読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「N・P」

2007年06月05日 | 作家ヤ行
吉本ばなな『N・P』(角川書店、1990年)

高瀬皿男という冴えない作家がアメリカで97編の短編小説を収録した「N・P」という短編小説集を出版し、未公開の98話目を翻訳していた、「私」(加納風美)の恋人だった戸田庄司が自殺したという話に端を発し、高瀬皿男の二卵性双生児の乙彦と咲、そして彼の娘でありながら彼と性的な関係にあったうえに、いまは兄弟の乙彦と同棲している萃とか、翻訳家をしている風美の母親とかが登場する。ひと夏のなかで移ろっていく風美の心象風景を描いているといっていいのだが、事件らしい事件はなく、まぁ萃とであったことくらいだろうか。

どうも吉本ばななの登場人物は、まだ初期の作品しか読んでいないので、その時期の作品についての感想なのだが、存在が希薄だ。男も女も若いのも中年も、肉体を持っていないような、心だけが浮遊しているような、そんな人物たちばかりだ。

風美なんか高校生のときから庄司と肉体関係にあり、庄司が自殺した時期には同棲をしていたのだが、なんかそんな雰囲気はみじんも感じられない。乙彦だっていわば姉にあたる萃と恋愛して肉体関係にあるのに、そんなことを思わせる雰囲気はまるっきりない。

もちろん悩んだり苦しんだりするわけだけど。風美は恋人の庄司が突然自殺したあと、かなり長期に言葉が出なくなってしまった経験を持つし、乙彦も突然に萃が出て行ってしまってからふらふらになっていたのだ。私が言いたいのはそういうことではなくて、人間関係におけるどろどろしたもの、それは人間が持つ肉体と精神の齟齬・ずれ・肉体の暴走なんてものからくるようなどろどろしたものがまるっきりないということなのだ。まるで精神だけで存在しているような、そんな感じがするのだ。

私が吉本ばななの登場人物たちの対極にあるものといてイメージしているのは、たとえば奥田英朗の「最悪」とか桐野夏生の「OUT」とかだが、まぁこういう存在感の透明な感じが吉本ばななの特徴と思えば、それはそれでいいのかも。

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