読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『白川静』

2009年01月08日 | 人文科学系
松岡正剛『白川静』(平凡社新書、2008年)

白川静の著作集が平凡社から出版されていることからも分るように、平凡社はかなり早い時期から白川静の著作を出版してきたわけで、その意味からすれば、まさに白川静を紹介するこの本が平凡社新書から出版されるのは当然のことといえる。

また私は、以前に松岡正剛について書いたように、この人は広く浅くの知識の人で、それゆえに基本的な知識の点で多くの間違いをもっていると思っていたので、あまり期待はしていなかったのだが、同じく1970年代の初めから、つまり白川静が岩波新書に『漢字』を書いて、初めてメジャーに登場した直後から、彼自身の機関誌に連載を依頼するなど、白川静の著作の意義をよく理解していたことからも分かるように、ある意味で、白川静についての紹介を書くのにふさわしい人であることがよく分かった。

私は20年以上前から立命館大学には関わりがあるので(別にこの大学の卒業生ではない)、白川静という名前については多少は知っていた。なんだか、60年代終わりの学園紛争の頃に、外では学生と教員との闘争が続くなか、一人個人研究室に閉じこもって研究を続けていたというような伝説的な話を、どこかで読んだような、聞いたような覚えがある(といっても正確ではないから、どうでもいいが)。

私たちの世代にとって(と、一くくりにしてもいいのかどうか不安でもあるが)、中国の古代社会なんて、所詮は無知蒙昧な時代の遺物であり、そんなものを学んでいったいどんな価値があるのかというような、否定の対象にすぎなかった。日本の江戸時代から戦前までの伝統的な学問的基礎としての漢文的素養(とにかく意味が分からなくてもいいから中国の文献を漢文的な読み方で音読していくことによって培われる素養)など唾棄すべきものという意識があった。したがって、そうした漢字の起源をたどるような研究をしている白川静なんて、どうせろくな人間ではないみたいな、考えを抱いていたような気がする。なんとも不遜というか、傲慢というか、底が知れるといわれても仕方がないような態度であった。

だから、学問研究の世界の常として、ほんとうに革新的な研究は、まさに学問研究を極めることによってのみ達することができる境地であって、なんらかのイデオロギーによって予めの偏見、予断をもってしてはけっしていたることはできない。中国でもだれも批判しなかった許慎の『説文解字』を乗り越え、万葉集の研究でも斉藤茂吉をはじめとする、そうそうたる研究者の解釈を完全に翻しすような解釈を提示することができたのも、そうした絶えざる研鑽があったからであろう。

それにしても初期の漢字が呪術の手段として言霊のような働きをもっていたこと、言葉、文字というものが神的な力として使われてきたという解説を読むと、あれあれ、井沢元彦の日本史の三大原理の一つである言霊信仰につながっているのが分る。この本の最後に古代の日本人が漢字を受容し、さまざまな努力をしてそれを日本語として消化していく過程が、ごくおおざっぱにではあるが、素描されている。そうした努力の背景に漢字がもつ神秘的な力への畏敬とそこから言霊信仰が生まれてきたのではないかという話も想像できて、なかなか興味深いものだ。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『生物と無生物のあいだ』 | トップ | 『ジェネラル・ルージュの凱旋』 »
最新の画像もっと見る

人文科学系」カテゴリの最新記事