当たりにした東ヨーロッパの共産圏の国々の人々が、このままでは通貨統合にも参加できず、経済発展に乗り遅れてしまうとあせって、ベルリンの壁を揺り動かすことになり、東欧諸国での民主化が大きなうねりとなって実現したというものである。そういわれてみるとそうかもしれない。通貨統合を目指していた国々は東欧諸国から見ればすぐ隣の国々であり、とくに東ドイツの人たちは西ドイツの繁栄・堅実な経済発展に羨望の目で見ていたことは、想像に難くない。

東ドイツに留学していた知り合いがいて、彼が日本に帰国してから東ドイツでの生活の話などを聞いたことがあるが、その中の一つに、彼がいた一年の間に彼の近所で行われていたマンション建設が完成しなかったという話がある。もちろん何十階とあるような高層マンションではない。日本で言えば、文化住宅程度の、数階の小規模マンションである。日本なら二・三ヶ月で完成するような規模のものが、彼が到着したときにすでに工事中だったのに、帰国するときにもまだ工事中だったというのだ。こんな調子だから、そのほかの労働も同じで、仕事は遅い、出来は悪い、品数は少ない、種類もほとんどないという最低の状態というのが東欧諸国の生活レベルだったのだろう。

ユーロに関わるもう一つの発見は、1970年代に日本が空前絶後の石油ショックでそれまでの高度経済成長が止められ重厚長大の技術から軽薄短小のテクノロジーへと転換することで新しい経済成長の波に乗ろうとして、それをもってヨーロッパ進出を果たした頃、日本の優秀な製品に席巻されて門戸を閉ざし、それがゆえに高度なテクノロジーの養成をすることができないまま80年代を迎えたヨーロッパが経済通貨統合によって、その巻き返しをはかろうとした試みと努力、その行き着いた先が通貨統合なのだ、この意味では通貨統合の助産婦となったのが日本なのだと(こんな表現を筆者は使っていないが)いう説明である。なるほどなー!フランスって、たしかに高度なテクノロジーって国じゃないものなーって80年代初めに始めてフランスに行った頃には思っていたけど、ここのところの科学技術の発展はちょっと驚くものがあるのは確かだ。それが日本の経済進出に刺激された結果だったとは、意外!

田中素香「ユーロ その衝撃とゆくえ」がユーロ圏内での通貨統合にいたるまでのさまざまな手続きややり取りを中心に書かれていたのに対して、ユーロ圏と日本、ユーロ圏と世界という関係で書かれているので、世界の動きの中でのユーロというものがよく分かるようになっている。経済的なことについてはほとんど専門的なことは書かれていない。しかし単純に、それまで日本やアジアに投資されていた資金がアジアでの通貨危機などを経て引き上げられて、ちょうど通貨統合の動きが活発化現実化していたヨーロッパに投入されることで、ユーロ実現に拍車がかかったというような説明を読むと、世界の投資家の目がどこに向いているか、どこに将来性を見ているかによって投資の向きが変わり、その地域の経済が活況を帯びたり、不況になったりするというレベルの説明でも、まぁ素人にはなるほどと思わせるところがあった。ユーロについて知るには、素人向けとしてはこのあたりがちょうどいいのかなと思う。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ユーロ その衝撃とゆくえ」

2008年03月08日 | 人文科学系
田中素香『ユーロ その衝撃とゆくえ』(岩波新書、2002年)

私の関心事は、ユーロって強いのか?なぜユーロ高・円安なのか?ユーロはドルとの関係では強いのか弱いのか?ということ。EU関係の本を読んでみたがよく分からない。図書館でそのものずばりの本を見つけたので読んでみた。

だが、著者はこれは入門書だとあとがきで書いているが、私にはどうみても入門書にしてはいったいユーロの今後がどうなっていくのかよく分からなかった。とにかく為替とか先物取引とかといった経済用語がよく分からない。

