仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

阿弥陀といいう名前

2021年01月20日 | 浄土真宗とは?

本願寺新報元旦号の「赤光白光」に(N)で執筆しましたが、執筆のレギラーメンバーになりました。下記には本日付1月20日号「赤光白光」です。このブログが執筆の題材にになるので助かっています。

 

以前「子どもなんでも科学相談」で、小学生が「鳥はどうして鳥って言うの」と訊ねたこととがありました。鳥は、古文にすでに鳥の表記があり、江戸時代の語源を研究した書には「とぶ・はしり」とあり、その言葉を縮めて鳥となったと答えていました。

「音がそのまま名前となる」。『擬音語・擬態語辞典』(山口仲美著・講談社)に、擬音語から生まれた名前が紹介されています。ネコやヒヨコの名前も擬音語から。ネコは、「ネーネー」叫く可愛い「コ」、ヒヨコは、「ヒヨヒヨ」鳴く可愛い「コ」である。「コ」は、可愛いものにつける接辞とあります。植物の名前も、擬音語に由来するものがある。ペンペン草は、果実の形が三味線の撥に似ていることから三味線の音を連想して名づけられたなどなど。

阿弥陀さまのお話です。『仏説阿弥陀経』に、お釈迦様が舎利弗に「アミダさんって、どうしてアミダというと思うかね」とお訊ねになっています。親鸞聖人は、それをご和讃にされ『摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまる』とあります。このわたしを摂め取って下さる仏さまだから阿弥陀というとのことです。わたしと阿弥陀さまとの出遇いは、わたしから仏へという歩みではなく、仏からわたしへという方向においてのみ実現され体験されて行きます。この如来との出遇いは、「ああ、大きな慈しみよ」「ああ、阿弥陀仏よ」と、わたしが阿弥陀さまのはたらきに身をゆだねるという営みの中にのみ体験されます。その営みこそ他力の念仏です。南無阿弥陀仏が音に響きが、そのまま阿弥陀さまの存在の証しです。

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