読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「慟哭」

2006年08月25日 | 作家ナ行
貫井徳郎『慟哭』(創元推理文庫、1999年)

首長のひょろっとした相貌を新聞の広告で見てから、こんな貧相な作者の顔写真なんか載せるなよ、と思っていた。別に作者の相貌は作品とは関係ないが、まだ読んでもいない将来の読者に貧相な作者の姿を見せたら、こんな作者の書いたものなんかたいしたことないだろう、と予断と偏見をもたれたらどうするの!と思わないのだろうか。またそのときの作者のコメントが「絶対に損はさせません」って。大阪のおばちゃんなら飛びつくかもしれないけど、東京の冷めた読者予備軍には、このセリフはきかないでしょう。

さてこの小説は作者の第一作で、第4回鮎川哲也賞の受賞は逃したものの、受賞作にも劣らないという評価を得て、作家としてデビューしたとのこと。たしかに構成は面白いし、最後まで飽きさせない。一見すると、幼女連続殺人事件を捜査する側と犯人の側の行動を交互に描いているので、それが同時進行しているいるように思って読んでいくことになるが、最後でこの二人は同一人物で一年間のずれがあることがわかる。両者の名前が違うのは、捜査一課長の佐伯は警察庁長官の娘の婿養子にはいっているから佐伯を名乗っているのであり、もう一つの物語のほうで松本として描かれるのは、連続幼女殺人事件で自分の娘が殺害され、全てを投げ出して、離婚し、旧姓に戻ったからである。佐伯が調査する幼女殺人事件と、みずからが犯すことになる幼女殺人は前者の結果である。

最後まで読者を騙して読ませたことをどう評価すべきだろうか?だいたい、きちんとした時間的な指示がないかぎり、物語ははじめのページからあとのページへと時間的に進行するものとされているし、同時に書き込まれる物語は、これも明確な指示がないかぎり同時進行しているものと理解するのが普通である。その一番いい例は映画であり、無関係の二つのシークエンスAとBがA→Bの順番に映し出されれば、見る側はBをAの結果とか説明と見る。それがモンタージュの効果であり、そういうものとして映画は作られてきたし、見られてきた。また実際には登場人物を演じている役者は死んでいないが、登場人物がピストルで撃たれて息絶えたように描かれれば、彼は死んだものとして見られる。ところがあれはなんだったかな、トラボルタ主演のなんとかという映画では、そうして死んだはずの登場人物がじつは死んでいなかったとして、なんの因果関係も伏線もなしに、あとで登場してくるが、あれはまったくの映画つぶしの手法だといえる。シークエンスの積み重ねとして作り上げてきた話の流れを、本当はそうじゃなかったと後で否定するのは映画のつくりそのものの否定になるからだ。

この小説も同じように、明確な指示なしに交互に描かれてきた物語は同時進行しているように読まれてしまう。普通はこういう書き方をすると、たんに小説という架空の世界構築のあり方を無視して奇抜さをねらっただけのことになる。そうでないというなら、こうした手法をどうしても取らなければならなかった必然性が必要だろうし、こうすることでしか構築できなかった世界かなにかが読者に見えてこなければならないと思う。

はたしてこの作品の場合はどうだろうか。たしかに佐伯が捜査している幼女連続殺人事件に、その結果としての佐伯(松本)の心身喪失の姿を交互に描いていくことで、読者には佐伯=松本ということは分からないが、なにかしら緊張感が生まれたことは確かだし、捜査主任としての佐伯の緊張感やストレスが、犯人と思いながら読んでしまう松本の人物造形に反映されていくことになる。そういう意味ではこの作品は成功したのかもしれない。でもなんだかひっかかるな。

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