仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

鏡に映った私

2020年04月03日 | 日記
葬儀で新型コロナウイルス感染があったので、近隣の葬儀は、地本の農家の葬儀まで「新型コロナの為、家屋葬で家族葬で」という通知が回っています。昨日のお通夜では、通夜のお勤め前に、お焼香だけして帰る人も多く、東京圏では通夜振る舞い(食事)を出すケースが多いのですが、お弁当をお持ち帰りで配布していました。久しぶりのお弁当を2つ頂戴して帰宅しました。

4.5月の法話や研修会の出向は、全てキャンセルの連絡が入りました。仏教婦人会総連盟から、総会や研修会が未開催なので、会員を励ます法話集を出したいのでという原稿依頼があり、先月寺報に掲載した原稿を送信しました。下記の法話です。

鏡に映った私
札幌市営地下鉄のコンコース(改札外の人々が行き交うスペース)には、大きな鏡が設置されているといいます。これは1971年の開業以来相次ぐ自殺を減らすために、1984年から設置されたもので、その効果は劇的で、世界的に報道されました。なぜたった一枚の鏡で飛び込み自殺が減少するのでしょうか。私自身、外でお酒を飲んで、鏡に映った、酔っぱらった自分を見る事があります。そなとき、酔っぱらっていない自分が、自分の中いることに気づきます。
人はいつから鏡に映った自分を自分だと知るのでしょうか。ある実験です。まず子どもに気づかれないように、ハンカチにつけた口紅を、顔を拭うふりをして子どもの鼻の頭につける。そしてその子を鏡の前に連れて行きます。子どもが鏡を見たとき,口紅がついている自分の鼻の頭を触れれば,鏡に映った自分を自分だと知っていると判断します。その結果、九ヶ月や十二ヶ月の乳児は、鼻に触った子はいませんでした。十五ヶ月になると二割程度が鼻に触るようになり、二歳を過ぎる頃になるとほとんどの子どもが鼻に触ったそうです。
最近の研究だと、チンパンジーや像やイルカも、鏡に映った自分を自分だと知ると言われています。ゴリラは、鏡のある部屋に半年いても、鏡に映った自分が自分だと気づかなかったそうです。
ではその自分とは何者か。これを知るのは人間だけです。浄土真宗ではこの私を「煩悩を具足せる凡夫」であると説かれています。凡夫の私が明らかになる。それは本物にであったときウソが明らかになるように、凡夫でない仏さまの智慧のはたらきがあったということです。阿弥陀仏という仏さまは、私を迷える凡夫だと知らせるはたらきそのものであり、その愚かな存在を救うというのが慈しみの仏さまです。(以上)
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