為替相場。たとえば円高とか円安がどう日本の経済に影響を及ぼすのか、すっと入ってこない。まず円高ってことは1ドル=100円だったのが、1ドル=90円になることだから、そうするとアメリカの同じものを買うのに以前は100円必要だったのが90円ですむようになるのだから輸入に有利になるってことで、輸出は不利になるということは、円高になるってことは日本の産業には不利ってことだな。と、まぁこんな調子で一つ一つ順を追って考えないと理解できないのだから、あとは推して図るべし。

ユーロとドルとの関係でこの本の中で書かれているドルが標準通貨だから有利っていうのがまた分からない。アメリカが双子の赤字をもっているというは有名な話で新聞でもときどき目にするが、この本ではアメリカにとっては赤字なんかはまったく気にすることではないらしい。とくに今は金本位制がくずれているので、赤字がどんだけあっても問題にならないらしい。って、本当かな?

ただこの本を読んで分かったことは、ユーロが、ドルとの変動相場で大変な思いをしてきたヨーロッパのなかでも仏独ベネルクス三国イタリアスペインあたりのEUの中心になっている国々にとって宿願であったということだ。特に当時ヨーロッパでは絶対的な安定をもち信頼感を得ていたドイツ・マルクがユーロ導入に踏み切ったことで、一気に進んだ。そしてドイツ中央銀行の物価安定という第一原則が堅持され、財政赤字を3%以内に押さえ込むという至上命令によってユーロの堅実な信頼感が維持されている。

それにしても10カ国以上の国々の通貨をユーロに統合するというのは本当に冒険だったと思う。政治統合というのはもし失敗したら解消すればいいけれども、通貨というのはいったん始めたら、おいそれとはやめるわけにはいかないし、とにかく毎日のことであるし、生活全てに関わることなので、失敗は許されないものだ。

EUやユーロを維持するために必要な3%以内の財政赤字、数%の成長率、失業率の低下などが、ちょっとやそっとのことでは暴走することはないように説明されているが、旧共産圏の小国がたくさん加盟するとそうしたバランスが崩れるのではないだろうか。なんか綱渡り的な状態だなと、他人事ながら心配しながらこの本を読んだ。

この本の冒頭にもあるように、旅行者としてはユーロ導入は便利この上ない出来事だった。これまで国境を出るたびに両替しなければならなかったのに、ユーロ一つですむ。ユーロに加入していないスイスだって、実際のちょっとした買い物はユーロで可能だ。それはたぶんイギリスでも同じことだろう。

ユーロが成功するかどうかはEUの政治統合と表裏一体でもあるということが述べられている。それはそうだろう。政治経済での統合がうまくいって始めて通貨としての統合も成功するにちがいない。この本はまだ導入直後の2002年に書かれているので、その後どうなったのかという評価はないのが残念だが、国際的な通貨としては導入直後でさえもドルへの依存度が強まっているという統計がある。ヨーロッパやアフリカの一部ではユーロも国際通貨として使われるのだろうが、それ以外のとくにアジアでは完全にドル建てだから、ユーロがドルに対等の通貨となって、ドルの横暴を押さえ込むことができるのかどうかは、先行きが見えない。

ただ円に対してはやたらと強くて、最初1ユーロ=110円くらだったのが、いまや1ユーロ=160円くらいに円安・ユーロ高になっているのはいったいどういう理由なのか知りたいのだが、書かれていないので、分からない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」

2008年03月06日 | 作家サ行
桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(富士見書房、2004年)

なんだかんだ言ったって、小説というものは現実を反映しているものだと思う。現実という言い方がまずければ、現実のとらえ方とでもいうものを。そう思えば、この小説も、けっして奇想天外ではなく、現実に足をつけたものの見方を提示しているのがすぐに分かる。だいたい登場人物も出来事も、けっしてありえないことではなく、まさにありそうなことばかりだ。ただこの少女趣味的な、オタク的なイラストが、それを捻じ曲げている、というか別のベクトルを強く押し出しているために、それが見えてこないだけだろう。

漁師だった父親を遭難で失い母親が生活保護を受けながら、その収入とパートによるごくわずかの収入で生活している山田なぎさの家族。兄の友彦は引きこもりになり、なぎさに言わせれば「貴族」のようになっている。でも彼だけがなぎさの精神的な平衡感覚を保たせてくれる存在なのだ。

