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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

物語を生きる③

2013年05月01日 | 日記
物語の続編です。25日(25.4)に京都で「物語を生きる」という題で話をしました。“人は物語を紡ぎながら生きている。その物語によって今が意味づけされ、浄土真宗という仏道は、如来(の物語)によって意味づけされていく”というのが話の骨子で、浄土真宗を告げる法話でした。

物語を生きるとは、過去現在未来に関係づけられた今を生きることなのですが、宗教の物語に育まれる生は、宇宙や無限といった大きな存在と関係づけられた生を生きることであるといった理解なのですが、もっと何か深いものがありそうだといった興味から、河合隼雄氏の本を読んでいます。

ご紹介した本の中では『神話の心理学―現代人の生きるヒント』(河合隼雄著・大和書房)が私の興味の沿った話題が提供されています。


“「関係喪失の病」に苦しむ”のタイトルの中に

 哲学者の中村雄二郎が『哲学の現在』(岩波新書)を引いて、科学技術に頼る現代は、客観的に普遍性を求める「科学の知」によっている。この科学の力は、最愛の人の死を受容できない。そして次ようにあります。(以下本より転載)

 中村雄二郎は「神話の知」について、つぎのように述べている。「神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてこらえたいという根源的な欣求であり……」
 「神話の知」によって、私と私を取りまく人や物が宇宙的秩序のうちに意味を持つことになる。[私]は孤独になるはずはない。強力な意味のネットワークによって、しっかりと支えられているのだ。

 昔の人は、そのような支えのなかで安心して生きていた。死んでから行くところについても「神話の知」は答えを提供してくれた。死んでからのために、生きている問に大いに努力して準備する人も多かった。この大たちは死を恐れる必要はなかったし、落ち着いて生きていくことができた。

 しかし、「神話の知」のみに頼っていると、人間の生活は神によってすべて決められたものであって、そこに変化はないし、人間の自由意思もなくなってくる。 人間が自分の自由意思を尊重し、特に「進歩」などということを考えはじめると、「神話の知」は人間を束縛するものとして感じられる。そこで、近代になって「進歩」を大切と考えるようになるにつれ、これまでの「神話の知」をどんどんと棄てて、「科学の翔」に頼るようになった。

 ヨーロッパにおいては、このような過程が長い期間を通じて生じ、その間にいろいろと多様な道を探りながら進歩してきたので、「科学の珀」が大切と言っても、人間と「神話の知」とのかかわりを完全に切ってしまうようなことはせず、いろいろと「関係」を維持する工夫を残しながら現在に至っている。

 これに対して、日本は、近代科学がその姿を相当明確にしてから、一挙にそれを取り入れたので、「科学の知」がどんどん「神話の知」を壊し、日本の現代人で、最初に述べたような「関係喪失の知」に苦しむ人が多くなったと思われる。(以上)

「関係喪失の知」については、よく整理されているようですが、私が思う“宇宙や無限といった大きな存在と関係づけられた生を生きる”域を出ていない。人間を理解するうえで、もっとダイナミックな物語の重要性があるように思うのですが、平面的な理解で終わっているような気もします。
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