仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

自殺者増加

2021年01月26日 | 現代の病理

コロナ禍で悩み深刻化、命を絶つ小中高生・女性増える

読売新聞1/22(金) 22:05配信

 

 2020年の全国の自殺者速報値は前年比3・7%(750人)増の2万919人で、リーマン・ショック直後の09年以来11年ぶりに増加に転じたことが、22日発表の厚生労働省と警察庁の集計でわかった。小中高生の自殺者は過去最多で、新型コロナウイルスの影響で学校や学業の悩みが深刻化している実態が浮き彫りとなった。

 職業・属性がわかる1~11月でみると、小中高生の自殺者は440人で、過去最多だった1986年の401人をすでに超えた。8月は62人で前年の2倍に上った。

 医師や看護師ら「医療・保健従事者」は前年比17人増の287人で、特に女性(156人)は同25・8%増加した。

 全体ではコロナ禍が長期化し始めた7月以降に自殺が急増。男性は前年より1・0%減少したが、女性は14・5%増えた。コロナ禍で女性が抱える仕事や育児、家庭内暴力などの悩みが深刻化したとみられる。(以上)

 

失業率が1%上がると、自殺者が2.000人増加するとも言われています。コロナ禍で、経済問題の舵取りは、重大です。「お金は潤滑油」という言葉がありますが、本当にお金は血液のように、お金の流れが止まってしまうと、民衆は相当のダメージを受ける事を、このコロナ禍で思い知ることとなりました。

 

以下『入門 家族社会学』(2017,永田夏来・松本洋人編)からの転載です。

 

男性稼ぎ手モデルの持続とその帰結

 

 ここで日本社会に視線を戻すと,アメリカ社会ほどではないものの,配偶者のいる女性の労働力率は上昇している。 2014年に総務省が行った「労働力調査」によれば,配偶者のいる女性の労働力率は40代後半で約71%と最も高く,新婚期や子育て期にあたる場合が多いと考えられる20代後半と30代前半において仏それぞれ約49%と約47%が働いている。配偶者がいても働く女性が増えた結果として, 1990年代には共働き世帯の数が専業主婦世帯の数を逆転し, 2014年には,共働き世帯の数(1077万世帯)は専業主婦世帯の数(720万世帯)を大幅に上回っている。

 しかし,女性の雇用形態に着目すると,日本社会では,このような女性の労働力率の上昇が,男性と同様に稼ぎ手としての地位を得ることには必ずしもつながっていないことがわかる。「労働力調査」の結果によると女性の雇用者のうち、パートやアルバイト、派遣社員などの非正規雇用者の割合は、1985年から2013年にかけて、約32%かた約56%に増加している。その結果として, 2009年の時点においては配偶者のいる女性のうち,正規雇用に就いている者は約15%にすぎない(山田2015)。このように,配偶者のいる女性の労働力率が上昇する一方で,女性労働力の非正規化が進行しており、正規雇用に就く女性がそれほど増えたわけではない。

 

家族の中でおもな稼ぎ手になるのは夫であることを前提とする男性稼ぎ手モデルが強固に持続しているのである。そして,このことは,性別役割分業をその重要な特徴とする近代家族の相対化があまり進んでいないということでもある。(以上)

 

こうした女性のおかれている不安な社会的立ち位置が不安の根底にあると思う。

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なぜ人はカルトに惹かれるのか③

2021年01月25日 | 新宗教に思う

 

『なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から』 (法蔵館・2020/5/15・瓜生崇著)のつづきです。この本が宗教書だと思わせる部分を転載します。

 

 カルトは多くの場合、あなたが生きているのはこのためだ、という明確な答えを与える。あなたの人生はこういう意味があるのだ、あなたの今まで生きてきたのはこの教えに遇うためだったのだ、そして、今後はここに向かって歩んだらいいのだ、と。こうした疑問に答えを与えることで、その疑問に向き合う苦しみや迷いを消し去ってくれる。「もう迷わなくていいのだ。これを私は「真理への依存」とか「正しさへの依存」と名付けている。

 しかし見かけ上消し去っているだけであって、解決しているわけではない。「カルトの提供する答え」という目隠しをさせられているだけである。なので脱会して信者が元信者となり、いわば目隠しを外されたときに、何一つ問題が解決してないことに気づいて、深刻な空虚感や虚脱感に苦しむケースは多い。

 

なぜ「正しさ」は暴走するのか

 思えば人生は迷いと選択の連続で、今まで様々なことに迷い、そのたびにその自分の決断を喜んだり、悔やんだり、苦しんだりしてきた。決断はそれが重いものであればあるほど苦しいものである。そして、自分の決断はすべて自分の人生の中で責任を取らなければならず、代わってくれる人はいない。

