読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「人体解剖のすべて」

2007年12月26日 | 自然科学系
坂井建雄『人体解剖のすべて』(日本実業出版社、1998年)

いったい何を考えてこんな本を借りたのだろうか、と自分でも不思議。図書館に行ったら返却コーナーでこの本が目立っていた。隣には「人体解剖のすすめ」なんて本もある。「人体解剖学へのすすめ」ならまだわかるが、「人体解剖のすすめ」とは!こんな本を読んで人体解剖してみたいな、なんて思ったらどうするの!人体解剖なんか、してみたいと思ってもできないだろうに。パソコンの自作や真空管ラジオの自作とは訳が違うのに。なんてことを考えながら、借りてしまった。

どうして人体解剖というタイトルの本をみて手に取ってみようという気になったかという心の奥の動きを考えてみると、どうも昨年パリに行ったときにブックオフで買って、モンサンミシェル観光のバスの中で読んだ南木佳司の「医学生」という小説がなんだか心に残っていたからだとしか言いようがない。作者が医学生だった頃に受けた人体解剖実習で同じ班になった四人の医学生のその後を人体解剖実習での描写をかなり詳しく縦糸にして描き出した小説だ。私はそのとき初めて人体解剖の生々しさのようなものを感じたような気がする。

昨年のブログを読み直してみると、そういうことはほとんど触れていない。でも心にはずっと残っていたのだ。現実に、人体解剖をするというのは、そうとうの勇気がいるような気がする。この本には人体解剖にふされるまでの処理についても書かれてあり、ホルマリンを血管に通して身体を固め、そのあとアルコールを通すことでホルマリンの匂いを消してしまうし、アルコールに沈めることで殺菌もされるので、清潔なのだそうだ。しかし意識を変えて、できるだけ物として献体を見ることができれば、気持ちの上では楽なのだろうが、はたしてそんなことができるのだろうか?

しかし「医学生」では解剖に夢中になってしまうなんてことも書いてあるから、やりだしたら興味深いのかもしれない。まぁ切っても血が流れるわけではないし。最近ではMRIなんて優れもののができて、切らずして人体内部を詳細に見ることができるから、解剖なんて必要なくなるかもしれないが、実際の色合いとか質感はやはり解剖して触ってみないと分からないのだろう。やはりそこがヴァーチャルと現実の違いだろうか。

この本は、医学実習としての人体解剖を最初に扱い、それが医者を養成する上でいかに重要であるかを説明している。江戸時代や明治の初期には死刑にあった人とかごくまれに病死した人などを自体解剖していたのだが、その後死後に献体を申し出る人が増えて、今では断る場合もあるくらいだそうだ。自分のことを考えてみると、どっちみち焼いて灰になってしまうのだから、死んで後もなんらかのかたちで人のお役に立てるのはいいことなのかもしれない。断固としてそうだとはいいきれないが。

この本のほとんどは人体解剖の歴史に当てられており、それはそれで中世から近代の始まりの頃の様子というのは面白いのだが、なんだか教科書でも読んでいるみたいで、味気ない。(ってなにを期待していたのかな?)

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