養老孟司『身体の文学史』(新潮社、1997年)
ここで著者が言っていることは、人間の意識は自然の反映だということであり、なにか特別なことを言っているようには思えない。
反映というのは、あらゆる自然現象の土台にあるものである。例えば太陽光線によって石が温まり、夕日には石は赤みを帯びる、水は光線を反射したり屈折したりして事物を映し出し、葉っぱは光合成をして花を咲かせる。
将棋コンピューター・ホザンナについて、そのプログラム開発者が興味深いことを言っていた。もともと過去の譜例を教え込むだけのものだったが、少し前から自分で過去の譜例を学んでいくようなプログラムを組み込んだところ、自らどんどん学んで、いろんな攻め方を覚えるようになり、今ではプログラム開発者でさえ、このホザンナがどこまで強くなるのか分からないことに不安を感じると言う。石や水面や草花、さらに本能から出ることがない動植物、つまり意識を持たない自然と人間の意識の、反映論的違いを、この将棋コンピューターの初期と現在の違いに見ることができる。
人間の反映は自然にたいして反作用を及ぼすようになり、あたかも人間の意識が物を生み出しているように見えることになる。そのもとにあるのは、人間の意識というヴァーチャルリアリティーだ。この著者は、それを「脳化」ということばで表しているに過ぎない。
こうした現象の最たるものが「言語」だと思う。これはソシュールの構造言語学を勉強した者なら比較的分かりやい事柄である。言葉という本来はこうした反映から生じたはずのものがいったん体系化するとあたかも言葉が物を作り出すかのように機能する。
またこの著者がしばしば言うのは、意識と人間の身体が別々だということだ。これも簡単な話だ。上のように反映にはいろんなレベルがある。大雑把に分けても意識と生身の体は相当に違うレベルの反映の仕方をする。意識は自らが最初から存在したかのように振る舞うようになるが、人間の身体は太陽光線を受ければ石が温まるレベルの、反映論的に単純なレベルから、漢方で言うようないろんな要素が絡み合って、身体の変調が生じるというようなかなり複雑なレベルもある。
こうした反映の様々なレベルを一人の人間の意識がバランスよく保てれば、文学など生まれてこないのかもしれない。そうした病的なバランスの崩れを養老孟司は深沢七郎やきだ・みのるやそして三島由紀夫を題材に論じたのが本書だと言える。
私とこの著者の違いは、こうした原理論をもってさらに文明論とか文学論とか歴史論とかに敷衍することができるか・できないかにある。ソシュールの構造言語学の原理からさらに複雑な構造主義的…へと敷衍していった多くの思想家と凡人の私の違いも同じことだろう。
ここで著者が言っていることは、人間の意識は自然の反映だということであり、なにか特別なことを言っているようには思えない。
反映というのは、あらゆる自然現象の土台にあるものである。例えば太陽光線によって石が温まり、夕日には石は赤みを帯びる、水は光線を反射したり屈折したりして事物を映し出し、葉っぱは光合成をして花を咲かせる。
将棋コンピューター・ホザンナについて、そのプログラム開発者が興味深いことを言っていた。もともと過去の譜例を教え込むだけのものだったが、少し前から自分で過去の譜例を学んでいくようなプログラムを組み込んだところ、自らどんどん学んで、いろんな攻め方を覚えるようになり、今ではプログラム開発者でさえ、このホザンナがどこまで強くなるのか分からないことに不安を感じると言う。石や水面や草花、さらに本能から出ることがない動植物、つまり意識を持たない自然と人間の意識の、反映論的違いを、この将棋コンピューターの初期と現在の違いに見ることができる。
人間の反映は自然にたいして反作用を及ぼすようになり、あたかも人間の意識が物を生み出しているように見えることになる。そのもとにあるのは、人間の意識というヴァーチャルリアリティーだ。この著者は、それを「脳化」ということばで表しているに過ぎない。
こうした現象の最たるものが「言語」だと思う。これはソシュールの構造言語学を勉強した者なら比較的分かりやい事柄である。言葉という本来はこうした反映から生じたはずのものがいったん体系化するとあたかも言葉が物を作り出すかのように機能する。
またこの著者がしばしば言うのは、意識と人間の身体が別々だということだ。これも簡単な話だ。上のように反映にはいろんなレベルがある。大雑把に分けても意識と生身の体は相当に違うレベルの反映の仕方をする。意識は自らが最初から存在したかのように振る舞うようになるが、人間の身体は太陽光線を受ければ石が温まるレベルの、反映論的に単純なレベルから、漢方で言うようないろんな要素が絡み合って、身体の変調が生じるというようなかなり複雑なレベルもある。
こうした反映の様々なレベルを一人の人間の意識がバランスよく保てれば、文学など生まれてこないのかもしれない。そうした病的なバランスの崩れを養老孟司は深沢七郎やきだ・みのるやそして三島由紀夫を題材に論じたのが本書だと言える。
私とこの著者の違いは、こうした原理論をもってさらに文明論とか文学論とか歴史論とかに敷衍することができるか・できないかにある。ソシュールの構造言語学の原理からさらに複雑な構造主義的…へと敷衍していった多くの思想家と凡人の私の違いも同じことだろう。