
『はじめての大乗仏教』(講談社現代新書・2025/1/23・牧村牧男著)、大乗仏教の入門書です。
言語というものの特質‐名詞は「他の否定」
しかも言葉は、けっしてもとより自律的に存在しているものに対応したものなのではありません。もし外界に自律的に存在しているものがあって、言語はそれらに対応しているのであれば、どの国の言語の名詞も、大体、同じものとなるはずです。しかしたとえば、英語ではツリーとウッドとを分けますが、日本語ではどちらも木で表せます。英語ではデスクとテーブルは異なるもののようですが、日本語ではどちらも机で間に合います。
一方、日本語では、水とお湯は異なるものですが、英語ではどちらもウォーターであり、ホットかどうかの違いのみです。日本語では、兄と弟がいて兄弟になりますが、英語ではまずブラザーがあって、そのなかで年上か若いかで兄と弟が区別されます。日本語では、本来、同じ鰤の魚が、ワラサ、(マチ、ブリなどと成長につれて呼び名が変わりますが、他国でここまで異なる名前かおるわけではないでしょう。フランス語では、魚の名前はひじょうに少ないと言います。
このように、すでに外界に自律的に存在しているものがあって、それらに対応して言語かあるわけではなく、言語はその国語ごとの、世界の切り分け方、分節の仕方を示したものにほかならないのです。ですから、言葉通りに、外界が成立しているわけでもないのです。
しかも言葉、特に名詞の特徴として、名前は必ずしもその対象をポジティブに表すわけでもありません。以下は、仏教論理学者のディグナーガの議論ですが、一般名詞、たとえば牛という語は、特定の牛(個物としての牛)を表すわけではありません。牛の語がもしも特定の牛を意味するとしたら、その他の牛にその牛の語を用いることはできなくなってしまいます。そこで牛一般(一般者としての牛)を表すということになりますが、では牛の一般者(普遍)は、存在するのでしょうか。そういう、いわば形而上学的な一般者なるものが、実在するとは思えません。では、牛という名前は、何を表しているのでしょうか。ディグナーガによれば、それは禹でもない、羊でもない、猿でもない、そういう、たかだが牛でないものではない(非牛の否定)、ということしか表していないというのです。
たとえば、同じ一群の動物に対して、犬と狼の二つの分節しか持たない言語と、犬と山犬と狼という三つの分節を持つ言語とがあるとして、前者では、犬は狼ではないものを意味しますが、後者では犬は山犬と狼ではないものを意味することになります。あるいは、前者では山犬は犬ではないものを意味しますが、後者では山犬は犬でも狼でもないものを意味します。というわけで、名詞は、隣接する他の名詞によって囲まれた範囲のものを意味するのみだというのです。つまり自律的な意味を有しかもの(ポジティブ)なのではなく、他の否定の意味しかないもの(ネガティブ)なのです。
こうして、牛は牛でないものではないもの、非牛の否定を意味するのでしかないということになります。名詞の本質は、「他の否定」(アニヤーポー)でしかない、これがディグナーガの議論です。
そういう、他との相互限定においてのみ意味を持つ名詞を、五感の流れの束に対して適用することによって、その名詞に見合うものが自律的(ポジティブ)に存在していると錯覚してしまうことになります。そこに、事のもの化、実体的存在の誤認という事態が起きることになります。ここに、我々の迷いの認識の根本があるわけです。
というわけで、我々は、言語を修得していくなかで、事の世界をもの化し、自我とものを実体視していくことになります。しかしその実体視されたものは、錯覚のうちに有ると見なされたのみに過ぎず、まったく有るものではありません。有るのは時々刻々変化していく現象世界のみです。そういうことを、唯識説ではより精確に理論的に説明して、我執と法執とから離れさせようとするのです。実際には、六波羅蜜などの修行を経て二言葉とその対象の関係を見究める観察行を修することによって、一定の悟りも開かれていくことになります。
言語というものの特質‐名詞は「他の否定」
しかも言葉は、けっしてもとより自律的に存在しているものに対応したものなのではありません。もし外界に自律的に存在しているものがあって、言語はそれらに対応しているのであれば、どの国の言語の名詞も、大体、同じものとなるはずです。しかしたとえば、英語ではツリーとウッドとを分けますが、日本語ではどちらも木で表せます。英語ではデスクとテーブルは異なるもののようですが、日本語ではどちらも机で間に合います。
一方、日本語では、水とお湯は異なるものですが、英語ではどちらもウォーターであり、ホットかどうかの違いのみです。日本語では、兄と弟がいて兄弟になりますが、英語ではまずブラザーがあって、そのなかで年上か若いかで兄と弟が区別されます。日本語では、本来、同じ鰤の魚が、ワラサ、(マチ、ブリなどと成長につれて呼び名が変わりますが、他国でここまで異なる名前かおるわけではないでしょう。フランス語では、魚の名前はひじょうに少ないと言います。
このように、すでに外界に自律的に存在しているものがあって、それらに対応して言語かあるわけではなく、言語はその国語ごとの、世界の切り分け方、分節の仕方を示したものにほかならないのです。ですから、言葉通りに、外界が成立しているわけでもないのです。
しかも言葉、特に名詞の特徴として、名前は必ずしもその対象をポジティブに表すわけでもありません。以下は、仏教論理学者のディグナーガの議論ですが、一般名詞、たとえば牛という語は、特定の牛(個物としての牛)を表すわけではありません。牛の語がもしも特定の牛を意味するとしたら、その他の牛にその牛の語を用いることはできなくなってしまいます。そこで牛一般(一般者としての牛)を表すということになりますが、では牛の一般者(普遍)は、存在するのでしょうか。そういう、いわば形而上学的な一般者なるものが、実在するとは思えません。では、牛という名前は、何を表しているのでしょうか。ディグナーガによれば、それは禹でもない、羊でもない、猿でもない、そういう、たかだが牛でないものではない(非牛の否定)、ということしか表していないというのです。
たとえば、同じ一群の動物に対して、犬と狼の二つの分節しか持たない言語と、犬と山犬と狼という三つの分節を持つ言語とがあるとして、前者では、犬は狼ではないものを意味しますが、後者では犬は山犬と狼ではないものを意味することになります。あるいは、前者では山犬は犬ではないものを意味しますが、後者では山犬は犬でも狼でもないものを意味します。というわけで、名詞は、隣接する他の名詞によって囲まれた範囲のものを意味するのみだというのです。つまり自律的な意味を有しかもの(ポジティブ)なのではなく、他の否定の意味しかないもの(ネガティブ)なのです。
こうして、牛は牛でないものではないもの、非牛の否定を意味するのでしかないということになります。名詞の本質は、「他の否定」(アニヤーポー)でしかない、これがディグナーガの議論です。
そういう、他との相互限定においてのみ意味を持つ名詞を、五感の流れの束に対して適用することによって、その名詞に見合うものが自律的(ポジティブ)に存在していると錯覚してしまうことになります。そこに、事のもの化、実体的存在の誤認という事態が起きることになります。ここに、我々の迷いの認識の根本があるわけです。
というわけで、我々は、言語を修得していくなかで、事の世界をもの化し、自我とものを実体視していくことになります。しかしその実体視されたものは、錯覚のうちに有ると見なされたのみに過ぎず、まったく有るものではありません。有るのは時々刻々変化していく現象世界のみです。そういうことを、唯識説ではより精確に理論的に説明して、我執と法執とから離れさせようとするのです。実際には、六波羅蜜などの修行を経て二言葉とその対象の関係を見究める観察行を修することによって、一定の悟りも開かれていくことになります。
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