仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

言葉と無意識②

2021年01月12日 | 仏教とは?

名前の落掌によって分別が生まれるのつづきです。

少し前に紹介した『わたしの生涯』(ヘレンケラー)に、次のようのようにあります。以下転載。

 ある日、私が新しいお人形を持って遊んでいますと、サリバン先生がつづれ布で作った大きいお人形を私の膝の上において、「に・ん・ぎ・よ・う」とつづりながら二つとも同じ名であることを、私にわからせようとなさいました。その日はすでに私たちは「湯のみ」と「水」とで、たいへん苦しんだ後でありました。サリバン先生はマッグが湯のみでウオーターが水であることを、はっきりと教えるために、苦しまれたのですが、私はいつまでたっても二つを混同しました。先生は失望して、一時中止しておられましたが、機会をみてもう一度試みようとされました。私はくりかえしての試みに癇癪を起こして、新しいお人形を手にとるなり、床にたたきっけました。そして私は砕けたお人形の破片を足先に感じながら、痛快に思ったのです。
私は感情の発作が静まった後も悲哀も後悔もまるで感じませんでした。私はこの人形を愛していなかったのです。それに私の住んでいた沈黙と暗黒の世界にはなんらの高い情操も慈愛もないのでした。私は先生が破片を炉の片隅にはき寄せておられる様子を感じましたが、ただ腹立ちの原因がとりのけられたという満足を覚えたばかりです。ところが先生が帽子を持って来てくださったので、私は暖かい日向(ひなた)に出かけるのだと知って、その考えに、私は喜んでおどり上がったのでした。

(中略)この時初めて私はウオーターはいま自分の片手の上を流れているふしぎな冷たい物の名であることを知りました。この生きた一言が、私の魂をめざまし、それに光と希望と喜びとを与え、私の魂を解放することになったのです。…そうして庭から家へ帰った時、私の手に触れるあらゆる物が、生命をもって躍動しているように感じはじめました。それは与えられた新しい心の目をもって、すべてを見るようになったからです。部屋にはいると、すぐに私は自分がこわしたお人形のことを思い出して、炉の片隅にさぐり寄って破片を拾いあげ、それをつぎ合わせようと試みましたが、だめでした。私の目には涙がいっぱいたまっていました。自分のしたことがわかったので、私は生まれて初めて、後悔と悲哀とに胸を剌されました。(以上)

人形という実体と名前を手に入ったとき「後悔と悲哀」を持ったとあります。まさに分別によって愛着が生まれるということでしょう。

 

このことは『言葉の無意識』のなかでも、東洋の言語思想として語られています。

 

《中観派》とともにインド大乗仏教の二大系統の一つであり、ヅアスバンドー(世親)らによって唱道された《唯識派》においても一切の現象が言葉によって妄分別された仮象に過ぎない、とする立場はナーガールジュナと一致している。

 しかし、現象以前の《空》から、現象的世界が意味化されて登場する過程での深層意識の役割の大きさを強調する点と、その働きの根源に《アラヤ識》を立てる点が前者との主たる相違である。これはソシュールのみならず、フロイトの先取りでもあると言えよう。(以上)

 

とあります。

コメント
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