 ところがカルトに与えられた答えによっ「正しさに依存」すると、この決断の責任を自分で取らなくてもよくなるのだ。つまりは重要な選択はその教団の教えや指導者の指示に従えばいい。そうすることによって、仮に自分にとって不都合な結果が生じてもかまわない。教義や指導者に従った上での結果は、それが一時的に自分や自分の周囲に耐え難い苦痛や不安を与えることになっても、結果としてそれが、自分の霊的な成長に必要な試練なのだとか、あるいは今は苦しいがもっと大きな幸福へ向かう過渡期にあるのだと説明されたら、それを信すればよいことになる。

 それが明らかに非今理な指示であったとしても、自分にはわからない深遠な願いがそこにあるのだと思えばいいのだ。オウム真理教でもマハームドラーという論理が使われた。これはグルである麻原が俗物のふりをして不条理な指示を出し、弟子が本当に帰依できているかを試すというもので、地下鉄にサリンを撒けという、正気ならとうてい受け入れられない指示であっても「これはマハームドラーだ」と自らに言いきかせて、実行犯はその指示に従った。それによって自分にどんな結果が返ってこようとも、自分の判断を超えた「尊師の判断」によって、それに宗教的な意味づけがされるのである。そうやって「迷って生きていく自由」を放棄することで、人間は実に心地よく楽に生きることができるのだ。

 こうした経験は私にもある。私は親鸞会に属することで「人間は最後に死ななければならないのに、なぜ今を一生懸命に生きるのか」という、長年自分を苦しめてきた問いから解放されていた。なぜなら親鸞会では「絶対の幸福」になることがその答えであり、それが死を超える人生の目的だと教えられていたからである。答えを与えられるということは、問いを放棄させられるということだ。人生の根源的な意味を求める宗教心は、教団から与えられた「正しさ」によって殺されてしまう。だから親鸞会にいる間はそこに迷いはなく、とても充実していたし、何よりどんな行動にも完全な意味が与えられていた。人生の無意味さに対する不安から解放されるのである。(以上)

 

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なぜ人はカルトに惹かれるのか②

2021年01月24日 | 新宗教に思う

『なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から』 (法蔵館・2020/5/15・瓜生崇著)のつづきです。以下、そのまま転載します。親鸞会を脱会の切っ掛けになった部分です。

 

そして決定打になったのが次の一冊、西田公昭著『マインド・コントロールとは何か』だった。この本は「親鸞会がマインド・コントロールして若者を勧誘している」という指摘をする誹謗サイトに、反論する必要性から購入したものだった。私自身が、十年以上大学での勧誘に関わってきたこともあり、私たちがマインド・コントロールなどしているわけがないだろう、何寝ぼけたことを言っているんだ、というくらいの思いで読み始めた。勧誘をしている側にその自覚がないのに、マインド・コントロールなど成立するわけがない、反論など造作心ないことだと無邪気に思い込んでいた。

 そんな態度で読み始めたが、三分の一ほど読んだところで、体中から冷や汗が止まらなくなった。ページをめくる手に汗でべっとりしていたのを今も覚えている。隣のデスクの人から「瓜生講師、なんか体調悪いんですか?」と話しかけられた。そのときの思いを言葉で表現するのは難しいのだが、自分の立っているところが根底から崩されるような感覚であった。とにかくページを読み進むにつれ、滝のように冷や汗が流れたのだ。

 どうしてこんな衝撃を受けたのか。この『マインド・コントロールとは何か』という本は、主に「統一教会(世界基督教統一神霊協会、現世界平和統一家庭連合)が、信者にどのような心理的影響を与えて、信仰をコントロールするのかを述べているのだが、当時の私自身も「統一教会」という多くの批判を浴びている教団に、今さらどうして優秀な若者が入るのだろうか、と疑問を持っていた。最初からわかっていたら絶対に入らないような宗教に、どうして彼らは入信して自分の人生を捧げてしまったのか。

 その問いに、西田は勧誘や育成の過程で使われる様々な心理学的なテクニックを説明し、徐々に信者に「ビリーフ(我々が個人的に保有する知識や信念)」が形成されていく過程を、詳細に論じている。それがどうして衝撃だったか。統一教会が使っている心理学的なテクニックが、私たちが親鷺会で使っていた勧誘・育成手法と恐ろしく似ていたからだ。 つまりは親鸞会で勧誘活動を続けていた私たちは、統一教会に類似したマインド・コントロール的な手法を使っていたにもかかわらず、そうと気づいていなかっただけだったのだ。