そしてなぎさの中学に転向してきた海野藻屑。この町の出身で東京に出て人気歌手として有名になったが今はそのブームも去って戻ってきた海野雅愛とともにやってきた少女。父親の暴力を小さな頃からうけ耳は片方が聞こえず股関節を傷めたために障害をもち障害者として認定されている。しかしストックホルム症候群を示し、けっして父親が悪いとは思っていない。自分は人魚だと思うことで現実から逃避している。

場所は境港のある中学というように実在する町を指定している。近くに自衛隊の基地があるとか港町だとか、実在する境港を示すような説明もあるが、ばらばらにされた藻屑の飼い犬を探しに行ったり、藻屑自身が父親にばらばらにされて捨てられる蜷山は、ちょっと歩いていけるようなところにあるように書かれているが、現実の境港は夜見が浜半島という砂州の先端にある町なので山は存在しない。対岸にある島根半島の山なのかという気もするが、冬に雪が降ってスキーができるような山はないから、このあたりにあるそのような山といえば大山しかない。しかし境港からすぐに歩いていけるような山ではない。また彼らが映画を見に行く場面が出てきて、たぶん米子のことを指していると思われるが、山の奥からずっと出てきたバスに乗ってその町の駅前に行くような描写になっているのも位置関係からすると現実とは違う。

もちろん小説の舞台が現実と違うのは当たり前で、私がここであれこれと指摘をしたのは、境港と冒頭で現実の町が指定されているけれども、小説の舞台は実際には現実の町ではないということを指摘しておきたいからだ。なぜそんなことをするのか?なぜ現実に存在する町を指定しておいて、実在しない町を描いているのか?そこのところが分からない。

この小説がいったいだれをターゲットにして書かれたものなのだろうか?もちろん作者の意図はあるだろう。だがこのイラストを見る限りでは小学生から中学生あたりだろう。とても50歳を超えた私なんかに読んでもらいたいと思っているのではないことははっきりしている。そのわりにはこの現実離れしたイラストとその小説のじつに現実に密着した内容は、まったくミスマッチのように思える。それとも現代の小学生中学生はこういうちぐはぐな、つまり現実を現実としては見ないような生き方をしているのだろうか。そうだとするなら、本当に恐ろしい話だ。

登場人物たちは、私にはみんなまともな人間たちに見える。ただ一人海野雅愛以外は。なぎさはもちろんのこと、なぎさと藻屑のあいだに割り込んでこようとする花名島だって、なぎさの担任だって、みんなまともだ。みんなまともだから異常な事件が起きないわけではない。この小説のおそろしいところは、そうしたまともな人間たちの世界に少数存在する海野雅愛のような人間の異常さをまともな人間たちの根底にもあるかのような描き方をしていることだ。砂糖菓子だとか弾丸だとかという言葉をなぎさに口にさせることで。

しかし本当は彼らはみんなまともなのに、なぜそんな風に異常が人間存在の根底にあるような描き方をするのか。「現代の病理」?

そういう意味では作品そのものの成立要件がホラー的と言えるのかもしれない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「鴨川ホルモー」

2008年03月05日 | 作家マ行
万城目学『鴨川ホルモー』(産業編集センター、2006年)

京都大学青竜会、京都産業大学玄武組、立命館大学白虎隊、龍谷大学フェニックス(朱雀)って、うまい具合に東西南北に伝統のある大学があったものだね。同志社大はちょうど御所の北で、いまは学園都市のほうに移っているから、除外されてしまったのだろう。毎週2日ほどはこのあたりをうろついている私としてはなじみの場所ばかりで、こういう小説にはついつい引き込まれてしまう。

それんしてもこの作者のイマジネーションはすごいね。いったいどこからこんな奇想天外なイメージが湧いてくるのだろう。小鬼たちを操って合戦ごっこをするという、まぁゲームの世界ではよくあるパターンだから、それを知らない私のようなものにはすごいイマジネーションと感心しているけれども、じつはこうしたゲームに慣れている人にはすぐ思いつくものなのかもしれない。それと小鬼のイメージは、あやかしのイメージだろう。