 これはとても重大なことで、統一教会が使っているのと同様々手法を使って勧誘していたということは、入信する過程において統一教会信者に起きている心理的変化と、同じことが私にも起きているのではないか、と判断できる。わかりやすく言えば、統一教会の信者は「最初から気づいていたら、絶対に入らなかっただろう非合理な信仰を、マインド・コントロール的なテクニックを用いられて真実だと思い込まされた」と私は思っていたが、「実は自分の信仰もそうなのではないか」と思ったのだ。

 私か「親鸞会での教えは間違いのない真実である」と思っていた信念は、自分が考えて選び取ったのではなく、こうした心理的なテクニックによって、さしたる根拠もないまま思い込んでいただけだったのではないか。私はマインド・コントロールのテクニックは、人を騙そうという悪意の上にしか成立しないと思っていたのだが、実際にはそのテクニックによって信念や信仰を得た人間が、自分かされた同にやり方で布教することで、自覚も背意もないままでマインド・コントロールの伝播が行われる。だからマインド・コントロールをしているという自覚も、されているという自覚も生じないのである。

 「マインド・コントロール」というと、ものすごくおどろおどろしい、オウムが薬物を使って信者に神秘体験をさせたようなものを想像してしまうのだが(私もそう思っていた)、そういうものではない。それは例えば勧誘対象に対して手取り足取り大学のことを教えたり、手作りの食事をごちそうしたり、毎回話の感想を書かせたり、たくさん褒めたり、合宿で寝食を共にしたり、なるべく多くの時間を信者と一緒に過ごすようにしたり、みんなの前で決意表明をさせたり……。こんなありきたりで当たり前のことで、人間の信念がそう簡単にひっくり返るものか、としか思えないようなことが、マインド・コントロールのテクニックの正体なのだ。だからやっているほうも受けているほうもその自覚は少しもない。そしてこの本は、こうした私たちがごく日常で受けている心理的な力を、一つの明確な方向性を持って不断にかつ連続的に与え続けることで、さしたる根拠のない非合理な教理が、いつしか真実として認識されてしまうことを示していた。

 「マインド・コントロール」というと、あたかも信者が「思考停止」してしまい、何も考えずに教理を盲信しているかのように思われがちであるが、これは半分正しいし半分間違っている。詳しくは第三章で触れるが、統一教会にしてもオウム真理教にしても、私が脱会後にこうした団体の信者や元信者に会ったときの印象を言えば、普通の人たちよりもずっと人生や自分の存在意義や、宗教的真実について考えてきた人たちなのである。そして入信後心それぞれが真剣に信仰について考えてきたので、思考が停止していると言われても本人たちはピッとこないだろう。この場合の「思考停止」というのは、「教祖や教団は真実である」ということが思考の前提となり、その前提を疑うことができないことを言うのであって、思考そのものが奪われてしまうのではない。

 

…『マインド・コントロールとは何か』を読んでわかったのは、私が思っていた「親鸞会での教えは間違いのない真実である」ということが、実は自分が考えて選び取った信念ではなく、例えば統一協会の信者が文鮮明王再臨のメシアと仰いだりするのと、その信念の形成のプロセスは変わらないのではないかということだった。簡潔に言うと、「私はひょっとしてマインド・コントロールされていたのではないか」という疑問が湧き上がってきたのだ。 今までずっと、なんて「真実の教団」なのにこんなに矛盾に満ちているのだろうとか、どうして高森会長はこんなに贅沢なのだろうかとか、なんてこんな嘘つき勧誘をしているのだ。(以上)

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なぜ人はカルトに惹かれるのか①

2021年01月23日 | 新宗教に思う

『なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から』 (法蔵館・2020/5/15・瓜生崇著)、読書希望者が多く、図書館で借りるまで時間がかかりました。

 

屠者は、電気通信大学在学中、カルト色の強い浄土真宗親鸞会に入会、同講師部にて十二年間の活動後、脱会し、IT企業や印刷会社のシステムエンジニアを経て、二〇一一年から滋賀県東近江市の真宗大谷派玄照寺住職となった人です。脱会後はカルトの脱会支援活動に尽力するほか、大学や高校、寺院などでカルト問題啓発のための講演をしているとあります。

 

これを読み終わった感想は、宗教書としても、親鸞会の内実、人の心理の傾向など、読物としても興味深く読みました。面白かったといっては失礼なのですが、内容のある良書でした。三回に分けて掲載します。

 

第一章は、著者自身の親鸞会への入信と脱会、その後までの体験記である。カルト教団のネット対策と、自分が脱会に至ったときの状況の描写が興味深かった。その部分を先ず紹介します。

 

主な新宗教教団の名称をネットで検索すると、様々な批判が出てくる。日本の主要な新宗教の多くは2000年頃から信者を減らし続けている。原因には親から子供への信仰継承がうまく行かなかったことや、社会意識の変化などがあるだろう。だが私か様々な教団の脱会者と会った経験から言えば、ネットで教団に批判的なサイトを見たことがきっかけで脱会した、という人は相当多い。感覚的には脱会事例の七割くらいは、ネットがそのきっかけの一つになっていると思う。

 

 当時はヤフーとグーグルで「親鷺会」を検索すると、ずらっと親鷺会批判のページが並んだ。私たちはこれを「誹謗サイト」と言っていた。どうしていいのか見当もつかなかったが、とりあえず消せるものは消そうということで、顧問弁護士に相談して書面を作成し、コンテンツを削除しないと名言毀損で訴えますよと、サイト管理者に通達した。

 

その後は怒濤のように親鸞会に関するサイトを作り続けた。朝八時に出勤し、夜は十一時、十二時くらいまで作っていた。過去の親鸞会の機関紙などの情報を整理してアップすれば、ネタはほとんど無尽蔵と言っていいくらいだった。寝ても覚めてもサイトを作ることばかり考えていた。作ったサイトが数十を超えたくらいから、「親鸞会」の検索結果に変化が現れ始めた。こちらが作ったサイトで検索結果の上位が占められ始めたのだ。(以上)

 

ネットで「親鸞」を検索すると、一時、親鸞会の頁へ行き着くことが多かったですが、こうした事情があったようです。次は、自分が親鸞会を脱会することとなったそのきっかけです。この本が小説だったとしたら、一番盛り上がるところです。何しろ一つの出会いによって、マインド・コントロールから解放される切っ掛けになるのですから。(つづく)

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ジェンダー・バイアス

2021年01月22日 | 現代の病理

『「男女格差後進国」の衝撃: 無意識のジェンダー・バイアスを克服する』 (小学館新書・2020/10/1・治部れんげ著)を借りてきました。日本がなぜ他国に比べて、ジェンダー・ギャップ指数が低いのかが理解出来ました。


これはスイスに本部を持つ「世界経済フォーラム」が発表した「ジェンダー・ギャップ指数」の順位です。吐界経済フォーラムは「ダボス会議」で知られる民間団体で、政治家、経営者など世界のリーダーに影響力を持っています。2006年からは、世界各国の男女格差つジエンダー・ギャップを計測して国別ランキングを発表するようになりました。最新の調査(2019年)で日本は153力国中、121位となったのです。先進国では最下位、多くの新興国・途上国より低い順位でした。

 ジェンダー・ギャップ指数は、政治・経済・教育・健康の4項目で国内の男女格差を測ります。政治は、国会議員や大臣に占める女性比率、経済は管理職・専門職の女性割合、同種の仕事における男女賃金格差、労働力率の男女差などを見ます。教育については初等・中等・高等教育への進学率や識字率を、健康については出生時の男女比率や健康寿命の男女差を測っています。

 各項目を測った結果は0~2の指標で表し、1に近いほど平等、0に近いほど男性優位、1を超えて2に近づくと女性優位になります。日本は健康寿命に関する指標のみ女性が男性を上回っており、識学率は男女差がなく、その他すべては男性優位でした。(以上)

 

本を読んで思ったことですが、なぜ日本においてジェンダー・ギャップがあるのか。それは日本において正義の基準が「みんながそうしている」という普通が基準になっており、ジェンダー・ギャップも、それが普通だからなのだと思われます。

 

本の中に次のようにありました。

 

「男女平等が当然」という認識から出発すると、今ある格差がI割でも2割でも「まだ平等ではない」と思うでしょう。一方で「男女格差かおる現状は自然な状態」というところから出発すれば、4割、5割の格差を1割縮めただけでも「よくやった」と思うはずです。

 ジェンダー以外の例で考えると分かります。電車の定時運行が当たり前の日本では、3分の遅れでもお詫びの車内放送が入ります。30分遅れたら「遅延証明」を発行してもらい、学校や会社に遅刻した理由を説明します。これは「交通機関は時間通りに動くもの」という発想が根底にあるからこそ起きることです。

 公共交頏が日本のように発達していない新興国では事情が異なります。2020年1月初句に出張で行ったインドネシアの首都ジャカルタには、鉄道やバスはありますが、駅やバス停がそれほどたくさんないため、自動車やバイクで移動していました。訪問先のオフィスビルがそこまで見えていても、渋滞にはまってしまい、到着が20分、30分遅れるのは当たり前でした。こういう環境では時間通りに物事が進んだら「すごく幸運だった」と思うでしょう。このように私たちが何を「当たり前」と思って暮らしているか次第で、問題や格子は見えたり見えなかったりするのです。ここには認識バイアスの問題があります。ちなみにインドネシアは直近のジェンダー・ギャップ指数が85位で、日本より高順位でした。(以上)

 

東京メトロ、JRは5分以上遅延すると、証明書が発行される仕組み(ダウンロード)になっています。

 

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