こういうゲーム的な世界をつかって、大学生の青春の一こま―恋する男女の行き違い―を描いたというところと思えば間違いないか。「ベロベロベエ」での新歓コンパでの一目ぼれの行き違い。主人公の安倍は鼻筋の通った早良京子に惚れ、早良京子は芦屋に惚れ、楠木ふみは安倍に惚れたのだった。帰国子女で日本の「常識」が分からないとときどきとんちんかんなことをするが、すぐに調べて解決する高村は一種の狂言回しのような役割を果たしている。

本来なら四つの大学の対決になるはずなのだが、早良京子を間にした恋の鞘当から安倍が芦屋と一緒に「鴨川ホルモー」を続けるのを嫌がり、第17条に基づいて、各大学を二分して計10の隊での勝ち上がりせんになる。そして最終決戦が京都大学青竜会のブルースと神撰組との対決になる。そこで最後の最後に芦屋を追い詰め、彼が「ホルモー」を叫ぶしかない状態になってもそれを叫ばないために火達磨になってしまうのを見た安倍が彼にタックルをしたために、ブルースは反則を取られてしまうが、まぁそういうことは、もうどうでもいい話になってしまう。

最後には、収まるところに収まり、安倍と楠木ふみがお互いを認め合うということで、落ち着くのだ。

それにしても表紙のイラストに四人しかいないのはどうしてだろうか?最後尾にいるメガネの女の子は楠木ふみだろうし、前から二人目のちょんまげは高村だから、その前後にいるそっくりさんは三好兄弟だろう。安倍はどこにいるのかな?安倍は楠木の視線の先にいるってことなんでしょうか?

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日本共産党の研究」

2008年03月02日 | 作家タ行
立花隆『日本共産党の研究 上・下』(1978年、講談社)

上・下ともに大部のこの本を一気に読んだ。一気に読んだことは確かだが、そこからなにを引き出したらいいのか、ちょっと茫然自失状態にある。自分がこうと信じていた多くのことがガラガラと崩壊していく音を現実に聞いているような感じがした。

戦前の共産党の活動についてはコメントをはさむほどの知識はもっていないので、立花隆の驚異的な調査によって、手に取るようにその活動の実態を知ることができたことは、大きな意義があったと思うということだけ言っておこう。

ここでは二つだけ、立花隆のこの研究から得られたところを記しておこう。それは戦前の共産党は戦後の共産党とは関係ないと思っていたが、一続きであるということだ。それはこの研究の最後のあたりで書かれている。敗戦後、解放された党員たちのうち徳田球一をはじめとする戦前の活動家たちが党を再建して再び活動を始めたその理論的出発点が、戦前に共産党が到達していた人民戦線戦術ではなく31年テーゼであったことが、せっかく多くの犠牲を払って到達していた行動指針がまったく戦後に生かされなかったという不幸から戦後が始まった。

さらにもっと理論的でかつ現実的な問題、つまり根本的な問題で戦後の共産党は戦前を継承している。というか本来の共産党の姿に戻ったというべきか。要するに、暴力革命論、プロレタリアート独裁、民主集中制という共産党の三位一体というべき三本柱がそのまま戦後の共産党にも継承されたということだ。たしかに、その後、マルクス・レーニン主義を科学的社会主義に変え、暴力革命論を議会制民主主義を尊重する平和革命論に変え、プロレタリアート独裁をプロレタリアートの執権に変えてはきたが、暴力革命論やプロレタリアート独裁の思想の根底にある史的唯物論を放棄したわけではないのだ。

そして第二の点が、民主集中制である。党内の議論の民主主義は保障するが、行動においては上からの指導によって全体が集中するという、口先ではもっともらしいこの制度が、現実においては共産党内での独裁と国家の強制収容所化を必然化してきたことはソ連、チェコなど多くの社会主義国で見られた現実である。したがってこれを放棄しない限り、国の政治のレベルで民主主義を擁護するといってもだれも信用しないのは当たり前だ。

なんとも政治の世界というのはすざまじい、の一語につきる。またそれとともに、ここまで戦前の共産党の真実を描ききった立花隆のジャーナリスト根性にも敬服する。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする